2022年5月27日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(12)

  第45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


(2-4)誓子の前衛批判

 前衛俳句論争は、「俳句の難解性について」のあと、大きな転換を迎えます。朝日新聞が前衛特集を始めたのです。俳句にとどまらず社会全体の動きとして、「前衛を探る」という企画が始まりました。前衛は、すでに述べたように前衛俳句にとどまらず、➀建築➁グラフィックデザイン③写真④音楽⑤工芸⑥詩⑦映画⑧演劇⑨推理小説⑩絵画⑪俳句⑫いけばな⑬墨象⑭彫刻⑮テレビドラマ⑯漫画⑰日本舞踊⑱記録映画作家⑲小説があり、当然、短歌もそうです。

 この時、俳句で取り上げられたのは金子兜太と堀葦男で、兜太は東京版で加藤楸邨が、葦男は大阪版で山口誓子が論じましたが、誓子は葦男に批判的でした。誓子は葦男を前衛俳句の有能な実験者としながらも、葦男の考えている前衛俳句を俳句として見ることは誤りだと述べています(1960年10月11日)。

 何分堀葦男に限っての批評、短い文章でもあるので十分に言い尽くしていないところがあります。しかしこれを補う主張が見えます。山口誓子は、1961年6月12日の朝日新聞に「前衛俳句への疑い/前衛詩の切れはし?/金子兜太氏に問う「俳句性」」という記事を書いています。

 ここで誓子は、前衛俳句を連想で結び付けてゆく作り方だといいます。このやり方を吉岡實の詩に例に類似を見て、前衛俳句はシュルレアリスムとどう違うのか、俳句性はどこに行ったのかと問いかけます。この記事の直前の5月31日に朝日新聞に掲載された金子兜太の「現代俳句への誘い」を引き、前衛俳句における俳句性の欠如を論駁しています。最終的には金子が引いた、兜太・兜子・葦男の作品を「無意味であるから意味を持つ」のだろうと評しています。10月の論考以上に6月の誓子の論は前衛俳句に批判的です。特にその主張は、前衛俳句における意味のなさ、俳句性のなさから前衛詩の切れはしに過ぎないと酷評しています。

    *

 えてして戦いに巧みな者は、自らの戦いの中にとんでもない弱点を発揮するものです。誓子もこの轍を免れません。ここでわき道によらせていただきたいと思います。

 実は誓子は、この文章の冒頭に不思議な前置きを置いています。


 「ひところ記憶術に関する書物が相次いで出版されたとき書物好きな私はみな買って目を通した。その中でもいまでも忘れられないのは『記憶術の実際』という書物に書いてあった連想結合法のことである。物を順に結び付けて覚える方法で、たとえば「富士山・トラック・時計・スイカ・こうもりがさ・ソーセージ」は

富士山がトラックに衝突した

トラックに柱時計がかけてある

スイカにこうもりがさを突き立てた

こうもりがさの柄がソーセージだ

と覚えるのである。

 これらの章句は前衛俳句によく似ている。前衛俳句とどこが違うのであろうか。私はそれを前衛俳句作家に問う前に、自分で問うて自分で答えよう。」


 ここから、前衛俳句は連想(記憶術の連想結合法)で結び付けてゆく作り方だというのです。少し記憶術を馬鹿にしている節もうかがえますが、わざわざ記憶術に着目して比較したところは面白く思います。特にこの部分は私にとって興味深いです。

 なぜなら私も誓子とほぼ同じ時期に記憶術に関心を持ち、特に『記憶術の実際』を熟読していたからです。中学1年生の時代でした。

 渡辺剛彰著『記憶術の実際』(主婦の友社36年刊)は、哲学者井上円了の教えにヒントを受け父君彰平が開発した記憶術を渡辺氏自ら実験開発した手法です。その成果は突然現れ、劣等生から突然優等生に躍り出、東大文学部に合格、文学部(法学部ではありません)在学中に難関の司法試験に合格し弁護士を開業、NHKの「私の秘密」でデモンストレーションを披露、以後通信講座(ユーキャンの前身)の「記憶術」の講座は大人気だったそうです。ただこの記憶術は人によって適不適であったようで、私にはあまり向かなかったようです。

 こうした意味で『記憶術の実際』に注目した誓子には敬意を表しますが、果たしてそれを十分に理解していたかはやや疑問に思います。なぜなら、渡辺式記憶術は、「連想結合法」だけではなく、「外連想術」という別の手法も展開しているからです。「連想結合法」を誓子はかなり正確に理解していますが、『記憶術の実際』で最も大事で、奥義にあたるものが誓子の触れていない「外連想術」なのです。「連想結合法」は誓子が述べているように物を順に結び付けて覚える方法ですが、それはあくまで人為的な結合なのです。しかし、「外連想術」は自然発生的な連想を進め、一度その連想ができると一気に記憶の鎖が出来上がるという方法なのです。その意味では、自然な人間の「意識の流れ」に沿ったものだったのです。だからこの外連想こそがシュルレアリスムの、そして前衛俳句の源流といってよいと思います。

 私が『記憶術の実際』に関心を持ったのは、渡辺記憶術が実は「記憶とは連想である」という仮説に基づいていたからです。誓子が言っている「意味」や「俳句性」は論理の世界であり、人間のもう一つの大きな世界が「連想」であると思われるからです。誓子の『記憶術の実際』を使った批判は誓子の考える「意味のある俳句」を明らかにしましたが、逆に『記憶術の実際』が明らかにした連想の世界を排除してしまっていることも明らかにしてしまったのです。言い換えれば、前衛俳句とは意識の流れ俳句であったということでしょうか。

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