(【俳句評論講座】 共同研究の進め方 澤田和弥のこと――「有馬朗人研究会」及び『有馬朗人を読み解く』(その2))
(1)澤田和弥のこと
津久井紀代
この度、『研究会の進め方』が発端となり、このまますでに忘れられていた和弥に光を当てていただいた。
私は澤田との接点はなく、2-3度会う機会があったが、印象はうすく、確としない姿がぼんやりとあるのみである。
よって、私は『天為』の中の澤田の文学に触れることが唯一の接点であった。
しかし、澤田の句は何か気になる、何かを常に訴えているようであった。通常では「自分」は一句のうらがわにあるのが常であると思っていたが、澤田はその常識を破ったのである。「自分」をつねに文学として吐き続けたのが澤田和弥ではなかったのか。次の句を見れば明らかだ。
春愁や溢るるものはみな崩れ
魂漏らさぬように口閉づ花疲れ
生きてゐることに怯えて立夏かな
生も死もどつちょつかずの夏に入る
『天為』平成24年作品コンクールの作品の中から挙げた。
生きていることに怯えている様子が窺える。
私は作品としての澤田がずーと気になっていたが、『天為』の中から澤田の作品に触れる人は現れなかった。
このままで終わらせたくないと思い、一周忌の五月に(彼が自殺した日)に「こころが折れた日」と題して『革命前夜』の論を展開し、『天為』誌上に発表した。また、例会で「修司の忌即ち澤田和弥の忌」を発表した時、初めて有馬先生が「いい文章を書いてくれてありがとう。惜しい人を亡くした」とみんなの前で話されたのが唯一のすくいであった。
生きていることに怯え、どっちつかずの生と死の間でもがき続けたのか、あらためて検証してみた。
彼の根底に「いじめられた」ことがあった。文学の中で必死にもがいたが、そこから抜けだすことが出来ないまま自らの命を自分の手で断った。和弥は次のように記している。
「中学に入ってとにかくいじめられた。同級生、後輩、教師、私の卒業アルバムは落書きだらけである。・・・いじめられることはそれほどまでに苦しい。死という選択肢を私は敢えて否定しない。社会にでてからもいじめに遭った。」
彼は文学として心のうちを吐き出さなければ生きていけなかった。必死にもがいた。筑紫氏の言うところの「「新撰21」の影響をうけつつ独自の道を模索しつづけたようである」の発言には少し疑問を禁じえないが、「様々な媒体に挑戦した」ことは事実で、すべてのことが中途半端に終わっていることが、「死」への道を加速したのであろう。筑紫氏の指摘の「その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ」には同感する。
澤田の寺山への傾倒が見えて来たので記しておく。
筑紫氏の「澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したがしかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられない、・・寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない」という発言に答えたものである。
澤田は『天為』のコンクール随想の中に次のように書いている。
「最晩年の二年間を特集した番組が片田舎の我が家のテレビに流されたのは私が中学生の頃のこと。寺山の死からすでに十一年の歳月が流れていた。ぼんやりとテレビを見ていた私は不意に我を忘れた、亡我。寺山と出会った。それは両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっ子にはあまりにも衝撃的であった。いや。衝撃そのものだった。早速、地元の本屋へ行った。『寺山修司青春集』。生まれて初めて、血の流れる生きた「詩」と対面した。
とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩
私の詩を汚すものは憎きいじめっ子たち。中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない。中学の時の「想像という名の現実」。いつも寺山に教えられているばかりだ。彼に憧れながら、私は彼にはなれない。一体これから先、何ができるのだろうか。俳句はそれを教えてくれるのか。わからないことが多すぎる」。
両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっこ。寺山に救いを求めたが、「彼に憧れながら、私は彼になれない」と自ら結論を出している。
生と死の隣り合わせの人生の中に寺山に一条のひかりをよすがに、文学の中に自らを吐き出すことに拠って、和弥はかろうじて35歳の命を全うした、といえる。
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