2022年3月25日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(8)

 第45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【赤野氏】「伝統」「前衛」について

「近代人にとって王道(伝統)は我慢のならない桎梏であるところから、常にそれに対する反攻を繰り返しています」

というご意見については、かなり違和感を感じます。どちらかといえば、近現代人にとって伝統とは、ご都合主義的な権威付けの手段の側面が強いと思われるからです。

 たとえば現代日本で「伝統俳句」といった場合、無季や社会詠、破調は含まれないものとして扱われることがほとんどでしょう。しかし、それは「ホトトギスの伝統」であって、俳句、俳諧の「伝統」ではありません。現代の目から見れば新興俳句、前衛俳句もすでに「伝統」である上、子規や俳諧の時点ですでに無季、社会詠、破調などは含まれていた要素です。

 したがって、現代のいわゆる「伝統俳句」を高柳重信に倣って「偽伝統派」と呼んでもよいのですが、そもそも伝統というものは現代から遡及して設定されるものだ、という基本的性質をよく表す事例と考えるべきなのかもしれません。

 同時に「前衛」というのもよくわからなくなっています。現代において、「前衛俳句」の意味するところはは、かつての前衛俳句というお手本のある「スタイル」となっています。要は練習すれば誰でも(出来不出来はともかく)真似できるものです。「前衛」の本来的意味からすれば、そんなものを前衛とは言わないでしょう。

 まあ言ってもいいのですが、少なくともそういった「偽伝統vsスタイル前衛」では、ヘーゲル的な価値ある対立になるとは思えません。

 「伝統俳句vs前衛俳句」というアングルは、昭和の一時代には機能したのかもしれませんが、現代においては賞味期限切れといわざるを得ないのではないでしょうか。あるいは、この対立は「現代俳句」というジンテーゼとしてすでに解消した、といっていいのかもしれません。

 ヘーゲルと書きましたが、一般論として、ある種の対立や競争が物事を前進させるエネルギーになることはあるでしょう。ただし、どんな対立や競争でもいいというものではありません。米国流成果主義競争を真似て荒廃していった日本の労働環境などはわかりやすい例でしょう。

 では現代において価値のある、機能する対立とはなにか、ということになりますが、まだ私も確立した見解は持っておりません。あえて言うなら、「文学vsビジネス」が主要な対立になってくるのかな、という予感はあります。この対立自体は古くからありますが、現代では俳句のビジネス化が進むことにより、新たな形で浮上してくるのではないかと思います。

 現代における価値ある対立軸については、筑紫様のご意見をさらに伺えれば幸いです。


 【筑紫】

(1)伝統について

 伝統という言葉を用いているのは古いことではありません。また、現在色々論争する際に便利だから使っているのであって初めから伝統ありきではないということが大事です。伝統という言葉を使って何を言っているのかが大事なのだと思います。

 王道(伝統)に違和感を感じるというのは理解できます。私が言いたいのは、代表的伝統俳句主張者(虚子)が提唱している「題詠」こそが俳句の王道(始原)だということです。伝統などということは枝葉末節かもしれません。

 私が思うところ、俳句(というよりは俳諧、いや誹諧)の根源は題詠ですし、文学そのものが題詠でなくては生まれなかったと思います。北欧のサガや中国の楽府、記紀の古代歌謡、ユーカラや沖縄歌謡などがその根拠です。「イリアス」もそうした痕跡が見えるようです。作者の個性がにじみ出る紫式部やシェークスピアが出るのはそのはるかずっと後です。

 ご都合主義的な権威付けという批判や「伝統俳句」への拒否は、現代人として当然のことだと思いますが、我々の俳句の根源は明治からさらにさかのぼって江戸時代、連歌を介すれば平安時代にまで到着するのです。それらの人々の考えや感覚をなしにして俳句を考えることは難しいのではないかと思います。我々は何と言おうとも芭蕉の桎梏の中で模索しているのですから。現代人だからこそ拒否感を感じるので、古代人には拒否感はなく、ないしは関心がない(そもそもなんでそんな議論をするのかわからない)ということになると思います。

 その際使われるやすい自由という言葉もありがたい言葉ですが、自由そのものを我々は見る事が出来ません。何かから解き放たれるから自由なのであり、芭蕉から自由、江戸月並から自由、虚子から自由、新興俳句や前衛俳句から自由と言われて意味が初めて分かるのではないかと思います。現在の我々は何から自由にあるべきでしょうか。

 自由であるために必要なのは時代認識だと思います。伝統と前衛の対立が普遍的に間違っていたかと言われればそんな証明はなかなか難しいように思います。あの時代にあっては意味のある対立だったのでしょう。その時代の時代認識が問題です。では現在の時代認識から言えばいかなる対立事項があるかと言えば、様々な考え方があると思います。確かに、伝統と前衛の対立ではないように思えますが、その行く先は様々です。ご指摘のように「文学」vs「ビジネス」という考え方もあるでしょうが私はあまりしっくりきません。なんとなく一般文学論化している感じがあるせいかもしれません。

 私の感覚では、多分それを考える前提は、「俳句無風時代からの自由」を考えないといけないように思います(自由というよりは建設かもしれません)。

 全く思い付きなのですが、そんな中で、「俳句上達法」vs「鬱」は対立軸としてあり得るかとも思います。俳句の行動のモチベーションを何と考えるかという対立軸です。コロナだけではなく、高齢者は生活の不安から鬱になり、若い人は非正規雇用により鬱になっているようにも思います。気になるのは若い俳人が時折死んでいることです。澤田和弥や吉村鞠子、木村リュウジ等の名前が思い浮かびます。その原因は私が思っているのとは違うかもしれませんが、現代を象徴しているようにも思えます。

 とはいえ、これらは一種のメタファーですし、「俳句上達法=ビジネス」vs「鬱=文学」と還元すれば、ご高説に似てなくはないでしょうし、さらに「伝統=俳句上達法=ビジネス」vs「前衛=鬱=文学」と見ればお定まりの伝統と前衛の対立にも引き当てる事が出来るかもしれません。

 もちろん責任持って言える話ではありませんが、よく捕まえきれない時代を捕らえるためには、こんな風にさまざまに機軸をいろいろずらして考えてみて、帰納して行く先を考えてみるのも一つの方法のように思えます。

(続く)

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