(投稿日:2012年03月23日)
●―1:藤田踏青【近木圭之介】
ひかり再び閉じ 少年よぎる 平成10年作
今回のテーマ「幼」の「幺」とは糸の上半分の形であり、糸は絲の半分、幺は糸の更に半分で、細く小さい意であり、それに添えられた「力」は弱く小さい意を示している。それ故、満ち足りない意を含む「少年」もその範疇に入ると考えた。
この句の「ひかり」とはいったい何を指しているのであろうか。単なる光であるのか、又は希望や光明であるのか。「少年」とは対象であるのか、または作者の内なる存在であるのか。それは作者の視点、立ち位置に関わるのであるが、「再び閉じ」とあるので希望と内なる存在としての少年と考えると、この句の時間の幅が拡がってくると思われる。特にこの句の前後には次の句が置かれている事もその理由となる。
列島悪の構図 体の穴みな怒り噴く 平成10年作
ひと夏すぎ 隅の埋まらぬ図残し 々
社会悪、それへの憤り、自己への不満の残滓、そして失われた希望。それらを全てひっくるめた総称として、かつての「少年」が一瞬心の中をよぎったのではないであろうか。またその「ひかり」には少年が内に秘めたナイフの凶のようなものも含んでいるようだ。それを想起させるのが次の句と詩である。
銃持った少年青い夏へ引き金を引く 昭和16年作 注①
パレットナイフ 2 抜 注②
Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た
どこにも通り抜ける道を持たずに
――いらだちのサラダ私に青い
Ⅳ 刃のごとく窓に映る河
内なる凶
沈黙と溶暗
これらの詩、句を読んでいたらいつしか稲垣足穂の「少年愛の美学」を思い浮べていた。足穂はA感覚(アヌス)の主導性とV感覚(ヴァギナ)、P感覚(ペニス)の補助的存在を指摘する事によって、性の倒錯を包含した少年への感覚を謳いあげていた。
「V」とは水増ししたAであって、女性とは「万人向きの少年」を云い、V感覚とは「実用化されたA感覚」に他ならない。 (稲垣足穂)
ここには同性愛とはまた違った「少年」という両性具有的な存在を見ろ事が出来るのだが。掲句の少年もそういった作者の奥底に秘められたデジャビュの様な存在ではなかったのではなかろうか。
注①「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊
●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、【テーマ:流転】赤坂時代(戦中編)
新しき婢が気に入らず春の風邪
昭和16年(1941)の俳句手帳より2月24日、女主人もすっかり堂に入った暮らしぶりがうかがえる句である。きくのは「春蘭」昭和13年3月号のエッセイでも女中難を嘆いている。戦前の家庭では、家族が多いこともあり、住み込みの女中がいるのは特別ではないとはいえ、その多くは10代の地方から出てきた少女であることを思うと、茶の湯に通じ、都会暮らしの煤煙で足の裏がざらつくことをなにより嫌う潔癖なきくのを満足させるのは至難であったかと思われる。
句会に吟行にと熱心に続けていた「春蘭」は、昭和15年(1940)戦争のため6月号で廃刊し、10月には東京在住の岡田八千代などとともに、大場白水郎を選者に「縷紅」を創刊する。
「ホトトギス」虚子選を叶え、「縷紅」にも投句を続け、きくの調を勢力的に模索するなか、昭和16年(1941)1月から昭和17年(1942)4月までが記された俳句手帳には6月1日、大連へと旅立つとある。旅吟は機上から始まり、大連、特急アジア、奉天、北陵、ハルピンと、異国を詠みつくす勢いで手帳に書き記している。この旅行を終え、俳句手帳のきくの作品は数も質も高まりを見せる。
昭和17年(1942)には生涯のライバルとなる鈴木真砂女と初対面し、翌年には「縷紅」幹事として名を連ね、投句先には赤坂福吉町の住所が記された。
夏蝶のあるひは低く草の中 「縷紅」昭和17年8月号
羅やまたその癖の腕まくり 〃
額の花の上にも道のあるらしく 「縷紅」昭和18年8月号
俳句への情熱が年ごとに高まるきくのであるが、昭和19年(1944)、用紙の入手困難となり「縷紅」は休刊となる。
東京では昭和19年(1944)に学童疎開が始まり、日本の敗色も深まりつつあったが、福吉町の屋敷のなかできくのは割合のんきに構え、疎開についても鷹揚だった。しかし、昭和20年(1945)3月10日以降のある事件によって、疎開の覚悟を決めた。それは、隣の黒田邸の森から早朝夥しい数の鴉の群れが一斉に下町方面へと飛び立ち、夕方また一斉に戻ってくる光景を不思議に思っていたところ、大空襲に襲われた下町へ餌をあさりにいくと知り、その餌となっているもののおぞましさに居ても立ってもいられなくなったのだ。
4月にきくのは信州の小諸から6キロほど入った平原という浅間山麓の農村へ疎開する。農家の一隅にある離れを借りていたということだが、この間の俳句はどこを探しても出てこない。随筆集『古日傘』で一編だけ疎開時代の思い出を書いた文章があり、所用で隣村への一里あまりの道すがら、雑木紅葉が見事であったとあるから、いたって気楽な生活を送っていたかと思われる。
赤坂福吉町の家は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲であっけなく焼失した。
●―4:飯田冬眞【齋藤玄】
みどりごをつつみに来るよかげろふは
昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
「男」の項でも少し触れたのだが、昭和25年を境に斎藤玄は子供の句を作らなくなった。そして、昭和28年には、主宰誌である「壺」の結社活動から離れ、俳句を作ること自体を中断してしまうのである。その原因として玄本人は結社の同人たちが作句精進を怠り、互いに足の引っ張り合いや陰口をたたきあう浅ましさに嫌気がさしたことをあげている(*2)が、それは建前に過ぎないだろう。もちろん、昭和20年の終戦直後に「壺」誌を復刊、文字通り家財をなげうって俳句の革新に精魂をこめ、結社制度の改革にも心血を注いできた玄にとってみれば、新しい俳句を作ることもよりも結社内の地位と権力を得ることに明け暮れる弟子たちに幻滅したのは事実だろう。しかし、昭和26年に北海道銀行に入行し、主宰誌の発行所であった函館の自宅を引き払ったのは、すくなからず、経済的な理由もあったに違いない。その遠因と思われるのが、小児麻痺となった長男の治療費を稼ぎ、家計を支える父親の役割を果すためではなかったかと仮説を述べた。
齋藤玄の長男は昭和21年に生まれたらしい。語尾を濁すのは、玄は最初の妻節子との間に二女一男を儲けており、長女や次女誕生の際にはそれぞれ前書付きでその喜びの句を連作として残しているのだが、長男誕生の際にはそれらしい前書は見当たらないからだ。句の内容から推察できるのは次の一句だけである。
俳諧に霰飛び散り長子得し 昭和21年作 『玄』
作句時の昭和21年は俳句史に残る大事件が起こった年である。上五中七の〈俳諧に霰飛び散り〉は、おそらく桑原武夫が昭和21年に雑誌『世界』の9月号に発表した「第二芸術」論を受けて、俳壇が受けた衝撃を象徴的に把握した表現だと思われる。そこに下五〈長子得し〉をつけたのは、齋藤玄一流のエスプリに思われてならない。この〈長子得し〉は字義通りに長男が生まれたという意味だろうが、桑原の論に激烈に反論した中村草田男の代表句〈蟾蜍長子家去る由もなし〉の「長子」を俳味として響かせているようにも思う。俳人たちが大騒ぎしている一方で、自身は長男を得たということを俳風仕立てにしただけのもので、感情は抑制されている。長男を得た喜びを読み取ることはできない。
落雲雀子は雑草にもつれを 昭和25年作 『玄』
麻痺の子の矢車夜半を鳴り出づる 昭和25年作 『玄』
梅天や麻痺の子持ちしわが惨事 昭和25年作 『玄』
麻痺の子を眠りに落す木下闇 昭和25年作 『玄』
麻痺の子の行水あはれ水多し 昭和25年作 『玄』
一句目は昭和25年に発表された「麻痺童子 わが長男左膊小児麻痺にて不随 十三句」の冒頭の句。〈落雲雀〉が空から垂直に降下するさまと雑草に足をとられて転ぶ幼子の姿をうまく重ね合わせており、長男を取り巻く家族の人生が急降下してゆくことまでも暗示させている。
二句目は自註の記述から見て行くことにする。
四歳の長男が小児麻痺で左膊を不随にした。不治と聞き悲しみは深く、男の節句が来ても僕は悶々とした。夜の矢車の音にいっそう悲しみは深い。(*2)
この自註の記述によって、ようやく昭和25年当時の長男の年齢が判明し、生年が昭和21年であることがわかる。全句集の年譜にも長男のことはいっさい記述がない。〈矢車〉は鯉のぼりの竿の先端に取り付けられた矢の形をした輻(や)を放射状に取り付けたもの。端午の節句を迎えても不治の病に取りつかれた長男の将来のことを思うと悶々として喜べなかったという玄の深い悲しみが〈矢車夜半を鳴り出づる〉ににじみ出ている。矢車のカラカラという音が長男の宿命の重さを感じさせて切ない。深い哀感が伝わってくる。
三句目は、玄にしては珍しく自己の内面を吐露した句。しかも〈わが惨事〉などという自己憐憫にまみれた言辞は抑制もなく、子を慈しむ気持ちの片鱗すら見えず、詩として成立していない。
四句目は障害を持った子を介護する苦労がしのばれる句。〈木下闇〉の涼しさで〈麻痺の子〉のあどけない寝顔が見えてきて救われる。
五句目は〈あはれ〉に父親になりきれていない作者の独善性が露骨に表われており不快である。幼子が不如意なからだで行水にはしゃいでいるならば、なぜ一緒に裸になって幼子を抱きしめて水まみれになれないのか。
みどりごをつつみに来るよかげろふは
そして25年間詠むことのなかった子供の句である掲句を見てゆくことにする。
飯田龍太はこの句について次のように誤読する。
眺める側のよろこびが不安を上廻つて微笑にかわり、そのこころをかげろう包む。それなら対象に自他の区別をつける必要はあるまい。(*4)
みどりごを眺めていた玄の心中に龍太が言うような「不安を上廻」る「よろこび」など、ほんとうに湧き上がっていたのだろうか。〈かげろふ〉に包まれる〈みどりご〉に麻痺童子の長男の姿を幻視したからこそ、「かげろうが魔女の手のように思えて、しきりに不安だった」(*5)と記したのではないか。幸せは一瞬に過ぎず、苦痛は永続する。玄は長男の人生を通して、その苦さを知り尽くしていたはずだ。
幸せなものを見ても過去の経験に引きずられて不安に取り込まれてしまう人間の愚かさを描いた句であると私は思う。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 齋藤玄年譜 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*3、5 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
*4 飯田龍太 『雁道』の秀句 『俳句』昭和55年6月号所収 角川書店刊
●―5:堺谷真人【堀葦男】
鉄のけものら橋ゆすり過ぎ酢を抱く子
『機械』(1980年)所収の句。
『機械』は第一句集『火づくり』に続く第二句集。1962年夏から1967年秋に至る約5年間の作品から444句を収録している。「機械」「太陽」「渦潮」「蝶宇宙」「母」「赤道草原」「修羅」「水辺」という8章構成の劈頭に置かれた「機械」のこの句およびその前後の作品には、「海程」草創期の葦男俳句の特徴がよく出ている。すなわち大阪から神戸にかけての工場、倉庫、港湾、建設現場などに取材したとおぼしき、産業俳句ともいうべき作品群がそれである。当時の葦男作品は重量感に富むメタリックな形象に満ち、行間には高度経済成長を牽引した様々な機械たちの稼動音や軋みが通奏低音のように鳴り響いているのだ。
燃える冬霧機械ぞくぞく被覆脱ぎ
機械焦げるにおい夕空薔薇を溶かし
ルビーにまさる夜の起重機の灯を動かす
重い上げ潮 動くものみな装甲され
さて、本稿冒頭の句である。
積荷を満載したトラックや建設用重機が陸続として渡る橋。可載重量ぎりぎりの荷重を受けて揺れる橋梁。ふと視線を移すと、騒音と土埃が立ちこめる橋のたもとには、お遣いの帰りなのであろう、酢の壜を抱いて立つ子どもの姿があった。
荒々しい車列の傍らにぽつんと点描された子どもは一見、寄るべなく痛々しい。しかし、彼もしくは彼女は単に無力な、庇護すべき弱者なのであろうか。否、そうではあるまい。酢の入った壜を両の手にしかと抱く子どもは、れっきとした家事労働の一翼の担い手なのであり、「酢を抱く」という構えはその子の責任感の表れに他ならないからである。
そういえば、赤塚不二夫の代表作「天才バカボン」にこんなギャグがあった。ママから豆腐を買って来るよう頼まれたパパが用件を忘れないよう「トーフー、トーフー、トーフー・・・」と口ずさみながら道を急ぐ。が、いつしか逆転して「フートー、フートー、・・・」となり、最後は文具店に飛び込んで「封筒ください!」と叫ぶのである。
恐らくこのギャグの背景にあるのは「お遣いという役割を通じて社会化してゆく子ども」という一種の成長モデルである。幼児は大人や年長者の庇護を片務的に必要とする存在であり、原則的にお遣いを任されることはない。一方、幼児期を脱した子どもはお遣いを頼まれるようになる。いや、初めてお遣いを頼まれたときに人は幼児期を卒業するのだともいえよう。年齢や体格、IQ検査で測られる精神年齢などはなるほど子どもの成長のメルクマールとして重要であるが、親や年長者の側が子どもに何を任せるかという観点も実は同じくらい重要なのである。
橋のたもとの「酢を抱く子」は無事に家に帰り着いたであろうか。
●―8:岡村知昭【青玄系の作家】(欠稿)
●―9:しなだしん【上田五千石】
涅槃会や誰が乗り捨ての茜雲 五千石
第四句集『琥珀』所収。昭和五十八年作。
五千石はこの句の制作年で五十歳。中年も終りの時期で、俳句の面でも成熟期にあたり、今回のテーマ「幼」とは無縁にも思える。
◆
この句の季語である「涅槃会」は、釈迦入滅の忌日の陰暦2月15日に行う法会。寺によっては月遅れの3月15日に行なわれているところもある。だが実は、釈尊が入滅した月日は実際には不明で、2月15日は中国で決められた日付であるようだ。
掲出句は一見美しい茜雲の句で、詩情もあるように感じる。読者によっては渋い句、と感じる向きもあるだろう。「誰が乗り捨ての」は、季語の「涅槃会」から釈迦を思い浮かべるかもしれない。ひいては亡くなった人をイメージする人もいるだろう。
◆
ところで、掲出句には“もの”として認識できるのは「雲」と、空間としての「涅槃会」である。物質的な“もの”はない。ものに拠らない詩は、どこか幼さがあるように思う。
だが、この句の幼さはそれだけではない。「乗り捨ての」の部分だけに着目してみると、「乗り捨て」ということは、乗っていた誰かが去った、ということになる。掲出に幼さを感じるのはこの「雲に乗る」という発想かもしれない。この発想は古典的なもので、雲に乗る、というのは男がずっと持ち続ける詩心とも言えるのではないだろうか。
そういう意味でも季語である「涅槃絵」が、単なる古典的な男の詩に陥るのを防ぐ役割を果たしている。
◆
娘の日差子氏によれば「俳句をやると幸せになれるよ」が五千石の口癖だったという。俳句を信じていた五千石であろう。母に全幅の信頼を寄せる子のように、俳句を信じる。「信じること」はどこか無邪気だ。幼さは大の男にも、男の作る詩にも潜んでいる。
●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】
鳴らすコップが妻の弔鐘虹這う窓
逆さに伏せたコップと鐘---コップに触れる響きと鐘の音、特に弔鐘という限り悲しい音色であるはずだが、むしろその配合を楽しんでいる節がある。「弔鐘」は憲吉自得のことばであろう。
くりやごと(台所の仕事)が家庭の平安の象徴であるとすれば、楠本家におけるそれは、夫婦の間の修羅により地獄と化している日常の一齣である。妻にとっては日々の浮気の絶えない夫を持って、黒いベールを纏った未亡人の心境であったろう。虹すら、蜈蚣のように窓硝子に貼り付いている(昔、虹は貝の一種の吐く気だと思われていたからさほど間違っているわけではないが)。
けしからぬのは、ことの責任はすべて夫にあるのにもかかわらず、苦々しく思いながら楽しんでいる点である。明るいリズムでこんなに詠まれたらたまったものではない。
そこで無言の妻に戴冠カンツォーネ
これもかなり妻を侮った句。妻が無言となるには理由があるのだが、---そしてそれは夫の行為に帰責するのだが、そうした反省はない。「戴冠」とは「乾杯」に通じる趣がある。だから「お前さんは女王様だよ」と言わんばかり。カンツォーネはイタリアの歌曲であるが、そうした小芝居の背景に朗々と歌われるのにふさわしい俗曲だ。
このような倫理的欠陥があるにも関わらず、リズミカルな詠みぶりは魅力的である。どんな困難があろうと、積極的、肯定的な態度で望めるところが憲吉の持ち味であろう。必ずしも575にこだわらず、特に上5に字余りを盛んに用い、日常のディテールをゴタゴタと盛りこむ。にもかかわらず独自のリズム感があるから不快ではない。「そこで」などという詩歌の冒頭にはあり得ない言葉を盛りこんで憲吉の世界に導入する。お前は何ものだ、と言いたいが、きっと俺は本物だ、と答えるにちがいない。
憲吉の句を読むには憲吉になりきらないといけない。共感しないといけない。そして憲吉になりきると---心地よい。ちょっとしたピカレスクロマンであり、誉められたことではない。誉められないが止められない。これが憲吉の秘密である。
●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】⑱―㉕
⑱顔古き夏ゆふぐれの人さらひ
「人攫い(ヒトサライ)」という言葉を聞かなくなって久しい。「ヒトサライが来る」と言われていた頃、それは本当のモノノケであると信じていた。それは誘拐犯でもあり、鬼のような形相で私を抱え、別の世界(恐らく黄泉)へ連れて行くのだと思っていた。そうでなくても暗闇と夜のトイレ(御手水、御不浄という方がふさわしい)が怖くて仕方がなかった。その怖さが最高潮になるのは、自宅までの商店街から路地50メートルほどの夜道だ。外灯付の電柱が3本あるが、いまだに心細い灯りである。路地の入口に御稲荷様と庚申塔を備えた機織工場がある。夕方になると小柄で健脚な男性が袈裟と頭巾を着装し太鼓を鳴らながら足早にやってくる。今から思うとそれは日蓮宗(あるいは新宗教)の唱題行脚修行だったようだが、それは別世界の入口でもあった。ソロバン塾の帰りにその闇を通らねばならない。目を固く閉じたまま、ひた走る、ただただ怖くて走る。ヒトサライという神隠し、モノノケが本当に出ると信じていた。
最近になり、シャッター街となった通りから同じ路地を日没後に歩いた。庚申塔は今もあるが、機屋の工場からは何の音も聞こえず、道沿いの子沢山だった牛乳屋さんも顔なじみだったファスナー職人のおじさんも亡くなり、空地になっている土地もある。向こうから外套着の男性らしき人が歩いてくる。街燈の下ですれ違っているのに顔だけが見えない。姿は見えるが、本当に顔だけが何も見えないのだ。暗がりでは人の顔が見えない。都心では考えられない光景だった。この道にはやはりモノノケが潜んでいると改めて確信した。
「ヒトサライ」について調べてみると、人が忽然と消えるような事象を「神隠し」と片付けていたが、戦後、身代金請求や誘拐報道が生々しくテレビ放送されるようになり、具体的に「ヒトサライ」という表現が定着していったという説があるようだ。過疎地域の子供、若者は船乗りや鉱山労働者、農奴、売春婦などに実際に身売りされたという事実もあり、いわゆる人柱といわれた社会問題があった。平成になり一気に表面化した深刻な「ヒトサライ」は、1970年頃から80年頃にかけての北朝鮮による日本人拉致多発だろう。今も未解決問題であることが報道されている。実際に「新潟の海に行くと、ヒトサライに逢う。」と本当に言われていた。モノノケは本当に私たちの生活の中に実在し、『眞神』が生まれた時代には恐ろしい事件が多発していた。そして現代にもある「ヒトサライ」は、社会の暗闇のような恐ろしい事件であることが多い。
人が忽然と姿を消すことは、敏雄の中にある、自分自身のリセット願望とともに敏雄自身の何かの消失からきている言葉なのかもしれない。
ここでキーワードとなるのは「顔古き」という措辞である。顔が古いというのは「年老いている」という意味合いと「顔なじみである」という解釈があるかと思う。幼少経験から解釈すると、「顔古き」は「顔なじみ、知っている人」ということかと解釈できるのだが。「顔新しき」としてみると、「ヒトサライのくせに新顔じゃないか」と攫われる側が想うということになる。
掲句を見ていると、彼の世にいる牛乳屋のおじさん、ファフナー作りのおじさん、そして日蓮修行僧が蘇る。今も暗い路地を通ると、そういうおじさんたちが、今、どこか別の異界へ連れていこうとする姿をふと想像する。怖さの中にどこかファンタジーがある。
『眞神』には当時の事実に裏付けされた事象がありながら、時代に読みづがれてきた神話、童話の世界がある。逆に神話、童話は、歴史の事実を元に語り継がれてきたことであることにも気が付くのである。
⑲鬼やんま長途のはじめ日当れり
前句の「ゆふぐれ」から「鬼やんま」へと句が移る。トンボである。
大方の読者が「負われて(背負われて)見たのはいつの日か」と想像するのが容易いだろう。ヤンマは、大形のトンボの総称で、羽の美しい意で「笑羽(エバ)」からとする説、四枚ある羽が重なっていることから「八重羽(ヤエバ)」が転じた説などの諸説がある。「鬼」がついて「鬼やんま」。巨大トンボの別称だが、鬼のような厳めしい顔つきが特徴であり、黒と黄色の段だら模様を、鬼が履いているトラのパンツに見立てたことに由来している。
三句切れとなっているが、中七の措辞「長途のはじめ」とはなんだろうか。「長途」とは長旅、遠路のことであるが、明治時代にはじまった修学旅行は、「長途遠足」なんていっていたらしい。「鬼やんま」の生体を調べてみると、成虫になるまでの期間が約5年。まさに長旅である。旅のはじまりが、めでたいような、祝福されているような感じだろうか。鬼やんまは、共食いまでもするような肉食(ガ、ハエ、アブ、ハチなどを空中で捕食)であることも、練習船の事務局長として数えきれない長旅を経験した敏雄の船内の経験をふと想像してしまう。
さてここからが本筋の深読みの世界だ。「途」から「冥途の世界」という連想もあるだろう。三途の川の入口に「鬼やんま」が出迎えているのである。冥途には流れの速度が異なる三つの瀬があり、生前の業(ごう)によって「善人は橋」「軽罪の者は浅瀬」「重罪の者は流れの速い深み」を渡ると考えられており、「三瀬川」と呼ばれている。そこに肉食の鬼やんまが日に当たる石にしがみついている光景は、ありえる世界だ。
だいたいタイトルが『眞神』というのが、『里見八犬伝』のような大スペクタクル伝奇をも思わせる。けれど、敏雄はそれを俳句という最短の文芸に収め、総句数130句でまとめている。加えてこれは小説でも連載でもなく、句集というのが畏れ入るのである。
「空想の世界を詠む」ことは俳句の禁じ手であるといわれている。『眞神』は、事実に基づいた景を見せながら人の心にある異世界を引き出すという手法が見える。
⑳蒼白き蝉の子を掘りあてにける
「鬼やんま」の虎の子パンツ柄から一気に「蒼白き蝉の子」へと生のあわいを感じさせる。
蝉の穴の句(7句目)から実際に、蝉穴の幼虫そのものを掘り当てたのである。
数年を地中で過ごした蝉の幼虫はこの世の風景をまだ知らない、蒼白い、無垢な命である。まるで、男子が赤子をはじめて抱き、生命の尊さ驚いたかのようだ。下五の措辞「掘り当てにける」から、井戸を掘り当てたように、幸運な出来事だったのである。
この句以降(21句目~24句目)の言葉に「動き」「運動」がある句が配列される。
蒼白き蝉の子を掘りあてにける (掘る)
草刈に杉苗刈られ薫るなり (刈る)
蛇捕の脇みちに入る頭かな (入る)
蒼然と晩夏のひばりあがりけり (あがる)
参考までに、蝉の子(幼虫)が Youtube で見られる。
㉑ 草刈に杉苗刈られ薫るなり
すがすがしい句。
「刈る」のリフレインと「ka」音(「草刈」「刈られ」「薫る」)が韻を踏んでいる。古い句にみえながら、「刈る」という行為、字面が殺伐とした荒涼感をもたらしている気がする。
「刈られ」ているのだから作者が刈ったのではなく、草刈作業で誰かが刈った草が山になり、その草山を通り過ぎた光景を思い浮かべる。杉苗と言っているので街中ではなく、多少なりとも山が控えている地域だろう。アレルゲンの要素が沢山ともいえる草山だけれど、掲句をみているだけでマイナスイオンの山の香りとともにストレスから解放された気持ちになる。春から夏にかけての漂う山の香りというのは、杉の香りなのかもしれない。山に囲まれた八王子に暮らした敏雄ならではの郷愁をも感じられる。
『眞神』の中にはリフレイン、言葉の重なりがある句が多い。以下『眞神』のリフレインの句を挙げてみる。
鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中
蝉の穴蟻の穴よりしづかなる
雪国に雪よみがへり急ぎ降る
針を灼く裸火久し久しの夏
帆をあげて優しく使ふ帆縫針
行雁や港港に天地ありき
油屋にむかしの油買ひにゆく
山ちかく山の雹降る石の音
海ながれ流れて海のあめんぼう
水の江に催す水子逆映り
思ひ負けの秋や秋やと石の川
130句中で10句。リフレイン(重畳法)の句は詩情を高め、リズムを強める効果があるが、理屈っぽさ、滑稽さ、しつこさに陥り、俳句という短詩型の中でのリスクも大きい。『眞神』ではリスクのある手法が多く収録されているのも確かだ。
以下はリフレイン句として引用される歴代の代表句。
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな 蕪村
梅の花あかいは赤いあかいはの 惟然
露の世は露の世ながらさりながら 一茶
下々も下々下々の下国の涼しさよ 一茶
山又山山桜又山桜 波野青畝
ちるさくら海あおければ海へちる 高屋窓秋
いなびかり北よりすれば北を見る 橋本多佳子
一月の川一月の谷の中 飯田龍太
西国の畦曼珠沙華曼珠沙華 森澄雄
飯田龍太の「一月の」の句は1969年制作となっていたので、『眞神』よりも数年早いことになる。
『眞神』の中のリフレイン句は、使用する動詞、形容詞に意外性があり型に則しながら無駄がない。また、『眞神』の収録句は、三鬼没後の制作句が多く含まれると思えるが、そこには、新興俳句にみられるコスモポリタン的な詩情とは異なる、俳句形式の中での詩性の型を追及しようとする姿勢も、リフレイン句が多く含まれる要因であったのではないだろうか。俳句の型を超えた交流(吉岡実、高橋睦郎など)が始まるのは『眞神』発表以降頻繁になる。他詩型が敏雄に気づき始めたのである。
掲句は、リフレインの中で、さりげない日常を詠っている。なんでもないこと、当たり前の日常であることが、とても高貴で豊かなことであることに気付かせてくれる句である。
㉒ 蛇捕の脇みちに入る頭かな
伝統俳句的である。確実に「俳句」形式だが、句意がいまひとつわからない。何故「蛇捕」が出て来るのか、なぜ脇道に「頭」が入ってしまうのか。俳句の致命的な短さから、想像の世界へ引きずり込まれる。畦道で車が脱輪し、さらに車体の頭を畑に入れてしまったような思いがする。
ことわざの「蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)」の由来は、「蛇の通る道は小蛇がよく知っている」という説と、「蛇の通る道は他の蛇もよくわかる」という説がある。いずれも同類のすることは同類の者が一番よく知っているということ。蛇捕は蛇の通る道ならばわかるが蛇が通らない道、人の道はわからない。だから道に頭を突っ込んでわけがわからなくなってしまう。というような人生訓のようにも思えてしまうのだが・・・。
飛んで脳の話。人間の脳の一番根っこには、ヘビの脳(脳幹)といわれる動物の機能中枢がある。爬虫類、鳥類と同じ機能と考えられ、食べる、呼吸をする、排泄をするなど、生きていく上で大切なことを指示する脳。その上に、ネコの脳(大脳辺縁系)と呼ばれる部分があり、喜んだり、怒ったり、悲しんだりといった感情を出す。さらに上に、ヒトの脳(大脳新皮質)が覆うようにある。ヒトの脳(大脳新皮質)は、覚えたり、考えたり、話したりする部分で不完全な部分。生後どのような情報をインプットするかによって、その精度が決められるとされている。ヘビの脳(脳幹)は、動物が生存を続けるのに不可欠な脳であり、自己防衛本能や快感・美意識などの司令塔。すなわち人間は蛇の行動と同じ能力をも備わっているということだ。
蛇脳を持つ人間である蛇捕が、蛇の通らない脇道(蛇以外は通る)に入ったとき、熊とか、鴨とか、ペンギンに遭遇したとして蛇脳ではなく、ヒトの脳で考えてしまい、熊、鴨、ペンギンの立ち話に頭を突っ込んでしまい、熊は熊の、鴨は鴨の、ペンギンはペンギンの苦しみを知る。しかし、話を聞いてばかりでは、蛇はおろか、何の獲物も得られなかった・・・。蛇捕のプライドが最短で蛇を捕獲することならば滑稽なことである。しかし、そういう「脇みち」も 悪くない一日だ。
別訳で、精神分析の始祖であるフロイトは夢分析において、ヘビを男根の象徴であるとした。これに対してユングは、男性の夢に登場するヘビは女性であると説いた。蛇捕が蛇を捕獲しにいって、脇道で性的対象を物色して男根を突っ込んでいる姿とも思える。敏雄句は色事的解釈がされることが多い。それは、俳句が大人の遊びであり、面白いと思えるところでもある。
蛇といえば、タロットカードである。『三橋敏雄俳句かるた』(ナムーラミチヨ画/書肆まひまひ)をようやく購入した(在庫わずか)。あいにく、掲句の蛇捕の句は絵札、読み札に入っていないが、次は蛇捕の句を入れて『眞神タロットカード』をナムーラさんと構想してみたい。その日を占う眞神カード。 脇みちに頭を突っ込むのも悪くないのだ。
素頭のわれは秀才夏霞 敏雄『靑の中』
素頭の句から約30年を経て敏雄は脇みちに頭を突っ込んだのだろうか。大人はあえて脇道に頭を入れる時があるのだ。
㉓ 蒼然と晩夏のひばりあがりけり
「ひばり」は、留鳥で、春の繁殖期に空高く鳴く。「ひばり」は繁殖期以外は地上に生活する習性がある。掲句の季節は晩夏。草むらに溶け込み、隠れて地上生活をする「ひばり」が「蒼然と」あがる。荒涼感がただよい、万葉の春の歌とは別のもの悲しさを想う句である。
ポイントとなる措辞、「蒼然と」というのは、色として蒼いという意味。そして暮れ方を表現する場合に使用される例がある。「蒼然として死人に等しき我面色/舞姫(鴎外)」「蒼然として暮れ行く街の方/あめりか物語(荷風)」などの文学的使用例がある。夏の終りの疲れとともに、青みがかった空にあがる「ひばり」の姿は、命の小さな点を示唆しているように感じる。
21句目~24句目の言葉に「動き」「運動」がある句の配列について触れたが、それらの句にはどれも「命」が宿る。点のような命が言葉をもって動き出す。
『眞神』収録順にその動きを記号で示してみたい。
鬼やんま長途のはじめ日当れり
――― 冥途かもしれない長途という長い道の端に停まる「鬼やんま」という棒状の命。(→)
蒼白き蝉の子を掘りあてにける
――― 土に開いた蝉の穴を垂直方向に下に指を伸ばし蒼い命がそこにある。(↓)
草刈に杉苗刈られ薫るなり
――― 垂直に伸びる草という生命を水平に刈る。(↑→)
蛇捕の脇みちに入る頭かな
――― 脇みちは、正道よりも曲がりくねり距離があるように思える。蛇行する命を追いかける蛇捕。(~~~)
蒼然と晩夏のひばりあがりけり
――― 地上からひばりという迷彩のようにして生きる命が上へあがる(↑)
敏雄の句は俳句であることは間違いなく、さらに、あらゆる角度から検証にも成り立つ確固たる「純粋俳句」であることを実感する。
西東三鬼門として敏雄と同門である白石哲氏が去る二月二十七日鬼籍に入られた(享年87歳)。カルチャーセンターという当時新しい分野(産経学園と聞いている)に高柳重信、三橋敏雄を講師として招き、美作時代の阿部青鞋との交流、津山出身の三鬼の墓守、「西東三鬼賞」の創設、三鬼の顕彰にご尽力された。敏雄も三鬼賞の選者として参加していた。白石氏はおそらく三鬼門を名乗る最後の方かと思う。幾度となくやりとりをしたが、「三橋敏雄を超える俳人は今後も出てこないだろう」と敏雄の名前が真っ先に出ていた。敏雄が三鬼門であるならば、弟子は師の教えを受け継ぎ発展させることが使命とされるが、敏雄は、純粋に俳句を追い求めることに翻弄した。上記の句をみてあらためて痛感するばかりだ。
三鬼門として敏雄と親交のあった白石哲氏のご冥福を心からお祈り申し上げる。
㉔ 霧しづく体内暗く赤くして
確かに内視鏡で見たことのある体の中は赤くて暗い。けれども、ここではあえて、「して」という表現である。「暗く」「赤く」しているのだ。
前句「蒼然と晩夏のひばりあがりけり」からの繋がりをみてみると、蒼然という「ぼんやり」と暗くなっていくような夕暮が想像できるが、それが掲句により「どっぷり」と暗く、そして夕焼の赤がもっともっと「赤々」としてくる。グラデーションが濃くなっていくイメージだ。
戦後の敏雄句のイメージには「赤」がつきまとう。
敏雄句の「赤」について、戦後俳句を読む(第6回の1)テーマ:「色」参照。
少年ありピカソの靑の中に病む 『靑の中』
を詠んだ敏雄が、戦後とともに赤にこだわっていく。
掲句で気になるのは、「胎内」とは書いていなく「体内」である。この句では、霧のような小さな命の粒となった我の胎内巡りのように見える。しかし「体内」となれば、その読みは、いくつかの別の見方がでてくる。
暗く赤くなる。もしそれが作者敏雄自身のことであれば、体の中が充血する、ということでもある。『眞神』冒頭では鬼が赤くなった。暗く赤くなったのは怒っているあるいは興奮しているからだろうか。そして体内が赤く充血したために霧がしづいた、という読みであれば、精子を放出したとも読めてくる。
敏雄の表現として、「赤い」のではなく「赤く」なるのが特徴である。
鬼赤く戦争はまだつづくなり 『眞神』
霧しづく體内暗く赤くして
産みどめの母より赤く流れ出む
またの夜を東京赤く赤くなる 『鷓鴣』
父、母がいて自分という命をもらう。生まれたことも死ぬことも選ぶことはできない。自分はただ霧がしづくような小さな命であり、体内を暗く赤くしながら生きる物体なのである、というようにも思える。
グラデーションが濃くなっていくように戦後の昭和がどす黒い赤になっていき、霧というものが油のように思えてくるのである。
㉕ 生みの母を揉む長あそび長夜かな
母から生れた命が成長し「母を揉む」という「長あそび」をしている長夜である。
あえて「生みの母」としている。乳母、あるいは継母ではない、直系の母である。「長あそび」をするのであれば、やわらかいからこそ揉むのだろうか。「生みの母」はやわらかい、乳母、継母ではなく、「生みの母」だからこそできる「長あそび」。何もかも許してもらえる夜長なのだ。女ではややこしくなり「長あそび」ができない、いや、「生みの母」としながら、あえて女のことなのかもしれない。敏雄句にとっての女性はすべて母なる体をもつ聖母のような存在であったのかもしれない。
『眞神』の中の母とは何であろうか。
母ぐるみ胎児多しや擬砲音
生みの母を揉む長あそび長夜かな
母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき
産みどめの母より赤く流れ出む
秋色や母のみならず前を解く
ははそはの母に歯はなく桃の花
大正の母者は傾ぐ片手桶
夏百夜はだけて白き母の恩
母を女性としてとらえた句、正しくは、女性を母として捉えているという方が的確かもしれない。母の句に対しての考察はまだ時間がかかりそうだ。
ようやく『眞神』村に春が来た。敏雄句と真剣に向き合って1年になる。振りだし戻っているような気がしないでもない。狼信仰のある『眞神』山(仮称)。登山道の入口にある神社の宮司は水没した村の学校に住んだ校長家族の長男にあたる。烏天狗を参拝し改めて『眞神』考を続けよう。
●―13: 深谷義紀 【成田千空】
をのこ子の小さきあぐら年新た
句集「地霊」所収。
この句について、千空は自ら次のように語っている。
「当時の田舎の正月は旧正月で、新暦では二月に入ってからですから、立春も近く、新しい年は即ち春、という気分がありました。戦後の乏しい食生活でも、正月だけは膳にあふれるほどの食べものがつくられて、祝いました。濁り酒も豊かで、有難く楽しい一日でした。(中略)戦後のすこやかな情景です。親類の男の幼な子が囲炉裏の横座にすわって、あぐらをかいていました。いかにもたのしくめでたく、新しい年を迎える焦点となりました。」(「俳句は歓びの文学」(角川学芸出版)より)
終戦後間もない時期の、津軽の旧正月の光景が、余すところなく描かれている。雪深い青森の農村生活はただでさえ厳しく、加えて戦後の混乱がまだ収まりきらない時分である。日常はギリギリの暮らしを余儀なくされていた筈だ。しかし(旧)正月は特別である。文字通りハレの祭事を寿ぐ気分が横溢している。集った親類縁者たちの明るい笑い声が聞こえてくるようである。余談になるが、「濁り酒も豊か」と書いたところは、いかにも酒を好んだ千空らしいと思い、微笑を禁じえなかった(ちなみに青森では自家用に濁り酒、即ちどぶろくを作ることが盛んに行われた)。
話が脇道に逸れた。掲出句に戻ろう。句の対象は親類の幼児である。その子のあどけなさと大人びた仕草の胡坐座りというギャップが千空の目を引いたのである。上記において千空はそこに旧正月の一層のめでたさを感得したと述べているが、それだけではなく、その子が生き抜いていくであろう未来、或いは少しずつ確かなものになりつつあった戦後復興への期待もその背景にあるように思えてならない。だからこそ、正月のめでたさもひとしおなのである。