稲畑汀子という人
この冬多くの俳人が亡くなられた。岡田日郎、安井浩司、棚山波朗、榎本好宏といまだ十分働き盛りの人たちであった。こうした中で極めつけは稲畑汀子の急逝であった。
稲畑汀子氏は2月27日に心不全のため死去。享年91であった。2年半前に会った時は、はちきれんばかりの元気さであったから、今年になってからの朝日俳壇選者の辞退、日本伝統俳句協会会長の勇退と続く活動の収縮、そして逝去という衰えにはちょっと気持が付いていかなかった。
(中略)
日本伝統俳句協会の創設
日本伝統俳句協会の発足は兜太の朝日俳壇選者への就任を発端とする。朝日俳壇の選者として金子兜太を入れたことに対し、破格調の横行は許されないので伝統俳句を守る会を作ることを決めた。凄まじいのはここからの行動力で、当初の構想では三笠宮を新協会の総裁とすることとしていたらしいが、三笠宮は賛意を示したが「伝統俳句という呼称は古い」と言う意識を持っていたようで結局この人事構想は断念された。しかし、塩川正十郎・中島源太郎文相、(俳人でもある)唐沢俊二郎前郵相を通じて文部省に働きかけ、日本伝統俳句協会の発足、同協会の公益法人認可を獲得したのであった。先行する俳人協会が公益法人となっていたが認可の条件として伝統俳句という用語を用いることが出来ず、「社団法人俳人協会は、俳句文芸の創造的発展とその普及を図り、もって我が国文化の向上に寄与することを目的とする。」とされていた。つまり伝統も前衛もひっくるめて俳句とされ、これらを発展させることとなっていた。こうした俳人協会の轍を避けたのが、日本伝統俳句協会であった。優れた官僚OBを使い、文部省と緊密な連携を取り、有季定型を「伝統俳句」と呼び、これは「俳句」とは別の事業であると認定させるウルトラCをとった。日本伝統俳句協会の目的は次のようになっている。もはや、伝統は日本伝統俳句協会にしかない。
「有季定型の花鳥諷詠詩である伝統俳句を継承・普及するとともに、その精神を深め、もって我が国の文化の向上に寄与することを目的とする」
(『金子兜太戦後俳句日記』(白水社)、『大久保武雄―橙青―日記』(北溟社)によった。)
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最期に、稲畑氏の略歴を述べておく。稲畑汀子は高浜虚子の孫。高浜年尾の次女。昭和6年1月8日神奈川県出身。小林聖心女子学院卒。稲畑順三(稲畑産業の創業者稲畑勝太郎の孫。ちなみに社名の稲畑はイナバタINABATAと読む)と結婚。父年尾没後の昭和54年から「ホトトギス」を主宰。昭和57年より朝日俳壇選者。62年日本伝統俳句協会を設立し、会長となる。戦後低迷していたホトトギスを復活させ、虚子の再評価に尽力した。平成25年「ホトトギス」の主宰を長男・稲畑廣太郎にひきつぎ名誉主宰となる。令和4年には朝日俳壇選者を辞退し、日本伝統俳句協会会長を退任し、名誉会長となっていた。句集に『汀子句集』『汀子第二句集』『汀子第三句集』『月』『花』(雪月花の三部作を企図していたようだが『雪』は出されていない)、評論集等に『花鳥諷詠、そして未来』『俳句と生きる : 稲畑汀子講演集』等。
今日何も彼もなにもかも春らしく
※詳しくは「俳句四季」5月号をお読み下さい
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