2022年5月13日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(11)

第45回現代俳句講座「季語は生きている」/筑紫磐井講師

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【筑紫回答】

(2-3)前衛の歴史

  新興俳句の変遷を踏まえてみると、前衛の歴史もある程度見えてくると思います。前衛も新興同様近代になって使われるようになりましたが、新興より限定的な意味を持って使われていたようです。

➀前衛はもともと軍事用語で英語のadvance guard, vanguard、フランス語のavant-gardeです。ただ意外に意味は限定的で、単に前方にいる部隊というだけではなく、「行軍する兵隊の安全を保護し、その進路を捜索し、障害物を除去し、又命令の旨趣に従い、あるいは敵を襲撃し、あるいはこれを撃退し、或いは頃刻の間抗拒をなし、以て本軍をして戦闘の準備をなさしむるに任ずべきもの」(野外演習軌典)とあります。このことから、本隊があっての前衛ということがわかります。

➁そんなことから、労働運動における前衛として、「労働階級に対する前衛としての●●党」(あえて当時の検閲に従って伏字を使ってみます)と定義したことにより、プロレタリア運動の担い手をさすようになっています。社会や階級を先導する集団という意味です。各国共産党はしばしば自らを前衛党と位置付けているようです。また社会主義時事評論誌や戦後の共産党理論誌に『前衛』と名付けられてます。

 このような中で、プロレタリア系の文学に前衛という呼称が使われているようです。

〇プロレタリア前衛小説戯曲

〇前衛文芸全集

〇前衛芸術選集

③従って、単に前に位置する、とか先進的な、という意味ではなかったのです。ただ日本では、テニスのnet player、front playerを前衛、バレー、バスケットのforwardを前衛と呼ばれていました。少し誤解があるようです。

    *

 こうして(文学上に)前衛の意味がいち早く用いられたのは、欧米の小説戯曲や詩であり、翻訳を通して日本でも紹介されます。詩人たちが挙げている例としては、具体的には、高踏派、象徴派、未来派、ダダイズム、立体派、超現実主義、イマジズム等といわれています(第三の「新興」に似ています)が、こうした詩人たちの考え方に共感したのはまず歌人だったようです。1955~60年にかけて「短歌研究」や「短歌」の誌上で前衛短歌の問題が取り上げられます。詩人、小説家だけではなく(俳句雑誌ではなく、短歌雑誌で前衛論争に)俳人も参加しているのは面白いことですが、やはり論争の中心は、塚本邦雄、菱川善夫らの歌人でした。

 1957年の金子兜太の造型俳句論以前の短歌関係の論文・記事を見てみましょう。


●前衛短歌

(参考)現代に於ける前衛の意味 北園 克衛 日本短歌 1951.7

前衛精神と短歌 加藤 克巳  短歌研究  1955.7

前衛短歌の方法を繞って / 大岡信 ; 塚本邦雄 短歌研究 1956.3 

特集 前衛と民衆の芸術 前衞の位置 短歌研究  1956.8

  ただこれだけの唄/塚本邦雄

  前衛の場について/鮎川信夫

  自明の理/山本太郞

  思想の韻律/孝橋謙二

  短歌の中の現代詩/上田三四二

  前衛短歌の規定/菱川善夫

  勞働の實感と表現/佐多稻子

  民衆短歌の母胎/武川忠一

  療養者と個性/竹安繁治

前衛短歌の規定 菱川 善夫  短歌研究  1956.9 

前衛と伝統 高尾 亮一  短歌研究  1957.4

昭和詩の前衛運動 北園克衛  短歌研究  1957.4

政治と文学と前衛の課題 吉本隆明 他 短歌研究  1957.5

前衛短歌のすべて(塚本邦雄氏に応えて) 斉藤 正二 短歌 1957.10 

モダニズム・前衛派・難解派の諸問題 岩田 正 他 短歌 1957.10

(以下参考)

前衛批判に応えて(対談) 塚本 邦雄 他  短歌  1959.4

特集・前衛の次にくるもの 星野 徹 他  短歌研究 1960.1

リアリズムと前衛の問題--新人論争 短歌  1960.6

前衛短歌私見 小野 十三郎  短歌研究 1961.4 


 さて次に俳句における前衛の登場を眺めてみましょう。明らかに前衛短歌の後に前衛俳句は登場しています。


●前衛俳句

俳句の造型について 金子兜太 俳句 1957.2

難解俳句とは何か(特集) 俳句 1959.2

難解俳句特集をめぐって 俳句 1959.3

(前衛俳句批判・寺山修司/前衛作家10人集への感想・志城柏)

難解派の現況レポート 俳句 1959.12

「前衛を探る」(俳句) 加藤楸邨・山口誓子 朝日新聞 1960.10.11

前衛俳句への疑い  山口誓子 朝日新聞 1961.6.12


 前衛俳句という言葉の戦後の初出について言えば、「前衛俳句について」(高柳重信 現代俳句 1949.10)がありますが、この論文によって前衛俳句の烽火が上がったということではないようですので、一応通説に従って上に掲げた論文・記事によって前衛俳句は登場したと考えておきましょう。特徴的なことは、前衛俳句の始まりといわれているにもかかわらず、「前衛俳句」のことばが一般的に普及し始める前に造型俳句とか難解俳句とか呼ばれており、朝日新聞によって初めて広く使われることになったと言えましょうか。もう少し厳密に言えば、歌人寺山修司によって前衛短歌になぞらえて呼ばれたのがはじめと言ってもよいようです)。

       *

 以上のような前衛の発生の経緯をたどると次のようなことが言えると思います。当然広く、軍事や労働運動を踏まえての前衛の考察です。


(1)前衛の原義には組織分業が存在している。それは、本隊(軍事にあっては陸軍本部・大隊、労働運動にあっては労働者階級、文芸にあっては社会や大衆)と前衛部隊である。

(2)前衛は、前衛のためにあるのではなくて、本隊が任務を全うするために存在するものである。

(3)したがって、前衛が本隊になることは絶対にありえない。それは前衛の存在意義に反するからである。万が一起こったとしたら、それは前衛運動とは関係のない組織であり、本隊の否定となる(この過程でしばしば独走し、専制主義が生まれる例がある)。

(4)前衛は本隊のためにあるのであるから、独自の固定的戦術・作戦はあり得ない。

  1)陸軍の「野外演習軌典」にあるように、目的達成のため状況に応じてありとあらゆる戦術・行動をとらねばならない。そこには軍事活動以外のものまでが含まれる。

  2)特に、時々の本隊の要請に応じて、前回の戦術がすべて否定されたり、まったく異なる妥協を要請されることは日常茶飯と考えなければならない。

  3)まとめていえば、昨日の前衛は今日の前衛ではなく、今日の前衛は明日の前衛ではないのである。

(5)さらに非情なことを言うようであるが、前衛は本隊のためにあるのであるから、本隊によって前衛が殲滅されることもあり得る。本隊が存続するため、後方支援を断ち切られたりして前衛は切り捨てられることもしばしばある。前衛と本隊の関係は非情なのである。

(6)しかし一方で、前衛が存在せず、裸の本隊だけで軍事や労働運動、文芸活動をすることは不可能である。戦術遂行者が存在しないからである。従って、確かに不安定・不確定ではあるものの、前衛は永遠に不滅である。なぜなら前衛が存在しない本隊など早晩滅亡するからである。


 もちろんこれは本隊が現代文学である場合のことです。伝統芸能であるならば、前衛など必要ないでしょう。

       *

 さてこのような前衛派はその後どうなったでしょうか。話題を少し戻してみましょう。「前衛俳句」が登場した当初の資料――朝日新聞が特集した「前衛を探る」です。この時取り上げられた俳句以外の他分野の前衛の人々とはどんな人たちであったでしょうか。


➀建築(菊竹清訓)

➁グラフィックデザイナー(杉浦康平)

③写真作家(東松照明)

④音楽(武満徹)

⑤工芸(清水洋)

⑥詩(吉岡實)

⑦映画(大島渚)

⑧演劇(浅利慶太)

⑨推理小説(星新一)

⑩絵画(堂本尚郎)

⑪俳句(金子兜太・堀葦男)

⑫いけばな(中川幸夫)

⑬墨象【注】・書(磯部翔風・榊莫山)

⑭彫刻(毛利武士郎)

⑮テレビドラマの演出家(和田勉)

⑯第三の新漫人(真鍋博)

⑰日本舞踊(西崎みどり)

⑱記録映画作家(羽仁進)

⑲小説(倉橋由美子)

【注】墨の造形美を追究する芸術


 19分野の21人です(俳句と墨象・書では東京版と大阪版で別の人物が挙げられています)。私は他の分野には疎いので、自信をもって紹介できる人ばかりではありませんが、それにしてもこれだけの人が前衛として紹介されていたのです。現在見ていただくと、もはや前衛を超越した、一流の芸術家ばかりのように思えます。「昨日の前衛は今日の前衛ではない」といったのはこういう意味なのです。こういう文脈で見ると、金子兜太も前衛の枠をはみ出したことがよくわかると思います。いや前衛である必要などなかったはずです。

 それにしてもこうした顔ぶれを見る限り前衛運動は決して無意味だったとは思えません。


【注1】伝統について

 俳句より先に前衛運動に突入した短歌では、初期の関心は、前衛と伝統ではなく、前衛と大衆性だったようです。多くの特集ではこれらについて何らかの言及がされています。

 ちなみに前衛と対立する「伝統」が俳壇で議論され始めたのは、草間時彦「伝統の終末」(俳句1970.4)、能村登四郎「伝統の端に立って」(俳句1970.12)などからです。総合誌として、伝統と前衛に関して議論を盛り上げたのは「俳句研究」で、前衛と伝統の深堀に大きく貢献しました(あるいは伝統の探求に貢献したと言えましょう)。角川書店の「俳句」はあまりこうした特集をしていません。


伝統と前衛・交点を探る(座談会)俳句研究 1970.3.~4.

俳句の伝統(特集)俳句研究 1971.5

俳句の伝統と現代(特集)俳句研究 1971.8

伝統俳句の系譜(特集)俳句研究 1972.7

伝統と前衛――同じ世代の側から(座談会) 俳句 1973.1

現代俳句の問題点――俳句伝統の終末・物と言葉など 俳句研究 1975.4


【参考】現代俳句について

 現代俳句は戦後になって盛んに用いられたと思っています。現代俳句協会、「現代俳句」などです。

 もちろん、現代俳句という言葉は、戦前もあることはあるのですが、戦後ほど多くは用いられず、かつ意味も単純な時代区分の意味が強かったようです。つまり、当時の本を読むと、子規の俳句―現代俳句という対照での比較で現代俳句も用いられていたようです。ところが、戦後の現代俳句は、「現代を詠む」、「現代社会を詠む」という意味に代わっているようです。

 その契機は、桑原武夫の「第二俳句――現代俳句について」だろうと思っています(もちろんこれに先駆けて石田波郷編「現代俳句」という雑誌が出たりはしていますが)。俳人が、俳句は 「現代を詠」まねばならない、「現代社会を詠」まねばならないと強迫観念にとらわれだしたのは第二芸術の影響が大きかったと思います。「現代を詠」まねば現代文学ではないと思い始めたのです。もちろん俳句が現代文学である必要は必ずしもありません。しかしそんなことをいったら、当時の文学界では完全に潮流から遅れる物となることは明らかであったからです。文学者にとって、それは「第二芸術」といわれるよりもっとつらいことでした。

(続く)

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