2026年1月30日金曜日

[新春論考]1954年の寺山修司(後編) 佐藤りえ

  「牧羊神」での寺山の活動ぶりに関しては松井牧歌著『寺山修司の「牧羊神」時代』に多くを参照した。松井は『群蜂』で榎本冬一郎に学んだ「牧羊神」創刊メンバーであり、「牧羊神」後は『群蜂』同人となり、のちに『水路』を創刊主宰した。同著には「牧羊神」の詳細とともに同時期の寺山からの書簡、寺山との交歓について実に詳しく振り返られている。

 松井は上京したばかりの寺山を川口に訪ねている。寺山に連れられ、「寒雷」の句会、「形成」の歌会に飛び入りで参加したこともあったという。松井の手紙は寺山の元に渡っているため、寺山からの手紙しかないわけだが、それらにはしきりに面会、返事を乞う文言が見える。せっかちな寺山は日に二度もはがきを書いてよこすこともあった。返信が間遠になったのか、「どうしたのですか」などと綴られているところもある。首都圏の同人で句会を開き、「牧羊神」全国大会を企画、大学で得た交流から詩誌を立ち上げようとするなど、なにかに対しての復讐のように、寺山は激しく動き回っていた。


 近年の刊行物では訂正されているようだが、「牧羊神」創刊が1952年ないしは1953年とされる年譜がかつて多く存在したのは、「牧羊神」実物がなかなか参照できないことと、全国学生俳句コンクールが開催された年=「牧羊神」の年、と混同されているからではないか、と想像する。

 全国学生俳句コンクールは昭和28(1953)年、寺山の高校2年時に、青高文化祭の催事の一部としてひらかれた。その結果は「牧羊神」2号(1954年3月)で発表されている。詳しい経緯は不明ながら、コンクール結果はこの時はじめて公にされたようだ。第一位は京武久美「夜明けの色」。寺山は二位であった。作品掲載は第一位のみのため、二位以下の作品及びタイトルは不明である。参加者は「約百数十名(表記ママ)」参加校は「約三十数校」。選者は秋元不死男、橋本多佳子、中島斌雄、香西照雄、細谷源二、成田千空、細見綾子、沢木欣一、平畑静塔、三橋鷹女、橋本風車、伊沢子光、原子公平、榎本冬一郎、殿村菟絲子、加藤かけい、桂信子、富澤赤黄男、野澤節子の19名、天狼や馬酔木傍系、また新興俳句系、人間探求派にはっきり偏った顔ぶれが揃っている。どのように作品募集を行ったかは不明ながら、南は長崎南高校から応募があったという。この百数十名の参加者の内に寺山は「牧羊神」同人を見出した。

 翌昭和29(1954)年、寺山は「全国学生俳句祭」を画策する。今度は俳句研究社の後援を得て、対象者を大学生、「卒業後一ヶ年に満たざる者」まで広げる(これは進学をしなかった京武久美を含めるためでもあったものと思われる)。前述の『寺山修司の「牧羊神」時代』解説に齋藤愼爾が「しかし大会は実現したのであろうか。本書には募集要項まで掲載していながら、その後の経緯がいっさい記されていない。」と書いた通り、松井の著書には募集以降のことが書かれておらず、「牧羊神」本誌も「全国学生俳句祭」についてほとんど触れていない。松井の著書に掲載された「全国学生俳句祭募集要項」は、松井のもとに別途届いたものであった(※)

 「全国学生俳句祭」入選発表は「俳句研究」昭和30(1955)年8月号、第一位は寺山修司「少年の日」である。第二位は小林弘尚「オリオン座」、第三位は平田幸を「屋根裏で」。参加者は百四十七名、発表号には点配分表が掲載されているが、寺山は90点を集め圧倒的勝利に終わっている。前年(1954年)の短歌研究50首詠第一位に続き俳句の賞も獲得したことになるが、この賞の存在は寺山の年譜上ではまるでなかったことになっている。


 少年の日  寺山修司

ラグビーの頬傷ほてる海見ては
便所より青空見えて啄木忌
わが夏帽どこまで転べども故郷
同人誌はあした配らぬ銀河の冷え
二階ひゞきやすし桃咲く誕生日
花売車どこへ押せども母貧し
母は息もて竈火創るチェホフ忌
桃うかべし暗き桶水父は亡し
沖もわが故郷ぞ小鳥湧き立つは
夏の蝶木の根にはずむ母を訪はむ
いまは床屋となりたる友の落葉の詩
大揚羽教師ひとりのときは優し
口あけて虹見る煙突工の友よ
麦の芽に日あたるごとき父が欲し
黒人悲歌桶にぽつかり籾殻浮き
この家も誰かが道化揚羽高し
桃ふとる夜は怒りを詩にこめて
桶のまま舟虫乾けり母恋し
山拓かむ薄雪つらぬく一土筆


 まず、いくつかの懸念点を挙げる。「俳句研究」誌の結果発表によると選考は「俳句研究社編集部で予選を行って二十五名を選出し、別に牧羊神編集会で予選を行ったものと併せて都合三十七名をもって被選資格者とした」とされている。俳句研究社の選出以外に12名を「牧羊神」が選んだつごうになるが、この時―俳句祭の〆切時、昭和29年後半―の「牧羊神」は事実上寺山が一人で制作しており、編集会議というものがあったのかは不明である。結果発表を見ると、一位から十位までに「牧羊神」メンバーが7名も入賞している。応募作品の宛先じたいが寺山の寄宿先である。主催があまりにも当事者であった、と見えてもいたしかたない。

 俳句研究社の対応にもかなりの疑問符がつく。「俳句研究」誌上での「全国学生俳句祭」募集記事はたったの一回、〆切の直前である11月号に小さく載ったきりである(以下画像)


「俳句研究」昭和29年11月号より。1/3ページの大きさ(住所の一部を加工した)


 その内容は『寺山修司の「牧羊神」時代』に松井牧歌が載せた、寺山から直接届いたという募集案内とのあいだに齟齬がある。なぜこうした齟齬が起きたのだろうか。


*〆切 俳句研究   11月10日

    郵便での案内 10月20日


*作品 俳句研究   20句(昭和28年10月以降作品)

    郵便での案内 25句(昭和28年10月以降作品で発表作品を含む)


*応募資格 俳句研究   大学生、高校生及び卒業後一ヶ年に満たざる者

      郵便での案内 大学生 高校生 卒業後一ヶ年に満たざる者 十代の勤労者


 『寺山修司 ぼくの青森ノオト』(久慈きみ代)によると、「牧羊神」同人の山形健次郎に宛てた手紙のなかに「ひとりで俳句祭の事務に追われている」、「作品の集まりがわるく、〆切を延長してもらった(俳句研究社にかけあったのだろう)」旨の記述などが見られる。松井牧歌宛の手紙でも、応募を熱烈に呼びかけている。綿密な計画により同人の協力を結集したというより、ほとんど寺山ひとりの勢いで決めて実施されてしまったような性急さが伺える。

 募集案内にあった「各結社賞」というものは与えられなかった。結果発表の選評部分は個別の記事なく、講評は沢木欣一の「今の俳壇に欠けている若さを見つけだそうとの期待で読んだがいさゝか裏切られたような感じがする」「みな巧みで表現は身につけているが強烈な個性はまだ出ていないようだ」、原子公平の「個性的感覚と信じていたのが実は十代共通のセンチメンタルなレトリックだった」、高柳重信の「みな語彙が貧弱で同じような言いまわし、同じような構図、同じような言葉が氾濫している。もっと勇敢に危険な株を買う気概が望ましい。これは丁度今の俳壇のひきうつしのようで正直のところ失望した。」、森澄雄の「二十代、十代の呼声に三十代にない全然新しいものの萌芽を期待して読んだのであるが期待は全く裏切れて多少いまいましい気持だ。大半が無性格で共通の思潮も若々しい冒険も見あたらぬ」といった談話調のものだった。

 また、寺山の入賞作品のうち半数ほどが各結社誌や新聞での入選句、前年「俳句研究」誌に発表した句だったため、見たことがある句が並んでいる、匿名の選であっても誰のものかわかる、と一部選者から不評を買った。

 作品、応募構成を伝える部分を除く総評記事はわずか1ページ半、その三段組の一段がアフォリズムを示しつつ十代・二十代の本質を述べる文章に費やされている。記事の署名は「牧羊神」。すなわち、結果発表までもが寺山自身の手で為されていたものと見える。

 寺山については、前年「短歌研究」の受賞作品において草田男、三鬼らの作品を援用していることがすでに明るみになっており、楠本憲吉の批判(「或る「十代」--短歌俳句に於ける純粋性の問題 」)が「俳句研究」昭和30年2月号に掲載された。仮に寺山に対してよく思わない、批判的な面があったとしても、「学生俳句祭」における「俳句研究」の対応ははっきり言って大人気ない、責任感のないものだったと言わざるを得ない。賞にかかわるのは寺山ひとりばかりでなく、応募した百余名の若者達がいるのだ。後援だから、などと立場を引いたのか、受賞者自身に発表文など書かせるべきではないし、選者達の対応も、「裏切られた」などという談話ばかりでなく、よいところを探そうという機運が見られないものか。甘く扱えというのでなく、弱点をあげつらうぐらいの役に立つ意見が欲しい。重信の意見がいちばんまともに見える。

 同号の編集後記に「学生俳句祭」についての記述は見当たらず、「学生俳句祭」も、寺山たち受賞者も、事実上「俳句研究」からほぼ無視された。俳句総合誌での募集、選者に飯田龍太、金子兜太、森澄雄などが加わっている(募集広告で名前が挙がっている加藤秋邨、中村草田男、古沢太穂らの名は選考結果にない。断られたものと思われる)にも関わらず、応募者数は前年の「全国学生俳句コンクール」から横這い、選者らの反応も冷たく、「学生俳句祭」は盛り上がることなく終焉を迎えた。


 昭和30(1955)年は角川書店「俳句」が角川俳句賞を設立した年でもあった。第一回角川俳句賞の発表号、「俳句」昭和30年10月号の田川飛旅子「俳誌巡禮(一)」がほぼ1ページを使って「全国学生俳句祭」に触れている。

寺山氏の作品はイメージの構成の緻密さの點でたしかに一日の長を認めなければならない。十八歳の寺山氏の句に三十代以上の俳句に全くなかつた新らしいものを見出すことは、私も選者の諸氏と同じに困難を感じた。然し、次の二つの點、即ち、俳句を作らせている人間としての感動の實體―詩因といつたもの―が氏一流の形で確かに一句一句に貫かれている點、どことなくふつくらとしたリズム――これが短歌的でも俳句的でもない一つの新らしいリズムに迄発展してゆき相な期待、此處に将来の成果を楽しみたいと思う。

 田川飛旅子は当時「寒雷」同人、40歳だった。かつて「アララギ」に依り短歌を書いたこともあったという氏ならではの視点から出た、至極フェアな意見ではないだろうか。なお同じ号の直前のページまで「俳句に現れた青春像」という座談会が掲載され、その中で寺山は件の楠本憲吉、飯田龍太らにけちょんけちょんに言われている。この座談会に対して、寺山は「俳句研究」昭和31(1956)年1月号に「雉子ノオト」と題した反論を寄せている。

俳句は告白性を持つた文学の一つであり、さうして最も告白性を持ちにくい文学である。つまり真の告白といふのは告白としては口を出た時にすでに堕落の兆を見せるものだが、五・七・五と言ふ定型に押し込める時には堕落も頂点に達すると思ふのである。(「雉子ノオト」「俳句研究」昭和31年1月号)

 この文章を読むと、当時の寺山が江戸俳諧をアナクロニズムと捉え、近代以前の俳句や俳句の成り立ちにはあまり興味関心がなかったことが伺える。定型に押し込める時に告白が堕落する、という見方は、定型ありきの書法では告白の真性がゆがめられる、ということだろう。当時までの寺山の俳句には特に自由律、極端な破調の作品がほとんどないが、定型に対する忠実ともいえる疑いのなさは、新興俳句以降に興味を持ち、「伝統」と彼らが呼ぶものに対する拒絶と対を為している気がする。

 俳句が告白性を持った文学である――という考えを文字通りに受け取ってしまうと、寺山の実作との間に相当のギャップがある。「作品の中に誇張されながら生活してゐる一人を捕へ出す愉しみがまた俳句を読む愉しみとなり、俳句に於けるドラマツルギイ(劇的効果)が取沙汰されるのも結構なことではないか」(「雉子ノオト」)とも記していることから、寺山が言う「告白」は事実性より一人の人が生き生きと息づいて「見える」ことを指すものと考えられる。短歌一首ずつ、俳句一句ずつをそれぞれひとつの短い詩劇の一場面として見よう、とでもいうような。


 俳句に対する新しい「見方」を主張しつつ、寺山の表現はある面でまったく素直に周囲の影響を受けていた。中学時代、白秋や啄木を愛読した。浪漫的な素養の元となったのではないか。語彙や直叙的なところは三鬼から、哲学的な思考、文章の様式は草田男から(もっとも寺山の文には引用が次第に増加してうるさすぎるほどになった)、導入される詩情は翻訳詩や翻訳文学――ドイツやフランスの詩、小説を好んで読み、エピグラフを多用した。「vou」に掲載された詩はのちに「われに五月を」に収録された際若干推敲されているが、翻訳詩ふうの情緒と、社会・生活から断絶した表現を指向した北園克衛の影響は、基調を成すものとして大きかったのではないか。

「牧羊神」は全国学生俳句祭のまさに祭りのあと、昭和30(1955)年9月に福島ゆたかの手によって第十号が発行された。寺山が参加した「牧羊神」はこの号が事実上最後となる(八号、九号は欠番で発行されなかった)。翌昭和31(1956)年、寺山は同人誌「青年俳句」に詩文「カルネ」と「新しき血」146句を発表、俳句に別れを告げた。

 「常軌を逸した」十代の寺山の表現活動のうち、俳句の季節はかくのごとく過ぎ去った。この間ほかに「短歌研究」誌への作品掲載、「vou」「早稲田詩人」に詩や文章を寄せている。学生俳句祭の結果発表の頃、寺山はすでにネフローゼにより入院中で、「雉子ノオト」は病床で書かれた。広範囲にわたる活動の全貌を把握しているのは、本人ひとりきりだったに違いない。

 あらゆるものを書き散らしながら、寺山本人にジャンルを越境する、という意識は低かったのではないか、と考える。目についたものを四方八方に作り上げていく。それはさながら、未だ見ぬ「自分」を探しているようでもある。

 十代とは、日常の中で毎日同じような暮らしを重ね、ごく近しい人々と、名もなき会話や些末な行動を共にし、記憶の確認、上書きを反復しながら、自己の輪郭を確かめていくものではないだろうか。「自分」というものが何なのか、どういうものなのか、親姉弟という「近すぎる他者」との軋轢によってはじめて知り得ていくものではないか。寺山を継続的に反照するはずだった父は亡く、母は遠い。寺山に圧倒的になかったものは、自己をみずから構築するための家庭生活と、その伴走者としての家族の存在、だろう。

 出征した父は帰らず、母との借り暮らしは別居へ変わり、叔父夫婦の映画館への寄宿がはじまる。戦後間もない時期、家族や家を失った少年少女は日本中に存在した。詩友である京武、松井牧歌も父を亡くしていた。彼らと寺山の違いは、同居する親がおらず、兄弟姉妹もなかったことだった。その孤立状態が即寺山に詩を書かせた、とは言わない。ただ、俳句や短歌という私性の提出が織り込まれた詩型、その作品に加えられた脚色には、「ないもの」を作る、空白を埋める愉悦と哀傷が内臓されていたということは、ないと言い切れるだろうか。

  後年、寺山は自己同一性を真っ向から疑うともえいる、TVドキュメンタリー番組「あなたは……」に関わった。素人にマイクを握らせ、道行く人に17の質問を投げかける。最後の質問は「あなたはいったい誰ですか」。寺山自身が聞かれたら、なんと答えたのだろう。型を欲し、ちりぢりだった「自分」を短詩型に押し込めることを断念しつつ、安息を覚えることはついになかったのではないか——彼がしきりに「故郷」を取り上げたのは、言わねばその結びつきが消えてしまいそうだったからではないか——これは、まだ思いつきのアイデアである。

この亡びゆく詩形式に、私はひどく魅かれていた。俳句そのものにも、反近代的で悪霊的な魅力はあったが、それにもまして俳句結社のもつ、フリーメースン的な雰囲気が私をとらえたのだった。(中略)覆面の結社の魅力。しかも、その秘密じみた文芸の腕くらべ。それは、まさしく私のすごしてきた少年時代の地下道のように、「もう一つの時」の回路にさしこんだ、悪霊からの音信のようにさえ思われるのであった。(「十七音」『誰か故郷を思はざる』)

 『誰か故郷を思はざる』は寺山が三十代に入って「自叙伝らしくなく」書いたものであるから、この回想を少年期のものとしてそのまま100%受け取ることはできない。が、腕くらべなどという江戸川乱歩的な言い方も見えることでもあるし、俳句結社をこのようなマジカルなものと期待していたフシは、本当にあったのかもしれない。そんな寺山の期待、希望は、次第に打ち砕かれていったのではないだろうか。俳句結社も現実社会の延長であり、一部である。少年寺山が思い描いたような詩空間、「もう一つ」の時間が流れる場所ではなかっただろう。

 「牧羊神」自体のシステムがいわゆる結社・同人誌をそのままなぞる形だったことは、寺山たちにとって盲点だったのではないか。同人がいて、会員が選句欄に投句できる。選者は高名な俳人を召喚する。同人作品、座談会をひらき、有力俳人からの寄稿を載せる。結社誌と同人誌をまぜこぜにした奇妙な形態も、同人達を惑わせたのではないか。「牧羊神」に必要だったのは、旧来のシステムを気にしない、独自の「本当にやりたいこと」をすること、「本当にやりたいことは何か」を探すこと、だったのかもしれない。

 俳句での挫折と並行して、1954年の寺山が中井英夫に出会ったことは、この上ない僥倖だったのではないかと改めて考える。昭和32(1957)年、絶対安静の寺山がこのまま世を去ってしまうかもしれない、と危惧した中井の尽力で作品集『われに五月を』は生まれた。栄光の受賞作「チエホフ祭」を改題のうえ構成も変え、自らが手を入れた姿でなくしたことも、中井は許した。短歌、俳句、散文詩を網羅したこの本が、ちりぢりになっていたカケラの寺山を統合し、ひとつにした。あれもこれもと手を伸ばしてはいけない、とは、中井は言わなかった。あれもこれも自分であると、この時寺山ははじめてはっきりと思えたのではないか。

 もし中井に出会わなければ、寺山はまだ見ぬ自分の破片を求め、その後も投稿する青春を続け、自身を雲散霧消させていたのかもしれない。

 寺山が俳句に抱いた理想は、この後『花粉航海』で「真の花」を咲かせる。演劇の世界を通して、異形とロマンチシズムの交錯した文体に、寺山の体はやっと着慣れていったのだった。1954年の寺山修司の俳句は、自らの理想まで、まだ何マイルかの道程を残していた。しかしそこにも、たしかに「時分の花」が花開いていた。

 林檎の木ゆさぶりやまず逢ひたきとき
 詩を読まむ籠の小鳥は恩知らず


※『寺山修司の「牧羊神」時代』は俳誌『一滴』に連載されたものを書籍化する予定でいた折、著者の松井が急逝、『一滴』代表の岡井耀毅によってまとめられた。触れられていない話題を加筆する可能性があったかもしれない、と岡井が「あとがき」に記している。


【参考文献】
「寺山修司俳句全集 増補改訂版」(あんず堂)
「われに五月を」(作品社)
「寺山修司の「牧羊神」時代 青春俳句の日々」松井牧歌(朝日新聞出版)
「寺山修司 ぼくの青森ノオト」久慈きみ代(論創社)
「自叙伝らしくなく 誰か故郷を想はざる」(芳賀書店)
新潮日本文学アルバム56 寺山修司(新潮社)
別冊太陽「寺山修司 天才か怪物か」(平凡社)
新文芸読本「寺山修司」(河出書房新社 )
寺山修司研究第2号・第5号(国際寺山修司学会)

安井墨書展ー安井浩司参加初期同人誌を読む『牧羊神』その一〜その五(文学金魚)
https://gold-fish-press.com/archives/7492