2022年4月8日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(9)

 (2‐1)前衛について(総論)

【筑紫】

 赤野さんの質問にお答えし、前衛俳句について書こうと思っていたところ、折よく「俳句四季」4月号では「特集:前衛俳句とは何か――21世紀の「前衛」を考える――」が掲載されたので、これを例に少し考えてみたいと思います。堀本吟、秋尾敏、今泉康弘、岡田和美、川名大、田中亜美、千倉由穂、西川火尖日野百草、堀田季何、森凛柚の各氏が論じていますが、おおむね、➀前衛とは●●であるという基準のもとに論ぜられています。例外は➁堀本氏の論で、ここでは前衛俳句が生まれてくる歴史的経緯を語っています。もちろん➀の「●●」が正しければそれはそれで生産的ではあるでしょうし、➁も果たしてそこに掲げられたものが(事実であるのは当然とした上で)それで必要十分な例が挙げられているかどうかは十分吟味の必要があります。しかし一応そこに注意しながら眺めてみたいと思います。

 堀本氏は、前衛俳句の誕生を運動としてとらえ、金子兜太の寒雷系と関西新興俳句系の出会いから「新俳句懇話会」が作られ、「十七音詩」「縄」という雑誌を媒体として、関西前衛グループが発展した考えているようです(西川氏の論旨も堀本氏に近くなっていると思います)。そして、堀本氏は、金子兜太「造型俳句論」、堀葦男「抽象俳句」、赤尾兜子「第三イメージ論」に具体的理論的展開を見ています。これだけからでもひとくくりで前衛俳句とは何かを定義するのは難しいことが分かると思います。

 ある程度歴史的分析と言ってもよい堀本氏の分析から行っても前衛俳句の定義は難しいことがわかり、その上で➀の各氏の論を見ると、かなりその置いている基点が異なっていて一つの結論に重なることはないように思われました。例えば、それぞれの論で言及されている作家は、河東碧梧桐、渡辺白泉、富沢赤黄男、高柳重信などが挙げられていますが、彼らが前衛に影響は与えたことに間違いはないでしょうが、彼ら自身が前衛であるかどうかはあまりはっきりしません。各氏の論はもちろん色々独創的な見方はあるものの、「前衛俳句のコンセンサス」は難しいと思われるのです。もちろん、これは前衛俳句に懐疑的な赤野さんには予想出来たことだと思います。

    

 そこで、前衛問題に入る前に、少し近代俳句におけるこうした俳句理論の行方を眺めてみたいと思います。

 近代俳句は正岡子規に始まりますが、写生を唱えたとされる子規の俳句は、日本派などと呼ばれる一方で「新俳句」という名称も用いられています。

 子規没後、虚子と碧梧桐が別の道を歩き、碧梧桐一派の俳句は「新傾向」と呼ばれました(命名は大須賀乙字です)。

 虚子が俳句に復帰したのちホトトギスが俳壇の主流派となりましたが、水原秋櫻子の造反により、「新興俳句」が生まれます。「新興俳句」は早々に、秋櫻子・誓子は独自の道を取り、「京大俳句」や「天の川」を中心に展開されます。「新興俳句」には入りませんが、人間探求派もやはり新しい俳句の動きとして数えておくべきでしょう。

 戦後は、「第二芸術」による俳句否定論、やがて社会性俳句が俳壇を席巻しましたが、その後は前衛俳句が登場するということで、戦後俳句はすすんできました。

 こうしてみると、通俗的図式として

  新俳句――新傾向――新興俳句――前衛俳句

が浮かび上がり、常に新しいブームが起きているようです。もちろんこれはポンチ絵風なイメージであり、実際はこんな単純なものではないことは当然です。しかしあまり研究風に細かい迷路に入ると全体が見えにくくなることがあります。ポンチ絵であっても、ある程度真理を伝えるものがあると思います。

 そしてこれで言いたかったのは、常に新しいものが出てくるということだけではなく、多くの場合は前の代を克服することによってエネルギーを獲得してきたと言えるということです。虚子の客観写生・花鳥諷詠が営々と続いてきたのと対照的です。前衛の歴史は、「親殺しの歴史」と言えるでしょうか。

 ただ注意しなければならないのは、常にこうした新しい動きの名前は、あいまいで何も定義されないで使われ始め、論争と実作が進む中で理念が生まれ始めるたようだということです。

   *

 その意味では、前衛俳句と同様に新興俳句もそうしたあいまいさがあるようです。いや実は前衛俳句の実験は、新興俳句ですでに行われていたようなので、まず新興俳句からそうした事実を確認してみたいと思います。

(続く)

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