2026年1月30日金曜日

【連載】現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

 (2012年01月06日)

9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について

 筑紫は特に開業医俳句について誰も遷子の先人となる人はおらず〈遷子は自らの良心に基づいて開業医俳句を開拓した〉と述べる。一方で〈遷子の句業を引き継いだ人もいなかったのではないか。35年後の今、わずかに5人の作家たちだけが自らの良心に基づいて遷子を発見したのかもしれない〉と言う。


 原、中西は無回答。


 深谷は晩年の角川源義とのやり取りからも分るように〈どちらかと言えば、自己に対する俳壇での評価など気にも留めず、俳壇とは距離を置いていた〉と述べる。逆に〈俳壇への影響もあまり大きなものとは言えず、今日まで余り鑑みられることがなかった〉と言う。


 は影響を受けた作家として水原秋桜子と石田波郷を挙げる。波郷については年下ながら尊敬の対象だったようだが俳句の上での影響は強くないと言いつつ〈境涯俳句を詠むという行き方は波郷から学んだのかもしれない〉と述べる。また〈『惜命』と遷子の闘病俳句との関係については今後の比較研究が必要だ〉と考える。

 飯田龍太について〈遷子に対する評価が意外に低いのには驚いた、同じように中央俳壇を遠く離れて自然の中の暮らしを詠む者同士もっと共感するところがあってもよいのではないかと思った、遷子の方は龍太に親しみを感じていた〉とコメントする。

 最後に遷子の俳句は同時代の人々に評価されなかったと締め括る。


9のまとめ

 回答者に共通していたのは遷子の前に遷子なく、遷子の後に遷子なしということ。理解者と言う意味でも同時代の、馬酔木の人達にすらあまり理解されていなかった。筑紫の言うように当時見過ごしてきたものが現代だからこそ見えてくるようになったのかもしれない。


(2012年01月13日)

10.あなた自身は遷子から何を学んだか?

 筑紫は次の2点を挙げる。

①戦後俳句史をどのように構築したら良いのかということ。既存の戦後俳句史に対する新しい戦後俳句史観、すなわち「社会的意識俳句」時代のあとに伝統俳句の時代が新生したという流れ。――ここで詳細を述べるのは適当ではないが、はしょっていえば〈角川源義などの前衛俳句・現代俳句協会と対立した政治的な「伝統派」の主張者に対し、この時期そうした政治的な動きから疎外されていた草間時彦・能村登四郎・飯田龍太などが実践していった伝統俳句の新しい運動(「新・伝統俳句」といえようか)〉が起こったと考えられるが、それは〈「社会的意識俳句」のそれを精神的・内面的に深化させたものであったといえるかも知れない〉と言う。

②我々が死ぬときは残るものは何か。視覚も薄れ、論理さえおぼつかなくなっても意味など失った「ことば」だけが残る。〈だから俳人は死ぬ最後まで言葉にこだわる、亡くなる人で最後まで活動できるのは俳人ばかりだ〉と述べ子規と遷子の最期に触れる。

 さらに〈こう言っておきながらも不思議なのは、風景俳句、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句を離れて遷子の作品は不思議な魅力をたたえている〉と述べる。

例として


雛の眼のいづこを見つつ流さるる


を挙げる。ユニークな画家である智内兄助(ちないきょうすけ)氏はこの句に触発され、作品「雛の眼のいづこをみつつ流さるる」を発表した(少し仮名遣いが違うが)。

 そこに描かれたおどろおどろしい少女の姿は、遷子の心の深淵をのぞきこむような不気味さをたたえている。さらにこの絵が坂東眞砂子のホラーノベルの傑作『死国』(四国高知のある村で起こる死者の怨念とよみがえりの物語)の表紙絵となっているのはさらに驚きだ。端正な遷子の像からは思い及ばない結末である。


 は〈いまだに捉えきれずに〉いると言う。


 中西は〈死の直前まで俳句を続ける精神力〉、〈自己の生き方の思想的部分を扱っていること、特に無宗教の身の処し方を描いているところ〉に感心し、真似はできないと述べる。


 深谷は遷子研究を始めて〈自分の想いを作品にしたいという気持ちが強くなった〉ことから〈自分の俳句の作り方が変わった〉と述べる。


 は遷子の冷徹な目が〈科学者と文学者という一見正反対の立場を結び付け〉、焦点がぶれることのない一貫性を以て医業と俳句の両方に接したと言う。その〈真摯に、ほとんど求道と言ってよいストイックさで対象に向かう姿勢は羨ましい程〉と述べる。〈学んだもの、自分も身につけたいものとしてこの「冷徹な目」を挙げたい〉と言う。


10のまとめ

 筑紫は戦後俳句史の構築に関する示唆、俳人として死んだ後に何を残すかということを学んだと言い作者の思いもよらぬ所で後世の人間がその作品からインスピレーションを得るという幸福もあると画家智内兄助の事例を紹介する。


 は遷子をまだ捉えきれない存在と感じている。


 中西は俳句を死に至るまで続ける精神力、無宗教の身の処し方に注目する。


 深谷は作者の思いを俳句に表現するという作句態度に共感する。


 は医療にも俳句にも同じ「冷徹な目」を持って臨んだ生き方を学びたいと述べる。


おわりに

 所属する俳句グループも住居や職場などの環境も全く異なる5人が遷子という一俳人を研究し、その作品と生き様に感動し、『相馬遷子―佐久の星』が生まれた。今回その5人が再び集い、「遷子を通して戦後俳句史を読む」という試みを行った。

 遷子を読み込んだ人達ばかりなので遷子俳句の特徴や魅力については各人の主張を持ちながら、全員が殊に医師としての生活を詠んだ句(医師俳句)と晩年の療養俳句についてもっと高く評価されてしかるべきと考えていた。

 戦後俳句史を読むというテーマに即して言えば、遷子は孤高の作家でありその俳句世界は独特であるとの認識が大勢を占めたが、一方で「社会性俳句」の潮流とは別の実生活に根を下ろした「社会的意識俳句」とでも呼ぶべき傾向の句(医師俳句も含まれる)を遷子が多く残したことは同時代、またその後の同傾向の俳句を見直すことにつながるとの見方もあった。

 この座談会が従来の戦後俳句史からほとんど抜け落ちていた相馬遷子という清澄な星を星図の中に位置付けるのに多少なりとも貢献できていればと思うばかりである。

(終了)