2022年3月11日金曜日

北川美美俳句全集12

●俳句新空間9号(平成30年4月)

 第9号は、金子兜太追悼特集であり、三橋敏雄だけでなく、金子兜太への関心も深かった北川はいくつかの兜太追悼の散文や追悼句を発表している。

 また作品として、新作20句のほかに、平成雪月花句集も選集として掲載しているのでこれらも併せて掲載することとする。

 さらに、兜太追悼の参考として末尾に、北川の執筆した「第83回海程秩父俳句道場潜入ルポ」を参考に添えておく。

〇兜太追悼文

存在者の行方

                  北川美美 

 いずれは来るとはわかっていたが兜太の死がとてもさびしい。高柳重信、三橋敏雄、飯田龍太、…いわゆる昭和の偉大な俳人に遭遇することは叶わなかったが、晩年の兜太の存在感、衰えを見せない力強い作風に触れることができた。また存在者としての兜太の言葉に支えられてきたことに改めて気づく。

 前線での戦争体験者であった兜太は帰還後、逆境を糧に自分の道を見出してきた。俳句においての兜太は決して順風な成功者ではなかったと思えるが多難だった故の道の開き方をしてきた。海程という結社にとどまらず、前衛や伝統というすみ分けやジャンルを超えて人を愛した。なんといっても異端として思われがちな前衛の印象、いいかえれば逆風を追い風に変えて行った印象が強い。逆転の発想で切り抜けて来た人だからこそ兜太はみずから存在者になり得たとも言え、多くの言葉に温かさと気遣いを伺うことができた。

 「どうでもいいじゃねぇか。」―力強い兜太の口調に多くの人が救われる。率直にものを言うことはそう簡単なことではないことを多くの大人が実感するのである。

 大正の男が春浅き日に消えた。巨人は巨星になった。最後の存在者ではないかと思える兜太がいないこれからを思うと不安が募る。

※存在者とは「そのまま」で生きている人間。いわば生(なま)の人間。率直にものを言う人たち。これが人間観の基本です。     金子兜太 

―2016年 朝日賞受賞記念講演より


〇金子兜太追善句集

                   北川美美

海程秩父道場にて兜太氏は旅館側で用意した両断されたバナナを片手摑みに登場。2015年の春だった。

マラソンや手渡すバナナ半裁に



〇平成雪月花句集

                        北川美美

 雪

ひとりきてふたりきてさあゆきまろげ 2012(24)

つみつもるがれきにゆきのふりつもる 2012(24)

てのひらにかみさまのゐてゆきのきゆ 2018(30)

 月

満月にすこしほぐしておく卵 2013(25)

夏の月うしろ歩きのさやうなら 2016(28)

 花

初花やひかりあつめてゐたりけり  2011(23)

国旗の如く運びしビニールシートへ花  2013(25)

走ることすはなち桜吹雪かな 2016(28)

夜桜に背中を向けて座る席 2016(28)

きのふよりふくらむ桜遊ぶ鳥も 2016(28)


   春の雷  北川美美

せせらぎがきさらぎ色にひかりだす

セーターに水をくぐらせ獣めく

蠟梅や冷たきままの壺の水

家ごとに水路を渡す橋に雪

人と人抱き合ふ隙間草の花粉

しばらくは四角い部屋のヒヤシンス

春隣抱かるる稚(やや)に見つめられ

摘み過ぎの土筆を飼ふや硝子瓶

階段を昇つた先の春の海

マネキンの隣に座る日永かな

石鹸玉突ひて青空破りけり

孕み鹿瀧に打たれし人に寄る

半円を描きて霞吐きにけり

夕暮やからだ斜めに梅の園

闇を来て雛の後ろに着きにけり

うどんやに掛け軸の絵の雛かな

傷跡が痛くてならぬ春の夜

春の雷たましひひとつ谷渉る

電球を昼間は消して花の山

朧夜につかんではなす豆腐かな



●【第83回海程秩父俳句道場潜入ルポ】特別イベント編 (講演:筑紫磐井、関悦史) ~断崖を窓辺に社会性俳句・兜太造型論を考える秩父の春~ /北川美美

                         2015年5月15日金曜日


 特別イベントとして、筑紫磐井、関悦史の両氏の講演が道場二日目の午前に行われた。前日の夕食の席で金子兜太主宰より「当代きっての論客の御二方」と紹介があった。海程の皆様はもとより、一番この講演を楽しみにしていたのは兜太主宰自身と思え、両氏へのエールが伝わってきた。

 筑紫氏はの秩父道場ゲスト講演は2回目である。筑紫氏の昨年12月刊行の『戦後俳句の探求<辞の詩学と詞の詩学>-兜太・龍太・狩行の彼方へ―』の内容の大半が金子兜太論、そして社会性俳句、前衛俳句について割かれていることから今回の招聘の依頼があったようだ。帯文(下記)を金子兜太主宰が記している。


戦後俳句の全貌を

表現論を梃に

見事に整理してくれた

のが、この本。

著者は初めて本格持論

『定型詩学の原理』で

注目を集めた、俳壇を代表する評論家。

料理の腕前は冴えている。

―金子兜太


【関悦史講演】

 講演は関悦史氏からスタート。関氏の論評は兜太主宰も目にされている様子が伝わり「油の乗り切った書き手」と称賛。確かに関悦史はここ数年で執筆の場を広げ、現在は角川『俳句』において俳句時評を担当、その他俳句関連の誌上での活躍を目にする機会が増えた。

 2014年12月8日朝日新聞掲載の朝日俳壇<うたをよむ>の欄、昭和13年作の白泉句<銃後といふ不思議な町を丘で見た>が現代にも通じる恐怖として鑑賞され、非常に記憶に残る一文であった。

 さて実際の講演内容、関氏は社会性俳句について語るようだ。まず「社会性俳句」の用語説明に関氏は「時事詠・社会詠」という言葉を使用していた。(筑紫著書『戦後俳句の探求』の中では、<社会性のある句><社会性俳句>と用語の範囲を広げ細分化して定義している。ここでは、関氏がそういう言葉を使用したということに留めたい。)また告発やスローガンに陥りやすい傾向をどう乗り越えてきたのか、時代の事象、事件とともに古沢太穂句をテキストとして説明。そこには実作者である関自身の興味「何故古沢太穂が生涯において社会性俳句を詠みつづけることができたのか」と、時を経て太穂句に対する関の見方が変化してきたことが反映されている内容だったように思う。

社会性俳句の特徴のひとつとして関氏は以下を語る。

関:社会性俳句の性質として単なる時事詠にとどまらない「美しくないものが魅力的である」という芸術としての側面があった。

資料として、「古沢太穂の第一から第六句集・拾遺」と句集別に例句が並ぶ。


ロシア映画みてきて冬のにんじん太し 古沢太穂 

ローザ今日殺されき雪泥の中の欅 

ビラ百枚貼り終わりたり五月の朝 

ででむしがへ角かあし子らの日だ 

熱砂に漁婦泣き「日本の巡査かお前らは」


実際の一句に触れておこう。


白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ  古沢太穂  

                   第二句集『古沢太穂句集』1955


 この句の制作年あたりの社会的な事象として松川事件、三鷹事件などにつづき、内灘闘争の説明があった。内灘闘争(うちなだとうそう)とは、昭和24-32年、石川県河北郡内灘村(現在の内灘町)で起きたアメリカ軍の試射場に対する反対運動で、太穂は実際に内灘の反対運動に参加している。


参考:(内灘町ホームページ内の内灘闘争についての説明)


関:「内灘」闘争自体は歴史の彼方の事件となったが、この句自体は事件と一緒に古びることもなく、記録映画の名作のように、かえってこの句によって内灘が記憶されるというようなことになっているのではないか。


さらに、講演後のこの句に対する関氏の見解が掲載されていた。


古典とは唯一の意味を永遠に発し続ける作品をいうのではなく、歴史の推移に応じて無限に多様な意味を産出し続けることができる作品をいう。そうしたことをロラン・バルトが書いていた。言い換えれば、見え方が変わり続けることができるのが古典たりうる作品の条件であり、太穂のこの句もそうしたものになりつつあるということなのかもしれない。

        (WEP俳句通信vol.85 筑紫磐井『戦後俳句の探求』散策/関悦史)


 古沢太穂の掲句は、実は、筑紫氏の『戦後俳句の探求』の中で語られる句であり、兜太氏の<原爆許すまじ蟹つかつかと瓦礫あゆむ>と並列し、この二句の評価を認めない川名大氏と筑紫氏の論争が続いている問題句でもある。ちなみに筑紫氏は『戦後俳句の探求』の中で、社会性俳句作家の沢木欣一が定義した<社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から生まれる俳句を指す>に太穂の句がもっともぴったりとする」と記している。そして、「白蓮の句が太穂句の中でいちばん輝いてみえる」とも記している。


 関氏の講義資料は、更に、富沢赤黄男、三橋敏雄、渡邊白泉、攝津幸彦、最新の例句として竹岡一郎、水岩瞳、渡辺誠一郎、森島裕雄、谷川すみれの句が並ぶ。


 戦火想望俳句の当時の実作について関氏は以下を語る。


関:戦火想望俳句ついては、何故実際戦地に行かず想望して制作することができたのかということが疑問が生まれるが、当時は戦地での日本の情勢を知らせる、映像が一般公開されていた。なので映像を観て作ったのではないかと言われている。


射ち来たる弾道見えずとも低し 三橋敏雄 

赤く青く黄色く黒く戦死せり 渡邊白泉 

繃帯を巻かれ巨大な兵となる 〃

南国に死して御恩のみなみかせ 攝津幸彦


 戦火想望俳句の特徴として無人称の淡々とした句が特徴であることに触れていた。攝津幸彦句では戦争世代ではない攝津幸彦がかの大戦をノスタルジーとして捉えている世代感を説いた。


 そして最新の社会性俳句として関氏選句によるものを上げ現代の社会性俳句と思われる句、刊行間もない竹岡一郎氏の『ふるさとのはつこひ』が檀上に上がるなどタイムリーな内容だ。


折々の兵器と契る鬼火かな  竹岡一郎 『ふるさとのはつこひ』 

署名する「さよなら原発」秋暑し 水岩瞳 『薔薇模様』 

被曝して玉虫走る殺さねば 渡辺誠一郎 『地祇』 

レジ台をぶち壊す刻冬の雁 森島裕雄 『みどり書房』 

少女寝る同じ地平にホームレス 谷川すみれ 『草原の雲』


 足早ではあったが(しかし予定時間をオーバーしたようだが)、古沢太穂に焦点を絞り社会性俳句について知る良い講義だった。関氏のトークを聴くのは2009年に行われた『新撰21競宴』でのシンポジウム以来だと思う。聴講側の理解が追いつく聴きやすさになったと感じたのは、関氏の経験値そして自分の知識量も多少増えたから?などと思ってみたり。新撰イベントから時が経ったのだ。


 会場の70代とお見受けする男性同人から具体的実作について「世界中で起きる時事を自分の実生活の情景で描きたい」と発言があった。


人類に空爆のある雑煮かな   関悦史


 思うに関氏の空爆の句を成功していると思う、羨望する側からの発言だろう。現在の社会情勢を詠みたい、意欲的ある実作者のナマ声であった気がする(質問とも希望とも受け取れたため、関氏のコメントは「可能と思います。」としていた)。大宮区の三橋公民館で、「9条守れ」と訴えるデモを詠んだ句が思い出された。この句の掲載可否をめぐる論議は続いていて兜太主宰のコメントもマスメディアから発信されている。社会性俳句に挑戦したいと思う方が海程に限らず大勢いらっしゃるのだ。参考:(埼玉新聞)


【筑紫磐井講演】

つづいて筑紫磐井氏。

 「「豈は重信系と世の中では思われている」と筑紫氏が発行人を務める「豈」についての世間からみた師系分類について紹介をする。攝津は高柳重信の「俳句評論」が主催する<50句競作>で見出された新人であり、誰もが重信系と思っている。え!?違うんでしょうか? と思ってしまうのも無理はない。そして「【海程】を語るというのは現代俳句を語ることになる」とつづける。何ごと!?と思う読者もいるかもしれないが、これは海程道場のプライベートな講義であることを忘れてはならない。


 関氏の「社会性俳句」に焦点を絞った講義から、筑紫氏の話の内容は、造型という主題に絞って話が進んだ。といっても自分が反応できた内容(話に反応できたという意味)は、発言のところどころであり、兜太造型論には改めて理解努力が必要である。


 潜入ルポといいつつ、筑紫氏の講義部分については「海程」誌上での筑紫氏執筆のサマリーをご参照いただきたい。部分的な切貼りになるが「造型俳句」について以下引用に努めさせていただく。


・「造型俳句」について

 筑紫氏の著書『戦後俳句の探求』(122頁)では、前衛俳句論争の兜太以外の周辺的発言は兜太自身の制作に反映されている保障が必ずしもないので省いたことが記されている。造型に関わるものについては、以下が抜粋されている。

・造型に関するもの=「俳句の造型について」(角川「俳句」S32/2-3)「造型俳句六章」

造型俳句の七か条

① 俳句を作るとき感覚が先行する。

② 感覚の内容を意識で吟味する。(それは「創る自分」が表現のために行うもの)

③ 「創作する自分」の作業過程を「造型」と呼ぶ

④ 作業の後「創る自分」がイメージを獲得する。

⑤ イメージは隠喩(兜太は「暗喩」という)を求める。

⑥ 超現実は作業の一部に過ぎない。

⑦ 従って「造型」とは現実の表現のための方法である。また「造型俳句六章」では、主体的傾向の技法分析を行い、①感受性、②意識、③イメージを列挙して詳細に論じる。


 また筑紫氏は、兜太前衛俳句を新俳句史として組み込むことを発信している。


 兜太の俳句史の何が画期的かというと、実は従来の歴史観は後述する「伝統」の名の下に虚子の花鳥諷詠と草田男の人間探求を括り、「反伝統」の下に新興俳句と前衛俳句を括って対立させていたのであるが、(現代俳句協会から俳人協会が分裂した理由はこの理念対立に基づくものと考えられている)、実はそうではない歴史観があるということを提示した点である。反伝統の下に人間探求派も新興俳句も前衛も括って、虚子の花鳥諷詠の伝統に対峙させてしまったということなのである、季語の有無のような枝葉末節の問題ではなく、表現態度(諷詠対表現)で俳句史を描いてみようというまっとうな態度であった。 

(『戦後俳句の探求<辞の詩学と詞の詩学>』187頁)


老人は青年の敵強き敵  筑紫磐井


 当時の論争を元に、「老人=草田男、青年=兜太 として読むこともできる」と会場での筑紫氏。さらに時を経て、筑紫氏は新たに歴史の括りを引き直す。


 下記は資料として配布されたもので、兜太造形史観を元に筑紫氏があらたに提案する新俳句史である。(傍線入りが筑紫氏考える新しい俳句史)


[兜太の造型史観の俳句史と筑紫による新俳句史] 

1. 諷詠的傾向=伝統俳句

① 花鳥諷詠=近代の伝統(虚子) 

② 人生諷詠=現代の伝統(波郷)

2. 表現的傾向=反伝統俳句

① 写生的傾向(子規)=新俳句 

② 写生的傾向(碧梧桐)=新傾向俳句 

③ 象徴的傾向(楸邨・草田男)=人間探求派 

④ 主体的傾向(誓子、赤黄男、三鬼)=新興俳句 

⑤ 最新の傾向(兜太)=前衛俳句


 また海程所属の主要作家である阿部完市が(1928-2009年)を俳句史に入れることを忘れてはならないと筑紫は説く。『戦後俳句の探求』の中でも阿部完市の詩学についての項(第7章、第8章)があり、阿部詩学を解くことが辞(助詞・助動詞)の詩学と解く鍵になるとも考えていることがわかる。


 難解といわれている阿部完市の句を筑紫氏は整理していく。阿部完市句は「定型・辞・意識」に分類されるという。辞とは「助詞・助動詞」のことである。山本健吉の「挨拶・滑稽・即興」を模倣したキャッチコピーである。筑紫著書には「阿部の詞の詩学と辞の詩学がどのように統合されるかは阿部完市の詩学には宿題として残されている。」とある。「その上で新しい詩学が見えて来るであろう」、と筑紫氏は記す。


 当然ながら兜太の前衛を考える上で阿部完市が何故、「海程」に入ったかという疑問が生じる。阿部完市は、「俳句評論」だったのだから。そして作品上でも阿部完市と金子兜太を結びつけることが困難だからだ。それに触れることは、何かを解き明かすことにつながる。


 なぜ、「海程」という場で兜太と阿部が協力したのか。これは憶測に過ぎないのだが、第一に難解俳句の問題があろう。(中略)その難解俳句(少なくとも阿部の詩学の前提となる難解俳句)を作りあげたのは金子兜太であった。第二は、兜太が「詞の詩学」の成果の具体的提供者だったからである。(中略)第三は、阿部も一種の天才であった。天才が自由に才能を発揮するためには自由な環境が必要であり統制は敵であった。兜太は少なくともこうした理論的考察にあっては党政派を示すことはなかった。 

(『戦後俳句の探求』247頁)


 講演での踏み込んだ言及としては「考え方も俳句も高柳重信に近いだけつぶされかねない、それが阿部完市が金子兜太を選んだ理由だったとみている」というフレーズがあった。


 「現代の俳句は古典を志向しているが、海程は未来を志向している」と筑紫氏。これは冒頭の「【海程】を語るというのは現代俳句を語ることになる」に通じるもので筑紫氏の考える新俳句史に兜太の前衛俳句が組み込まれるのである。


 最後に金子兜太主宰からの話があった。

 「人生、死ぬまで開放的でなければならないと思っている。虚子が晩年にやったようなことを考えるわけだが、おもしろいことになりそうな予感がある。俳句というのはリアルタイムの活動なのだから。」


 講義後、休憩に入った。兜太主宰は入場時に握っていた両断されたバナナでエネルギー補給をされていた。愛らしい姿だった。午後の句会では兜太主宰の豪快なコメントが飛び交う。選句眼に金子兜太らしさが出ている。背筋の伸びた大物という印象だった。


【付録】1

・筑紫講義から軌道を外すが、筑紫氏が冒頭で「「豈」は俳句評論系と思われている」という挨拶を紐解き、当時の「俳句評論」系と「海程」の袂分け再確認してみた。当時を知るよしもない自分にとっては、その紐解きも興味がわく。面白いことに群馬県の土屋文明文学館では「金子兜太・高柳重信展」が1998年に開催されている。その図録に多少の経緯概略がある。実際の兜太と重信の論争については、兜太が山本健吉に批判されたことからはじまる。


縄とびの純潔の額(ぬか)を組織すべし  金子兜太 

奴隷の自由という御寒卵皿に澄み


 健吉は上記の兜太句を啓示して詩があるか、舌足らずのイデオロギーがあっても思想があるのかと批判する。この論争の渦中に兜太の<造型論>が育ってゆく。従来の俳句の作り方は対象と自己を直接結合させる素朴な方法であるが、造形はこれに対して、そのような態度結合を切り離し、その中間に結合者としての「創る自分」をおこうとするもものである。この考えによって想像の主体の確立がはっきりと自覚されたわけで、草田男がそんなことは誰でも実行していること、あたりまえの事実を述べているだけのことと一撃される。

(中略)

 兜太の「海程」重信の「俳句評論」に若い人々をあつめたが、しだいに相互の相違点がきわだつようになった。「海程」ではものとことばの二重構造が俳句なのだと言った。「俳句評論」では、ことばが俳句の唯一の根拠であり、ことばと作家のかかわりのうちに作品が次第に定着出現してくるのだと主張した。こうした対立と論議のなかから、俳句がことばの自立体であること、読みということの重大さなどが現代俳句の新しい問題として浮かび上がってきたことは、忘れることのできない劇的な収穫であった。 

(「金子兜太と高柳重信~俳句史的に~/平井照敏 1998(平成10)年群馬県立土屋文明記念文学館第五回企画展~戦後俳句の光彩~「金子兜太・高柳重信」図録」 


 この対立は、兜太が『詩形一本』(吉田書房S49)の<<花>は遠のき>中で、重信が『バベルの塔』(吉田書房S49)の<書きつつ見る行為>の中でその論理の対立がみられる。


以下引用を参考にしていただきたい。

・金子兜太の<<花>は遠のき>の結論部分

「つまり、<花>が象徴性よりも現実性(現実性に富む喩という言いかた)において受け取られ、そのために、相対的に流動的にあつかわれている、ということである」

・高柳重信の<書きつつ見る行為>の結末部分

「したがって、この作品に加わっているのは、俳句形式と、その形式に反応しながら自由に流れてゆく言葉と、それを書き留めてゆく僕の手である」


【付録】2

海程秩父道場に参加した感想

 <海程>というのは、金子兜太主宰の大きな結社であるということは存じていた。しかしながら、先にあげたように阿部完市と金子兜太がどう結びつくのかも疑問であったし、加えて、現代俳句協会でつぎつぎに新人賞を獲得する若手、例えば、田中亜美、宇井十間、宮崎斗士、月野ぽぽな、中内亮玄、そして、早い時期に名声を手にした五島高資…などなど、その作風がそれぞれ異なり、自由で力強い雰囲気とともに近寄り難い謎の結社という印象があった。実のところ、過去現俳協新人賞には応募しながらたびたび海程所属の方々が獲得されるという多少の個人的恨みがあったのだ。今回、『造型論』を少し紐解いてみると、その魅力は、金子兜太造型論そのものが多くの俳人産出に繋がっているという印象を持った。

 幹事の宮崎斗士氏をはじめ海程の皆様にあたたかく迎えていただいた。お礼申し上げます。

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