未来俳句については6月刊の「ウエップ俳句通信」152号で特集<筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして>で、私の「未来俳句宣言」とこれに対する57名の反響を取り上げていただいた。ただこれは「宣言」に対する理論的な反響であって、具体的な未来俳句への批判は少なかった。有季定型にたいして、無季や自由律、短律の俳句にこそ未来があるのかという論争であった。
ちなみに、この特集と前後した角川「俳句」5月号で「未来俳句宣言」と題した16句を掲載し、これにたいして同7月号で「合評鼎談」(能村研三、恩田侑布子、小野あらた)が行なわれた。未来俳句宣言に対する批判でなく、未来俳句宣言に基づく作品の批評だから「ウエップ俳句通信」152号とは違う生々しい批判もあった。未来俳句論争としてはまずこちらがあった方が分かり易いと思うので取り上げてみたい。
●能村研三
未来俳句の本質をつく批判ではないが、未来俳句の拒絶に現われる多くの定型的な批判が含まれているので取り上げてみたい。ただその前に、この作品で能村氏が取り上げた1句は特殊な環境におかれていたので少し補足を加えたい。
ユネスコは神の饗宴
実はこれ以前からユネスコの文化遺産登録に対し私は少し異見を持っている。ユネスコの世界遺産登録を提唱した有馬朗人氏と長いお付き合いがあり、有馬氏のユネスコの世界遺産登録を提唱した理由が誤解されて伝わっているためである。有馬氏は、ユネスコに登録されるであろう俳句は有季定型の伝統俳句だけではなく、無季俳句、自由律俳句を含めるものであることを提案し、ユネスコ登録協議会の発起人大会でその点を明言し、他の3協会の会長(宮坂、鷹羽、稲畑)の了解を得て、協議会の発足を進めたのである。発足後は有馬氏は協議会会長に就任し、この方向で精力的にユネスコ登録に向けて尽力された。
ところが有馬氏の没後、協議会や、他の協会ではユネスコ登録は有季定型俳句でなければできない、無季俳句、自由律俳句は含まれないという主張が盛んにされるようになり、公文書にも現れ始めた。現代俳句協会ですらそうした考え方を持つ人がふえてきた(もちろん現代俳句協会内のそうした人々は、だからこそネスコ登録をすべきではないと言うのだが)。
有馬氏と長年のつきあいのある私としては、有馬氏の名誉回復を果たすため、古い文書や記録を発掘し、有馬氏がユネスコ登録するための俳句は無季俳句、自由律俳句を含めると大会で発言していることを確認し、これを文書にして現在の4協会・1協議会の会長(高野・片山・井上・高野・能村)を訪問しこれを文書で確認し公表することにした(国際俳句協会機関誌HIAに掲載済み)。これは歴史的事実である。だからこれをもって私の仕事は完了し、ユネスコ登録には中立的な立場にいるのだが、どうもその時の経緯から私はユネスコ登録反対論者と思われているようだ。そんなことはないのだが。
ただこんな文脈で、掲出の句を読んでみるとよい。能村研三氏はこのように言う。
「「神の饗宴」という表現はとても強い比喩的な言い方で、ユネスコの活動や存在に対して、何か違和感や皮肉、或は批判的な感情をこめた言い方なのでしょう。たとえば、世界遺産が観光開発で「お祭り騒ぎ」になってしまうことへの違和感、国際機関の意思決定が現場感覚から遠いように見えるもどかしさは詠んだものでしょうか。」
俳句には様々な解釈があるから、それを否定するものではない。しかしだからといってこれを正しいとする証明はなかなかに難しい。
未来俳句(その原型に当たる前衛俳句)は、作者が自句自解をしてはならないという鉄則を持つ。作者に許されるのは宣言だけである。作者に解釈権はないのだ。もちろん他者がかってな解釈をする自由はあるが、それは他人の暴言である。読者は、自句自解で真実を探究しようと言うのではなく、他者の荒唐無稽な解釈鑑賞を無責任に楽しむのである。
ただ自句自解の否定は、面白い現象を生む。自句自解を否定されるから、鑑賞者は自己責任において解説しなければならない。作者の声は、鑑賞者によってしか聞くことができない。こうした無限定な解釈は、作者を語っているように見えながら、実は評者自身を語ってしまう。「ユネスコの活動や存在に対して、何か違和感や皮肉、或は批判的な感情をこめた言い方なのでしょう。たとえば、世界遺産が観光開発でお祭り騒ぎになってしまうことへの違和感、国際機関の意思決定が現場感覚から遠いように見えるもどかしさは詠んだものでしょうか。」は決して作者の解釈ではない。世の中の反ユネスコ登録論者を忖度して、能村研三氏がひきづり出した解釈なのだ。しかし、協議会会長としては余り認めてはいけない発言のように思われる。
このように、未来俳句は社会性俳句と違ってメッセージ性はない。そこに如何なる主張も持たない。鑑賞者がどのよう受け取るかだけが問題なのだ。未来俳句は何も語らない、鑑賞者だけがメッセージを生み出し、妄想し、そして暴走してゆくのだ。
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以上は未来俳句に対する副次的な問題だ。本質的問題は能村氏の上記の発言の前後に語られている。
「昔同じ結社で一緒に机を並べていた仲間です。作品16句と書いてあるけれど、これ作品なのかな?申し訳ないけど。16行ならまだ分るんですが。・・(ユネスコ登録に関する発言)・・後はもうコメントできません!(笑)」
能村氏は、未来俳句(特にそれにおいて特徴的な短律)は作品(俳句)であることに疑問があることを提示している。もちろんそういう見方を否定するものではない。しかし基準は公平一律であるべきだ。掲出した作品が俳句でないというならば、「風の明暗をたどる 山頭火」「鉄鉢の中へも霰 山頭火」「咳をしてもひとり 放哉」「墓のうらに廻る 放哉」「うごけば、寒い 夢道」「陽へ病む 裸木」も俳句ではないといわなければならない。そしてこれらは俳句でないというならば、今までの近現代俳句史を破壊する(その上で新しい近現代俳句史を創造する)覚悟がなければならない。そうした野心的主張を展開する人にこそ許される発言であろう。能村氏には是非そうした創造的破壊を進めて欲しい。閉塞的な俳壇を打開するもう一つの道でもある(ただ私には、山頭火や放哉がいない俳句の世界はひどく惨めな文学世界であるように思う。これは間違いなく「国際俳句」を長く提唱してきた有馬朗人氏が明言していたことで、世界に通じる俳人は、日本には芭蕉と山頭火しかいないと述べていた)。
●小野あらた
「この作品すごいですよね。
原稿料は字数を以てせず
もしかしたら言い訳かなと思った一句です(笑)。この作品は文字数が少ないので。自己言及もこの一連らしいと思いました。」
新進気鋭の若手作家がこのような作品に感心してもいいのかなと思ったが、その勇気に感謝しておく。あるいは、俳句総合誌にこのような句を掲載させることを揶揄しているのかも知れない。未来俳句の作者が何を考えているのか分らないように、未来俳句の評者も本当のところ何を考えているかはよく分からないのである。
ただ、取り上げられた句は、一連16句の中で唯一大半の俳人に意味の分る句だと思う。異議があるとすれば、何故こんなことを俳句で詠まねばならないのかという点だけであろう。他の一連15句は殆ど短律で解釈困難であるから、この句は15句の解説と言うことができるだろう。もしかしたら前書きとか、脚注にしてもいいぐらいの無意味な、非芸術的なフレーズである。小野氏が「自己言及」といっているのはこうした趣旨であろう。カッコよく言えば、「俳句とは何か」を問いかけているということになるかも知れない。もちろん例によって未来俳句は答を与えてくれない。強いて言えば、虚子に「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」と言う句があるがこれと同様というか、何が違うのかはよくわからないと思ってもらえれば十分だ。
ただ虚子の句と違ってこの句が圧倒的にすぐれているのは、俳句の「打算的計算」ができる点だ(それ以外の点は虚子の句に圧倒的に劣るかも知れない)。この「未来俳句宣言」16句と同時に「俳句」5月号に発表されたすぐれた作家たちの16句は同じ原稿料が払われているから、1字あたりのパフォーマンスは短律ばかりの「未来俳句宣言」16句が圧倒的に有利である。小説や評論は原稿用紙(400字詰め)枚数で支払われるはずだから、俳句や短歌だけはこの不合理な句数・歌数で縛られていることに気付かせてくれる。かといってこの「打算的計算」がどれほど文学的価値があるかといえば全くないのである。未来俳句はこうした非常識な現実を露呈させる。未来俳句において必要なのは長谷川櫂氏や小川軽舟氏が唱える「俳句的生活」ではない、「俳句的思想」である。俳人以外のまっとうな人々が決して言わない、或は忖度して言えない真理を、言い間違いのような顔をしてぽろっと語ってしまうのである。だから未来俳句は、芭蕉の言う夏炉冬扇なのである。
●恩田侑布子
「自分の16句の短律は未来俳句なんだということは、大方の俳人がやっている俳句は古臭いと言いたいのでしょうか。自分こそ未来俳句なんだという宣言。・・・」
作品そのものよりは作品のよって立つ未来俳句ないし未来俳句宣言を推測しているようである。作者が言及していない未来俳句宣言を評者が作り出すという意味では上に述べてきた例に通う。この作品では、未来俳句宣言は題名だけで出てきて、その内容はどのようなものかは一切説明していいない。ここでも、作者は未来俳句宣言を説明しない、評者はそれぞれが推測する未来俳句宣言に基づいて批評すると言うことでよいと思う。ただ調べていただければ分ることなので興味が向かれたらご覧頂きたいと思うが、「未来俳句宣言」の眼目は、「我々は過去に見たことのない風景を見たいのだ」なのであって、他者を否定しているわけではない。しかしこれは作品本位の批評ではない。これはしばらくおいておくこととしよう。
「俳句で言えば自由律、それも短律という範疇に入るのでしょうか。でも短律の俳句というのは、本当は575定型よりもさらに一段と困難で難しいもので、詩の弾丸を込めなければ一句として成立しないですよね。この中に1行づつに詩の弾丸が込められていると思う方がいらっしゃるでしょうか。」
「「未来俳句宣言」だから、現代の短律だぞ、どうだ!ということで。私たちに自分のきらびやかな才能を問うた作品と言うことなんでしょうが、短律というのは575より遙かに難しく、詩の弾丸がなければ成立しえない。例えば山頭火の「鉄鉢の中へも霰」、尾崎放哉の「墓のうらに廻る」、橋本夢道の「うごけば、寒い」。これはみんなどれも言葉遊びなんかじゃ全くないですよ。反対なんですよ。命がけの言葉ですよ短律は。大橋裸木の「陽へ病む」もそうだと思いますが。言葉の俳句とか、頭の俳句とは対極にあるものだからこそ成り立っているんですね。575の定型を脱ぎ捨てた短律という俳句の異形の形式には、575定型にはない凄まじいポエジーの郷土があるんです。それがなかったら、そもそも短律俳句は自律できない。単なる一行の言葉の切れ端になってしまうのでははいでしょうか。」
「もっと真面目にやっている人はいて、これは完全に遊び、ただの言葉遊び。凄い皮肉なシニカルな笑みを浮かべたような。真心とか、鬼貫が言った、まことの俳諧とは逆ですね。」
「全体16句を見渡すと言語操作ですよね。言語操作に徹して、斜に構えています。」
言語感覚に鋭い俳人だけに批評で使われている言葉は鋭い。例えば、「詩の弾丸が込められている」かなどは是非使いたくなる評言である。問題はこれをどう組合わせるかであろう。
「未来俳句宣言」16句、あるいは短律俳句が「詩の弾丸が込められている」と問いかけるのは適切であるが、現在新聞や雑誌で量産されている575定型俳句にも「詩の弾丸が込められている」か問われるべきだろう。有季定型俳句だから「詩の弾丸が込められて」いなくてよいと言うことにはならない。少なくとも未来俳句は、「過去に見たことのない風景を見たい」といっている以上、それが成功しているかどうかは別として「詩の弾丸を込め」ることを期待しているのは間違いないだろう。しかし575定型俳句の人たちからは、寡聞にして「詩の弾丸を込め」たいという声を余り聞いたことがない。575定型俳句の人たちより、未来俳句、短律俳句の人達の方が多少とも真面目であると思っている。もちろん、成功しているかどうかは別である。
その次は、「命がけの言葉」、「真心」、「まことの俳諧」と対比される、「言葉の俳句」、「頭の俳句」、「言葉遊び」、「言語操作」である。もちろん後者が未来俳句に属するものと思われる。これは1句の鑑賞であるから、評者の主観でそのように評価することは差し支えないし、概ねあっていると思う。しかし、「命がけの言葉」はすぐれていて、「言葉遊び」は劣っているという価値観は必ずしも正しいかどうかは分らない。かつて岡本眸は、私の俳句を評して現代俳句は言葉遊びの時代に入ったと言ったことがある。多分、加藤郁乎、攝津幸彦、高山れおなもその傾向だと思うし、(そういうことに批判もあろうが)鷹羽狩行もそうした傾向を持つと思う。恩田氏が高く評価した自由律俳句作家の作品は境涯俳句に近いかも知れない。確かに真面目である。これは拡大すれば、草田男、楸邨、波郷の人間探求派に繋がる。確かに過去古典として残る名作はこうして生まれて来たかも知れないが、現代俳句、未来の俳句がこうした価値観でのみ律されるべきかと言えばそうだとばかりは言えないと思う。非常に言いすぎになるが、現代の俳句、未来の俳句は不真面目でなければならないと思う。それが俳句、俳諧性の本質だからである。
作者が語らないから困ってしまう一例をあげてみよう。
美は改造にあり
瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』は大杉栄と伊藤野枝を描いた小説であり、大杉栄は戦前の雑誌「改造」に連載をしていたので恩田氏は「書名をミックスしただけでありまして、パロディにもなっていないと、申し上げにくいけど申し上げてしまいます。」と述べている。「改造」が社会主義系の雑誌であり、大杉栄も特高の弾圧で拷問死したから、そういう歴史を読みとったのだろう。知識はそう言う道筋を描くが、その上でパロディにもなっていないと断言するする。そうした意図で作ったとしたら仰る通りだ。
ところで、私の周辺の知り合いで俳句に全く関心のない者に聞いてみると、この句は「美容整形」を描いただけのもので、意味は間違いようがないという。ただなぜ現代の俳句で美容整形を詠むのか意味が全然分らない、と言われた。馬鹿にしているのか、時代批判なのか、作者自身が馬鹿なのか。それとも俳句の深い本質を探求しようとしているのか。
未来俳句は自ら解釈を語らないから、批評も読む読者に任されている。
群青の日章旗
「この句だけは唯一成り立っているかな?恐ろしいファシズムだけれど。「群青の日章旗」は単なる反対言葉や付きすぎとは言えないんじゃないですか。日章旗が群青であるわけない。日章旗は白に赤じゃないですか鮮烈な。その上に「群青の」とかけたのは・・・(「うみゆかば」の歌をあげて)・・・大勢の若者たちが日章旗のもとに送られて、天皇陛下万歳と言って、群青の青い海の藻屑となっていったという幻想はここから立ち上がるけれど、非常に恐ろしいファシズムの匂いがするなと思いました。だけど俳句としては成り立つと思いましたね。客観的に。」
16句のうちの1句だけを俳句として成り立つと言っていただけたのはありがたい。矢張り作品はよき鑑賞者を求めるものだ。