(解説)攝津幸彦記念賞(第11回)の募集
(1)「豈」における例年の攝津幸彦記念賞は本年(第11回)は評論賞の募集を行うこととした。募集に当たっては、全国学生俳句会(合宿二〇二五)で提供された評論を応募作に加えて、その他にいつもの通り募集も行った(募集はメールによることとし ani-writing@e-primex.co.jp で受け付ける。詳細は「豈」68号138頁)
(2)対象は、特に若い世代の評論家を発掘することを目的とし、新作の評論のほか、既に他の媒体で発表した評論、まだ未完のダイジェストも含めて対象とすることとした。この他に通常評論賞では扱われない「宣言」も含めることとした。
(3)締め切りまでに提出された応募作を逐次BLOG俳句新空間で紹介しつつ、予備選考を加え評論奨励賞を最終決定することとする。
以下今回から応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)を紹介する[コールサック124号120~123頁で概要が紹介されている](原稿はたて書であるが、BLOG記事に併せて横書きとした)。
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文人俳句の俳諧性―紅葉・鏡花を中心に―/辻村栗栖(東大俳句会)
序論
浮世の月見過ごしにけり末二年 井原西鶴
死なば秋露のひぬ間ぞ面白き 尾崎紅葉
露草や赤のまんまもなつかしき 泉鏡花
それぞれの辞世の句である。日本文学を語る上で欠かせない作家は数多くいるが、その中でも特に外しがたいこの三人には強い関係性がある。即ち、泉鏡花は尾崎紅葉に強く影響を受け、尾崎紅葉は井原西鶴に強く影響を受けているという縦のつながりである。確かに前掲の三句を解釈してみると、全て秋の句であることは偶然であろうが、鏡花の「なつかしき」は紅葉の「面白き」と、紅葉のからりとした死への書きぶりと西鶴の一歩引いたようなまなざしはそれぞれ類似が指摘できよう。
さて、井原西鶴は、近世前期に現在の大阪で活躍した俳諧師、浮世草子作家、人形浄瑠璃作家である。矢数俳諧を行ったことや『好色一代男』『日本永代蔵』などを著したことで有名で、芭蕉以前の江戸時代の俳諧の代表的人物でもある。
本稿では、この西鶴の俳諧に注目し、そこから西鶴の思想や技術などを抽出する。その上で、近現代の作家のうち最も西鶴の影響を強く受けていると言える尾崎紅葉とその弟子の泉鏡花の俳句にどのような西鶴の精神が受け継がれているのか考察した後、現代において文人俳句を読む意義を求める。
二、西鶴の精神
二―一 西鶴の理解へ向けて
西鶴の思想や技術を理解するためには、まず西鶴が生きていた時代の歴史的背景とその時代の文壇について理解する必要がある。
序章でも軽く述べたが、西鶴は寛永十九年(一六四二年)に生まれ、元禄六年(一六九三年)に没した。一般的な歴史理解で言えば、この時代は三代将軍家光の元で鎖国と参勤交代が既に確立した後であり、それに伴って町人文化が花開いたころである。同時代人には池田光政や新井白石などの戦乱が終わった世間で政治的手腕を発揮した人物がいる一方で、由井正雪の乱や明暦の大火などの人々を揺るがせる混乱も発生していた。
そういった中において、町人文化に付随して文学も隆盛し、そのテーマとして政治や混乱などへの揶揄が用いられることも時折あった。その代表格が諧謔を主題とする俳諧である。そもそも「俳諧」の語源が「俳優の諧謔」、即ち人気な人や物を滑稽に詠むことにあることからも、その解釈が可能である。あくまでも俳諧における諧謔とは、和歌や連歌で用いられてきた言葉同士のイメージの連鎖を切ることであったり、新しく縁語を生み出したりすることであると言われているが、これもある種人気なものを滑稽に扱っていると表すことができるだろう。
さて、しかしその俳諧にも様々な論理があった。芭蕉以前の主な派閥として挙げられるのは、松永貞徳を中心とした貞門派と西山宗因を中心とした談林派の二つである。この違いについて詳述することはしないが、西鶴はクリシェとも表せる和歌や連歌の予定調和を貞門派よりもさらに裏切ろうとして発展した一派である談林派に属していた。
その宗因は次のような句を残している。
お閑かに御坐れいまだ残んの雪
きつたり此つゝけりかな蘭秀る花
〈お閑かに〉の句は談林俳諧に見られる大胆な破調の句である。即吟句であると伝わる。また、〈きつたり〉の句は、き・つ・たり・つつ・けり・かな・らんの七つの助動詞を詠みこんでいる。
貞門派が和歌から引き継いだ縁語や掛詞などの技法をまだ用いていたのに対し、その自縛を解いて発展したのが談林風と呼ばれる談林派の特徴である。これが右の二句にも表れている。
二―二 俳諧師西鶴
序章でも述べたとおり、俳諧師としての西鶴の最も知られた業績として矢数俳諧が挙げられる。一晩で二万句以上詠んだとされるが、その具体的な句数の信憑性はそこまで高いものではない。しかし一方である程度多い数の句を詠んだのは事実であるとされており、これについて加藤楸邨は談林風の流れと絡めて次のように述べる。
貞門に於けるかかる詞の制限をとり去ったものが、談林の自由性であった。商人の伸びる力のあらわれとしての町人性が俳諧に於て徹底し、心に於ても自由となろうとするのが談林性であり、町人の社会の題材の上を、町人的な見方で伸びて行ったのが談林俳諧であった。西鶴に於てあらわれた談林性もこういう町人性、こういう自由性であり、これが西鶴の対他的優越意識と結びついたところに矢数俳諧があらわれたものであると思う。
楸邨は談林風を構成する要素を「町人性」「自由性」であるとした上で、その表れが矢数俳諧であるとする。また、当時矢数俳諧を行っていたのは西鶴だけではなく、むしろ西鶴の句数を超える者も数人かいたという。それらに対抗して西鶴が二万句以上作ったとすると、西鶴には「対他的優越意識」があったのではないか、というのが楸邨の意見である。
このような西鶴のスタンスは「阿蘭陀西鶴」とも呼ばれ、周囲とは一線を画していた。
三、文人俳句
三―一 尾崎紅葉
近現代の作家で、最も西鶴の影響を受けていると言われているのは尾崎紅葉である。国文学者の安藤宏は紅葉の『伽羅枕』と西鶴の『好色一代女』の冒頭部分を比較した上で次のように述べる。
文章のリズムも含め、かなり意識的な模倣であることがわかる。(中略)紅葉を貫いていたのは徹底した美文意識で、筋立ての妙と文章の技巧によって登場人物の「情」を照らし出していくことをめざす彼らの小説観は、近代人の日常的な内面心理をえぐっていくことをめざした二葉亭四迷のそれにまさに逆行するものであった。
つまり、明治期の文壇の流れとしてあった二葉亭四迷にはじまる言文一致の運動の揺り戻しとも言うべきこの「西鶴復興」に最も寄与したのが尾崎紅葉なのである。
紅葉が西鶴に影響を受けたのは小説だけでない。この時代の文豪は教養として俳句を作ることも多く、紅葉もその例に漏れない。現代俳句は、そのほとんどが正岡子規や高浜虚子から始まるホトトギスにその源流を持つが、明治期にはホトトギス以外の一派として文豪の俳句があったのである。詩人の大岡信は次のように述べる。
僕は、正岡子規がいる一方で尾崎紅葉がいると思う。尾崎紅葉の俳句というのは、今日ほとんどまったく知られていない、といってもいい。『尾崎紅葉全集』の編集に関わった関係で、紅葉の俳諧ならびに紅葉の短詩型文学とその理論を並べた巻に携わりました。その結果、正岡子規の側から近代俳句を見るだけでは、事態の一方しか言っていないことになると感じたのです。
もっとも、やはり本業でなく俳句を作る潮流は絶えやすく、現代俳壇において紅葉の系譜を自称する俳人は皆無といってもよい。
具体的に紅葉の俳句を読むと、次のような句に西鶴らしさを感じることができる。
天渺々海漫々ひよつこり一ツ松漁船
稲妻や二尺三寸そりやこそぬいた
それぞれ談林俳諧の気配を感じることができる。「天渺々海漫々」の句はその破調に西山宗因の作風を感じることができる。俳人の小澤實は、この句を「最初に『天渺々海漫々』と漢語を連ねるが、『中にひよつくり』と途中で俗語に転調する」(小澤、二〇二五)ところに西鶴よりの俳諧の流れを見出している。また、「稲妻や」の句は高山れおなの解説によると硯友社という文芸サークルの場で言語遊戯的に作られた句であるとしていて、これも談林俳諧の即吟の精神を受け継いでいる。
また、絶筆の句とされる〈寒詣翔るちん〳〵千鳥かな〉の句も、岸本尚毅によれば「『ちん〳〵』は千鳥の声の形容ですが、男女の深い仲も意味し」、直接岸本は述べていないものの、掛詞を用いながら男女の深い仲という卑俗なところを詠んでいるさまに俳諧らしさを感じることができる。
このように、尾崎紅葉は従来言われてきたように西鶴の影響を色濃く受けているが、それは小説だけに留まるものではなく、俳句にも通じていたのである。
※「ちん〳〵」はくりかえしで「ちんちん」
三―二 泉鏡花
泉鏡花は尾崎紅葉と師弟関係にあった文人で、句作も行っていた。鏡花が紅葉から受けた影響はとても大きく、文体等において多くの指摘がなされている。しかし、鏡花自身が近世の蕉門俳諧などから直接受けた影響に関する研究はいくつか見受けられるものの、鏡花が紅葉を通して西鶴から受けた影響について書かれた文献はほとんどないと言ってよい。また、そもそも鏡花の俳句について書かれた書籍や先行研究は、秋山稔編の『泉鏡花俳句集』と前述の岸本尚毅による『文豪と俳句』のみと言ってよいほど少なく、今後の研究が俟たれる。
さて、泉鏡花の句風の特徴として秋山は「①『色彩の配合』を多用し、『理想美とロマン』を追究した『華やかな句』、②『写生に抒情・感傷をこめたやさしい艶のある句』であり、③『芭蕉・蕪村その他の古句』の影響、④『小説の延長』とみられる句」と述べている。今回着目したいのは③である。なぜ鏡花が紅葉を通して西鶴から受けた影響について論じられてきていないかと言えば、仮に鏡花に俳諧の影響を感じる句があったとして、それが鏡花自身が芭蕉・蕪村から受け継いだものなのか、紅葉越しに西鶴から受け継いだものなのか判別することが難しいからであると考えられる。しかし本稿では既に談林俳諧の特徴と、さらにその中における西鶴俳諧の特徴について明らかにしており、これを用いることで鏡花の俳諧様の句について判別することができると考える。
礫打ツへく打破ルへく胡桃に石の手頃なる
とうからしあいつからさが過ぎるてな
いずれも『泉鏡花俳句集』より。このように、破調と即吟性といった談林俳諧の作り方を想起させながら、口調の砕け方や内容に「町人性」を感じる句が鏡花には時折みられる。もっとも、この作り方が鏡花のメインではないことは確かであり、西鶴の影響を受けた紅葉の影響をさらに受けた鏡花俳句にとっては、既に西鶴要素がかなり薄れていることを示唆している。
四、結論
本稿では、談林俳諧とその中の西鶴の位置や作風を確認したのちに、近現代において西鶴の影響を受けている作家である尾崎紅葉とその門下の泉鏡花の俳句を西鶴の俳諧と比較し、その影響の度合いについて考察した。談林俳諧の特徴は和歌や連歌のクリシェから脱出しようとしたことにあり、その手段として破調や即吟、雅俗の接続が用いられることがあった。その中でも西鶴は対他的優越意識を持ちながらも町人性、自由性を忘れずに当時の俳壇で大きな存在感を放っていたことがわかっている。
そして、紅葉はそういった西鶴を再発見し、その写生法などを学びながら自らの俳句にも談林風を取り込んだ。しかし鏡花にまで至ると、西鶴の影響は薄まり、わずかに数句談林風の俳句が見られるだけになった。
このように、子規の系譜に属さない文人の俳句は、近世の俳諧の特質を独自に受け継いでいるケースがある。現代において子規や虚子などの伝統からの解放を訴えるならば、その枠組みの外側に位置していた文人の俳句を読み直すことも重要なのではないだろうか。
【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか、
辻村栗栖 「➀俳句とは何なのか:日常の過ぎ去って行く目の前の景色を書き留めたい。➁俳句で何をしたいか:馬酔木の作家に興味がある。かなり血は薄いが馬酔木の作家の系譜に連なる作家としてどのように新興俳句が発展して現代の俳壇で覇権を握ったのか調べたい。➂俳句に関して何を書きたいか:俳句史、特に戦後。もしくは江戸俳諧について。」
【筑紫磐井感想】
子規、虚子が中心となっている現代俳句の系譜の中で、紅葉・鏡花らを取り上げたのは見識である。ただ、論者は二人を、西鶴の系譜ととらえているがこれは小説であってはそうかもしれないが、俳句にあってはどうだろうか。
さてこの論では、岸本尚毅『文豪と俳句』、高山れおな『尾崎紅葉の100句』、小澤實共著『近現代詩歌』を使っているが、単著としては高山が圧巻である。高山は『尾崎紅葉の100句』以後、「『尾崎紅葉の100句』補遺」「翻車魚」第6号(2021年11月号)に掲載(『尾崎紅葉の100句』刊行以前に補遺が出るのもすごい)、さらに雑誌「オリジナリ」に「はれのち句もり」と題して紅葉・鏡花のみならず、巌谷小波、徳田秋声、江見水蔭、川上眉山、小栗風葉、柳川春葉の紅葉の門葉、太田南岳、谷活東、石倉翆葉らの晩年の弟子、星野麦人、角田竹冷らの周辺作家を取り上げており、いわば「紅葉山脈」の鳥観図を示している。これを見ると確かに子規一派に対し紅葉一派は見劣りするようだし、紅葉一派が何をめざしたかは子規一派程明確ではないようである。『尾崎紅葉の100句』で示されたように、直線志向の子規と違って得体のしれない紅葉の俳句を知るには、周辺まで視野を広げることは意味があるかもしれない。
紅葉・鏡花の批評で興味深いのは、この中に三島由紀夫が出てくるのだが、それは、中央公論社『日本の文学』で紅葉・鏡花の巻の解説をしているからだという。力作だそうである。紅葉については、その他の評者として日夏耿之介(意外である!)、荻原井泉水、島田青峰、村山古郷の名も挙がっている。せっかく紅葉・鏡花を取り上げたのだからこれらを踏まえて現代最高峰の紅葉・鏡花論を書いてみてはどうか。俳人で紅葉・鏡花を研究する人は極めてまれだからこれは決して夢ではない。
この論でもう一つの山となっている西鶴の影響であるが、通説での小説における西鶴の影響は間違いないであろうが、俳諧についての影響はあまり論じている人がいない。現代俳人では、高橋睦郎が紅葉は西鶴の談林でなく、其角の江戸座に近いと言っているのは銘記してよい。高山も同感している。論者独自の論があってもいいが一応参考にしておくべきだろう。
参考までに、明治時代の子規の日本派の有力なライバルであった紅葉派・秋声会が以後忘れられてゆく過程には、高濱虚子のキャンペーンの影響があったようである。ホトトギスで虚子による「読本中にある俳句」(大正9年1月~大正12年10月)があり、その教科書俳句批判の中でホトトギス以外の俳句を排除された結果と見てよいかもしれない。
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以上、私が論者を批判できるほど深い見識を持っているわけではないが、私が気づいた紅葉・鏡花論の周辺を掲げてみた。これらを批判できればほぼ完璧な紅葉・鏡花論が完成するだろう。感想と題した理由である。