瀬戸内寂聴句集『ひとり』(2017年刊、深夜叢書社、第6回星野立子賞受賞作)を何度も読み込む。
帯文の裏面を引いておく。あと本句集には、瀬戸内寂聴さんのエッセーも収録されている。
「・・・・・・生ぜしもひとりなり、死するも独(ひとり)なり、されば人と共に住するも独なり、そひはつべき人なき故なり」という一遍の言葉が、人間の孤独の本性をすべて言い表していると思った。「おのづからあひあふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」という一遍の歌は、私の護符であった。ふりかえってみれば、私の書いてきたものは、はからずも、一遍のこの言葉やこの歌のこころを。ただ追い需め、なぞっていたのではあるまいか。(『瀬戸内寂聴全集 第十七巻』解説より引用)
ぼうたんのうたげはをんなばかりなり
牡丹(ぼたん)・ぼうたん。この大形の花は気品があり、中国では「花王」と言われる。
その牡丹の宴(うたげ)があるという。
をんなは、古語で女。成人した女性を指す。または、妻。恋人である女を指す。
優雅な牡丹の宴は、優艶な女性たちだけの焔(ほむら)のようだ。
瀬戸内寂聴の小説の代表作のひとつ、『現代語訳 源氏物語』に匹敵するほどの俳句作品のひとつだ。
小さき破戒ゆるされてゐる柚子湯かな
柚子湯とは、柚子(ゆず)を浮かべた風呂のこと。
冬至の季節の身体をいたわる生活の知恵で江戸時代には命に関わる寒さによる危険をしのぐための生きる術として現代の生活にも残る風習だ。
その柚子湯の湯船の海原を小さな破戒を許されていると把握する慧眼の秀句だ。
身ほとりのものの芽ばかり数へをり
「身のほとり(身ほとり)」は、自分自身にもっとも親(ちか)しいヒト・モノ・コトの総称のこと。
ものの芽は、春の季語で春のもろもろの草木の芽のこと。
身ほとりの春の息吹を数えている丁寧な生き方は、「はるさめかなみだかあてなにじみをり」「子を捨てしわれに母の日喪のごとく」「ひと言に傷つけられしからすうり」「生かされて今あふ幸や石蕗(つわ)の花」など人生と自己に向き合いながら瀬戸内寂聴文学を貫き通す道のりの新境地だったのかもしれない。
ろまんちつく街道旅の涯に野火
反戦の怒濤のうねり梅開く
待ち待ちし軀の中まで天の川
ロマンチック街道とは、ドイツにあるヴュルツブルクからフュッセンまでの約400kmの人気の観光街道のルートのこと。野火(のび)は、野焼きの火のこと。野山の不審火。また野の火事。ロマンチック街道の旅の涯に作者は、野焼きの火の燻るような文学の火種を得ていたのかもしれない。
下五の「梅開く」に金子兜太先生の俳句「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」を連想させる。金子兜太先生の揮毫された反戦のプラカードが怒濤のうねりのようだった。俳句と社会をどう繋げていけばいいのか。いまだ私の課題のひとつをこの句は、想起させる。
待ち待ちしの心境と軀(からだ)の中まで天の川が注ぎ込まれる詩的な感受性も良い。
共鳴句をいただきます。
紅葉燃ゆ旅立つ朝の空(くう)や寂
すててこそ虹たつ今朝のかぎりなく
ひとり居の尼のうなじや虫しぐれ
寂庵に誰のひとすぢ木の葉髪
おもひ出せぬ夢もどかしく蕗(ふき)の薹(たう)
菜の花や神の渡りし海昏く
をとめらの足首繊し青き踏む
煩悩もあはあはとなり春愁
春逝くや鳥もけものもさぶしかろ
神の留守森羅万象透きとほり
ほたる抱くほたるぶくろのその薄さ
星ほどの小さき椿に囁かれ
むかしむかしみそかごとありさくらもち
独りとはかくもすがしき雪こんこん
湯豆腐や天変地異は鍋の外
御山(おんやま)のひとりに深き花の闇