2020年5月15日金曜日

【俳句評論講座】 共同研究の進め方 澤田和弥のこと――「有馬朗人研究会」及び『有馬朗人を読み解く』(その2)

(1)澤田和弥のこと
                                               津久井紀代


 この度、『研究会の進め方』が発端となり、このまますでに忘れられていた和弥に光を当てていただいた。
 私は澤田との接点はなく、2-3度会う機会があったが、印象はうすく、確としない姿がぼんやりとあるのみである。
 よって、私は『天為』の中の澤田の文学に触れることが唯一の接点であった。
 しかし、澤田の句は何か気になる、何かを常に訴えているようであった。通常では「自分」は一句のうらがわにあるのが常であると思っていたが、澤田はその常識を破ったのである。「自分」をつねに文学として吐き続けたのが澤田和弥ではなかったのか。次の句を見れば明らかだ。

春愁や溢るるものはみな崩れ
魂漏らさぬように口閉づ花疲れ
生きてゐることに怯えて立夏かな
生も死もどつちょつかずの夏に入る


 『天為』平成24年作品コンクールの作品の中から挙げた。
 生きていることに怯えている様子が窺える。
 私は作品としての澤田がずーと気になっていたが、『天為』の中から澤田の作品に触れる人は現れなかった。
 このままで終わらせたくないと思い、一周忌の五月に(彼が自殺した日)に「こころが折れた日」と題して『革命前夜』の論を展開し、『天為』誌上に発表した。また、例会で「修司の忌即ち澤田和弥の忌」を発表した時、初めて有馬先生が「いい文章を書いてくれてありがとう。惜しい人を亡くした」とみんなの前で話されたのが唯一のすくいであった。

 生きていることに怯え、どっちつかずの生と死の間でもがき続けたのか、あらためて検証してみた。
 彼の根底に「いじめられた」ことがあった。文学の中で必死にもがいたが、そこから抜けだすことが出来ないまま自らの命を自分の手で断った。和弥は次のように記している。

 「中学に入ってとにかくいじめられた。同級生、後輩、教師、私の卒業アルバムは落書きだらけである。・・・いじめられることはそれほどまでに苦しい。死という選択肢を私は敢えて否定しない。社会にでてからもいじめに遭った。」

 彼は文学として心のうちを吐き出さなければ生きていけなかった。必死にもがいた。筑紫氏の言うところの「「新撰21」の影響をうけつつ独自の道を模索しつづけたようである」の発言には少し疑問を禁じえないが、「様々な媒体に挑戦した」ことは事実で、すべてのことが中途半端に終わっていることが、「死」への道を加速したのであろう。筑紫氏の指摘の「その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ」には同感する。
澤田の寺山への傾倒が見えて来たので記しておく。
 筑紫氏の「澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したがしかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられない、・・寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない」という発言に答えたものである。
 澤田は『天為』のコンクール随想の中に次のように書いている。

 「最晩年の二年間を特集した番組が片田舎の我が家のテレビに流されたのは私が中学生の頃のこと。寺山の死からすでに十一年の歳月が流れていた。ぼんやりとテレビを見ていた私は不意に我を忘れた、亡我。寺山と出会った。それは両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっ子にはあまりにも衝撃的であった。いや。衝撃そのものだった。早速、地元の本屋へ行った。『寺山修司青春集』。生まれて初めて、血の流れる生きた「詩」と対面した。

 とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩

 私の詩を汚すものは憎きいじめっ子たち。中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない。中学の時の「想像という名の現実」。いつも寺山に教えられているばかりだ。彼に憧れながら、私は彼にはなれない。一体これから先、何ができるのだろうか。俳句はそれを教えてくれるのか。わからないことが多すぎる」。


 両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっこ。寺山に救いを求めたが、「彼に憧れながら、私は彼になれない」と自ら結論を出している。
生と死の隣り合わせの人生の中に寺山に一条のひかりをよすがに、文学の中に自らを吐き出すことに拠って、和弥はかろうじて35歳の命を全うした、といえる。

(2)【筑紫磐井&渡部有紀子Q&A】

Q(筑紫)この研究会の発足にあたり亡き澤田和弥氏が関与していたことは意外でした。彼の句集『革命前夜』を読み、何回かの手紙のやりとりをさせて頂きましたが、俳句に熱意を持つ一面で非常にナーバスなところもある人のように感じておりました。結果的に直接お会いする機会はありませんでした。有馬主宰の序文に書かれた「『革命前夜』をひっさげて・・・広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈る」も果たされない期待となってしまったのですが、『革命前夜』後の澤田氏の遺志は、この研究の成果で『有馬朗人を読み解く』である程度達せられたのかと思います。
 当時の経緯をもう少し詳しくお話しいただけますか。この研究を読みつつ彼を偲ぶよすがとしたいと思います。

A(渡部)結社の大事な先輩であり、個人的な恩人である和弥氏に注目していただきありがとうございます。本研究会発足の直接のきっかけとなったのは、先に述べた通り和弥氏を招いての藤沢での句会でした。
 句会の幹事をしていた天為の同人、内藤繁氏によると彼を選者に招こうと決めた理由は二つあったとのことです。

(1)当時、「天為」誌上で連載されていた「新刊見聞録」での和弥氏の原稿が、それまでの結社若手のとは全く違っていたこと。句集・俳論に限らず短歌や美術についての書籍を積極的に取り上げ、いわゆる読ませる文体で紹介していたこと。
(2)第一句集『革命前夜』を上梓した際に厳しい内容の礼状を出しところ、即返事が届き論争を仕掛けてきたこと。

 上記の点から彼の飽くなき俳句への探求心を感じ、神奈川県の結社会員、特に若手同人たちに刺激になればと彼を招いたそうです。よって、後に有馬朗人研究会発足のきっかけとなったアドバイスも、「神奈川県の若手を育てる良い方法は何か」という質問に対しての回答でした。
 句会当日は彼の地元である静岡県浜松市の他結社から足を運んだ人もあり、和弥氏は時間ぎりぎりまで全投句にコメントをする熱の入れようでした。当時、安定した公務員の職を辞したばかりと聞いていたので、俳句に何かをつかもうと必死にもがいているようにも感じました。
 研究会発足後も数回は浜松から出席してくださいましたが、やはり「余裕がない」との理由で途中からお見えにはなりませんでした。和弥氏が研究会へ期待されたことが達成できたのか、今となっては確かめようもありませんが「一人の作家を徹底的に読み解くのです」という彼の言葉通りのことは出来たと思っています。後は、参加者各自がこの成果から一歩進んで特定のテーマを見つけ深めていくことが重要でしょう。

(3)【澤田和弥追悼】同人誌「のいず」最終号寄稿
 澤田和弥さんのこと   
                                  渡部有紀子


 今回追悼文を書かせていただく人の中で、私は澤田和弥さんとは一番短いお付き合いだと思う。二〇一三年七月に刊行された第一句集『革命前夜』について、俳誌「天為」で一句鑑賞文を書かせていただいたことが和弥さんとの初めての接点だった。それから、翌年の三月には神奈川県の天為湘南句会に選者をお越しいただいたり、メール通信の句会にもお誘いいただいたりと、常に結社の先輩として非常に親切なご指導をいただいた。湘南句会の直後に句会の若手育成のためによい方法はないかと相談した時は、結社主宰の有馬朗人の全句集を徹底的に読む読書会をと、発案してくださった。後輩や周囲の人のためには、惜しみなく知恵と労力を提供し、常に一生懸命に生きている人。私はそういう印象を受けた。
 その印象は、短期間しか和弥さんに接することの出来なかった私の誤解かもしれない。だが、かつて和弥さんが書かれた句集評論の中には、あえて誤読を行うと断った上で、その理由を「俳句作者は己の作品の50パーセントしか作りえない。十七音というきわめて小さな詩型はそれしか許さない。残りの50パーセントは読者に委ねるしかない。つまり俳句という詩型がきわめて特殊である点は、作者と読者の共同作業によって、初めて100パーセントの作品に完成させられるということにある。」(“金子敦第四句集『乗船券』を読む” 「週刊俳句」二〇一四年二月十六日号)と、述べている箇所がある。私のように一年半という限られた期間だけ、直接和弥さんの発言を聞き、手紙やメールをやりとりした者にとっては、やはり和弥さんが残して下さった印象で五十パーセント、後の五十パーセントは私の乏しい想像力で補われた記憶に過ぎず、大部分は誤解であることを引き受けるしか無いのだろう。

俳人死す新茶の針ほど細き文字
和弥逝く色紙に酒とさくらんぼ


 和弥さんは筆まめな人だった。恰幅のよい体型と違って、手紙には先の細いペンで、所謂「とめ・はね」を忠実に守って書いたような生真面目で繊細な文字がびっしりと連なっていた。いつも決まって掛川茶が同封されていたが、同人誌『のいず』創刊の際は、創刊祝の返礼にと色紙を二枚くださった。退廃的な寺山修司の世界に憧れていた和弥さんには拒絶されそうではあるが、どうしてもその色紙には、瑞々しい光を放つ、甘酸っぱいさくらんぼを供えたいと思ってしまう。

瓶麦酒王冠きれいなまま開ける
王冠の歪まぬままの壜麦酒


 和弥さんはお酒好き、とりわけ麦酒が大好きだったようだ。「天為」の平成二十四年作品コンクールでは、麦酒を詠んだ先人達の俳句をとりあげた「麦酒讃歌」という随想で入賞している。先に述べた有馬朗人句集の研究会でも、皆で食事をした際は、昼間のファミリーレストランで、メニューを手に取るなり真っ先に麦酒を探して注文し、下戸の私を内心呆れさせたものである。とは言え、私が知る限りでは、酒に酔って乱れるようなことはない、終始朗らかな呑み方だった。それは昼間だった故か、それともやはり私の誤解なのか。もう少し機会があったら、よく冷えた瓶麦酒を王冠が歪むくらい勢いよく開けて、和弥さんのグラスに注ぎながら、俳句の話が聴きたかったと思う。私はウーロン茶専門なので、万が一、和弥さんが酔い潰れてしまっても介抱できただろう。

和弥死すこんなに五月の空真青
風五月手を振止まぬ弥次郎兵衛


 短期間しかお付き合いがなかった為、和弥さんについて私が誤解していることも多々あり、しかも同じ結社の先輩でもあるので、あまり馴れ馴れしいことは書かないでおこうと思っていた。だが、和弥さんが私に与えてくださったアドバイスや親切は、たった一年間だけでも私にとっては和弥さんという人物が、大切で尊敬すべき句友であると思わせるのに十分だった。
 最後に結社の先輩には失礼ながら、年齢は一つしか違わないという事実に甘えて、本音を吐露することをお許しいただきたい。和弥さん、あなた、死んでる場合じゃないですよ。もっと俳句を見せて欲しい、もっと俳句評論を書いて欲しい。あなたなら出来ることが沢山あります。あなたの句や評論がどれほど他の人たちを驚かせ、時には呆れさせ、同時に潔いまでにタブーをぎりぎりのところまで詠むあなたの作句態度や才能に圧倒されていたか。その青臭いほどの一途さと生真面目さに懐かしさと憧れを抱いていたか。和弥さん、あなた、これからでしょう?死んで今、何をしているのですか?


(4)【『革命前夜』 一句鑑賞( 渡部有紀子)】

咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜 和弥

 和弥さんの句集を入手した日の夜、旧友が自宅を訪ねてきた。急ごしらえ出した泡雪寒を食べる頃になって、テーブルの上にあった句集を手に取った彼女の目が掲句の頁で止まった。「不思議な魅力のある句ね」と。彼女には俳句の心得がある訳ではないのだが、掲句の平明でストレートな表現が心を捉えたようだ。「何となく共感できるの」「咲くか咲くまいか迷っていたけど、咲いてみたら案外良いこともあるかもしれないって、思いきって咲いてみる決心というのな」と、コメントしていた。私はそれを聞いてなお、この句に不思議さを感じた。咲かぬという手だって?もし仮に花にも人間と同じような心があったとして、そんなの咲いてみて初めて知る事じゃないか!咲いてこそ、他の木や花がまだ咲いていないこと、あるいは花を愛でる人間達が咲きかけて結局散ってしまった花を嘆くこと、それらを認識した時に初めて、「咲かない」という選択も自分にはあったことを知るのではないのか。植物の花弁は温度と日照時間数が一定に達すれば開いてしまう。そこには「やめる」という意思が入り込む余地などない。しかるべき時期が来たから咲くのだ。初めて何かを為すというのもそれに近いと思う。今回は和弥さんの第一句集。「これが私です」と後書きにあるように、初めて和弥さんが自分を世に問うた第一歩である。問いかけずにいられなかったのだろう、今が和弥さんにとっての最適な時期だったのだから。十八歳から二十九歳までの玉句を収めた第一句集に続き、次なる三十歳代の第二句集を是非とも期待する。件の友人も「止めていいけど思いきってみたら良いことあるかもなんて決心つくようになったのは、三十路越えちゃってからよ」と、明るく笑っていたのだから。
(渡部有紀子)

(5)【参考】2015年7月24日(BLOG「俳句新空間」)
澤田和弥の過去と未来  /筑紫磐井


 未見の人であったが気になっていたのは澤田和弥氏であった。『超新撰21』の時から候補にはあがっていたが、結果的に見送ってしまっていた人である。特にその後、句集『革命前夜』を上梓され、いい意味でもそうでない意味でも、『新撰21』の影響があった人ではないかと思っている。

 『新撰21』等に入らなかったことについて西村麒麟氏から、『新撰21』がこれだけたくさんの新人(42人。小論執筆者まで入れれば80人。さらに『俳コレ』まで登場した)を発掘してしまうと、このシリーズに入らなかったことそれ自身が逆の差別をされてしまったような気になる、と企画者の一人に対する注文とも不満ともつかぬ発言をしたことがある。これは澤田氏にとっても同じ思いであったかもしれない。

 逆に言えば、入らなかった御中虫、西村麒麟、最近の例でいえば堀下翔などは、すでに『新撰21』(例えば神野紗希、佐藤文香)を超越してしまった世代といえるのではないかと勝手に思っている。『新撰21』といえども企画者3人の独断と偏見に満ちた選考で上がった名前であるから、これら3人の枠組みの中でしつらえられている。御中虫、西村麒麟、堀下翔はこうした企画者に反発して自分たちの枠組みで自分たちの登場の場を確保したのだ。

 以前、俳句甲子園に苦言を呈したのは、もちろん若い高校生たちが俳句に関心を持ってゆくのはありがたいが、彼らは、俳句甲子園企画者のルールに従い、枠組みの中で競っているのであって、自分たち独自のルールを作り上げたわけではない。以前の高校生は――つまり寺山修司などは、自分たちで同人雑誌を創刊し、全国の高校生を結集し、中村草田男などと交渉して俳句大会を開催していった。そうした活動と俳句甲子園とはずいぶん違うのだということである。もちろんどちらがいい悪いとは言わない、より多くの高校生俳人を結集させるには俳句甲子園方式はかなりいい手法かもしれないが、寺山流ではないのは間違いない。

 『新撰21』から外れた動きを眺めるために、今回【アーカイブコーナー】で、御中虫、西村麒麟の活動を掲げてみた。これは明らかに「上から目線」を完全には排除できなかった(他の俳人たちに比べれば余程努力したつもりだったのだが、完全には排除出来ないのだ)『新撰21』に対する、反『新撰21』の活動であったと思っている。いや、ほどほどに妥協し、揶揄しながら自分たちの主張を断固として貫徹している。『新撰21』が存在しなくても自分たちの存在は明らかになっていると思っている人達であろう。

 澤田は『新撰21』の影響を受けつつ、やはり独自の世界を模索し続けたようである。実に様々な媒体に挑戦している。私の関係するところでは、「豈」「俳句新空間」に登場しているし、その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ。

 澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したが、しかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられなかった。むしろ早稲田大学を通して、寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない。彼のライフワークになると思われたのは(悲しいことにわずか4回で中断してしまったが)、遠藤若狭男の主宰する「若狭」に連載し続けた寺山修司研究(「俳句実験室 寺山修司」)だ。これが完成していたら、寺山と澤田の関係はもっと濃密に見えたかもしれない。

 本人が存命している時の句集『革命前夜』と、亡くなってしまったあと読む句集『革命前夜』は少し趣が違っている。前者が今まで書かれた句集評の大半なのだが、後者を「俳句四季」10月号の座談会で取り上げ試みる予定であるが(齋藤愼爾、堀本祐樹、角谷昌子と座談)、妙に物悲しいものに思える(既に『革命前夜』は版元で売り切れ絶版となっている由)。有馬朗人氏の、「『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈」るという、わずか2年前の序文がどうしようもない違和感を醸し出す。なぜなら今日のこの状況を誰も知らないからだ。私は当初、こんな句を選んだがそれは未来のある人の句としての鑑賞だ。

    佐保姫は二軒隣の眼鏡の子
    黄落や千変万化して故郷
    冬の夜の玉座のごとき女医の椅子


 実は死の予告のような句を選んでしまった。詳細は「俳句四季」10月号を見て頂きたい。だからここでは、『革命前夜』後の作品を掲げて締めくくりたい。澤田和弥の未来がどうあったか(亡くなっても作者としてはまだ未来があるのだ。後世の読者がどう評価するかは我々の思惑を越えているのだから)、考えてみたい。御冥福をお祈りする。

    人間に涙のかたち日記買ふ   「若狭」より
    菜の花のひかりは雨となりにけり
    春夕焼文藝上の死は早し   「週刊俳句」角川俳句賞落選句より
    復職はしますが春の夢ですが
    女見る目なしさくらは咲けばよし


(6)【「俳句四季」二〇一五年一〇月号 [座談会]最近の名句集を探る40】

▼澤田和弥句集『革命前夜』


筑紫 最後の句集は洋出和弥さんの第一句集『革命前夜』(邑書林)です。
 出版されたのは少し前で、平成二五年の七月です。澤田さんは昭和五五年生まれ、学生時代は早稲田大学の俳句研究会に所属していました。平成一八年に「天為」に入会し、二五年に「天為」新人賞も取って、これからという時だったのですが、この第一句集を出して二年後の今年の五月に三五歳で亡くなられました。
 この句集はもう亡くなったことがわかっていて読むと、少し読み方が変わってくるのではないかと思うんですね。それを踏まえて幾つか句を紹介します。
 「冬夕焼燃え尽きぬまま消え去りぬ」。まさに澤田さんそのものを詠んでいるような句で、今読むと印象的です。
 「言霊のわいわい騒ぐ賀状かな」。ちょっと不気味な感じがします。「マフラーは明るく生きるために巻く」は今読むとシニカルにも読めますね。「秋天に雲ひとつなき仮病の日」。職場で悩む事もあったのかもしれません。「生前のままの姿に蝿たかる」「地より手のあまた生えたる大暑かな」。鬱々とした感じが胸に迫ります。
 こういう句ばかりだと湿っぽくなってしまうので「黄落や千変万化して故郷」。故郷に戻ってきてほっとした気持ちが窺えます。「冬の夜の玉座のごとき女医の椅子」は豪華でいいですね。
 有馬朗人さんが序文に「この『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待」と書いているのですが、二年後に亡くなってしまう事を考えると悲しく響ききます。

齊藤 この句集には「修司忌」の句が二十句人っているけれども、僕が辛うじて採ったのは「革命が死語となりゆく修司の忌」の一句。全体的に寺山修司の影響はあまり感じられないですね。寺山だったら同人物の忌を二十句も作りはしない。世界で最愛の人が亡くなっても、せいぜい一句でしょう。二十句は死者に対して冷淡です。
 採った句は「シスレーの点の一つも余寒かな」。シスレーの点描画を「点の一つも余寒」と表現するのは面白い。「接吻しつつ春の雷聞きにけり」。これは「聞きいたり」としたい。

角谷「聞きいたり」だとずっと接吻が続いている感じですね(笑)。

齊藤 接吻するか、雷を聞くか、どちらかに専念せよということです。「短夜のチェコの童話に斧ひとつ」。寺山修司は斧を随分詠んでいるから、その影響かもしれない。「幽霊とおぼしきものに麦茶出す」「母も子も眠りの中の星祭」「終戦を残暑の蝉が急かすなり」「香水を変へて教師の休暇明」「金秋や蝶の過ぎゆく膝頭」などを採っています。
 「狐火は泉鏡花も吐きしとか」。泉鏡花と狐火は確かに合うしこのままでも面白いけど僕なら「狐火は泉鏡花を吐きしとか」とやりたい。「も」と「を」の一字で内容は反転する。

堀本 僕は澤田さんとはフェイスブックで繋かっていて、ある俳句の催しに参加しませんかと声をかけて貰った事がありました。結局都合が合わなくて行けなかったんですが、お会いしたかったですね。
 『革命前夜』というタイトルは、自分の内側でまず革命を起こしたい、という澤田さんの気持があったんじやないかなと思います。若くして亡くなられた事でどうしても句に後から意味が付加されて読まれてしまうんですが、できるだけ作品そのものをニュートラルに捉えたいと思って読みました。
 「恋猫の声に負けざる声を出す」。恋猫は実際うるさいんですよね。それに負けないように声を出す。すごく切実な声にも思えるし、楽天的に取ればユーモアとエロチシズムを感じます。
 「空缶に空きたる分の春愁」。春愁の句としてテクニカルな詠い方をしているのですが、同時に彼の繊細さが出ている一句です。「卒業や壁は画鋲の跡ばかり」。卒業の嬉しさよりも寂しさを詠んだ所がいいなと思います。
面白い句で「伽羅蕗や豊胸手術でもするか」。「豊胸手術でもするか」という軽い言い方に上五が渋い「伽羅蕗」で、日常の食べ物からいきなりメタモルフォーゼするようなところへ飛んでいく、そういう面白さがあります。「外套よ何も言はずに逝くんじやねえ」。友人に呼びかけるような、もしくはつぶやくような一句なのですが、これも亡くなってから意味が出てくる句ですね。自分が死を感じた時に、他人の事がよく見える時があると思うんです。そういう心理の働きがこの句でも見えていると思います。例えば中上健次が宮本輝さんに最後に会った日の別れ際に、「宮本、お前、長生きしろよな」と言ったという話があります。その一年後に中上健次は亡くなるんです。そういう事を思い出して、胸が締め付けられた一句でした。
 この句集を読めて良かったと思います。と同時に第二句集も読みたかったですね。

角谷 私はなるべく亡くなった事を先入観として持たないように読みました。でもタナトスの影がどうしてもちらついてくるんですね。例えば「椿拾ふ死を想ふこと多き夜は」「若葉風死もまた文学でありぬ」。田中裕明さんの最後の句集『夜の客人』に「糸瓜棚この世のことのよく見ゆる」という彼岸に足を踏み入れているような句かありますが、それに近いものを感じました。
 『革命前夜』といっても前衛的な句はあまりなくて抒情的な句が多い印象です。「半烏に銃声響き冴返る」には弛みのない硬質な叙情があります。「拘置所の壁高々と雪の果」。青年期の特徴とも言うべきこの世との隔絶感ですね。緊迫と弛緩の対比で作られているのが「薄氷や飛天降り立つ塔の上」。
 「鳥雲に盤整然とチェスの駒」。「チェスの駒」という整然としたものと「鳥雲に」のような柔らかく自在なものを取り合わせる。この取り合わせはこの方の持っている精神性から発せられているのかなと思いました。
 「修司忌」の句は齋藤さんが仰ったようにあまり採れる句はなかったです。「目」にこだわっている印象が強く、「船長の遺品は義眼修司の忌」など、凝視の作家だと思います。

筑紫 実はもう一つ所属している結社誌「若狭」では修司論を連載し始めてたんですよね、亡くなってしまったので四、五回で終わってしまいましたが。恐らく修司への意識の仕方は作品そのものからはあまり見えないけれど、評論の形で見えてきたかもしれない。

角谷 亡くなられると次第に忘れられてしまうことがあるので、こうやって語られる機会は大事だと思います。

筑紫 これからも澤田さんの俳句が語り継がれていって欲しいと思います。

(7)澤田和弥の最後とはじまり
                    筑紫磐井

 「狩」の同人遠藤若狭男が27年(2015年)1月に俳句月刊雑誌「若狭」を創刊している。遠藤は、若狭、つまり福井県の出身の人で、早稲田大学を出て学校の教師をしていたが、若くから詩や小説など多角的な活動をしていた。同じ早稲田の先輩である寺山修司の心酔者でもあった。
 ところでこの「若狭」に澤田和弥は創刊同人として参加しているのである。遠藤が、早稲田の先輩であり澤田が大学院在学中に所属した早大俳研の指導顧問であり、寺山への共感者ということが澤田参加の大きな動機となったのであろう。「若狭」へは、遠藤との個人的つながりだけで入会したのではないかと思う。従って入会の経緯はこの二人しか知らない。しかも、入会の年に澤田はなくなっているから、俳句の発表も僅かである。1~4月号と6~7月号であり、7月号で逝去が告知されている。
 特筆すべきは1~4月号まで澤田は「俳句実験室 寺山修司」(1頁)を連載していることである。むしろこの文章を執筆するために「若狭」に入会したと言ってもよいかも知れない。継続した澤田の文章としての最後のものと言うべきであった。やはり澤田の最後の思いは寺山にあったというべきであろう。
 この間の事情を知りたいと思ったが、何と言うべきであろう、遠藤若狭男自身は30年(2018年)12月に亡くなり、「若狭」も廃刊されてしまったから、伺う手がかりもない。ほとんど時期を一緒にして亡くなった師弟は寺山つながりだけで我々のもとに「若狭」という資料が残っているのだ。
 「俳句実験室 寺山修司」は寺山の一句鑑賞であるが、

豚と詩人おのれさみしき笑ひ初め 寺山修司(29年)
目つむりて雪崩聞きおり告白以後(30年)
十五歳抱かれて花粉吹き散らす(50年)
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し(48年)

など僅かこの4句を鑑賞し、「俳句実験室 寺山修司 第四幕」は終了している。翌五月号では編集後記で遠藤は「好評を博している「俳句実験室 寺山修司」の著者である澤田和弥氏が体調を崩されてやむなく休載となりました。一日も早い回復を願っています。」と告知している。俳句も五月に欠詠し、六月に復詠している。文書を書く気力は蘇らなかったようである。7月に最後の俳句作品(七句)が載せられている。

冴返るほどに逢ひたくなりにけり  澤田和弥
菜の花のひかりは雨となりにけり
白梅を抱き締めている瞼かな


 「若狭」三月号では寺山の「十五歳抱かれて」の句を取り上げて鑑賞している。高校時代の作品として掲げられる『花粉航海』が実は四〇歳を過ぎてからの作品(つまり「新作」)を多く載せていることが巷間知られているが、それでも澤田はこの句を寺山の「未刊行」の句ではないかと推測する。それは十五歳という年齢が寺山の創作活動のスタートに当たるからだ。真実は寺山本人しか知らないが、そのように読み解く澤田の心理は分からなくはない。
 そしてこの鑑賞を読むと、澤田の「白梅」の句と構造が似ていることに気付く。澤田のこの最後の句を寺山に重ね合わせると、澤田の俳句人生のスタートとも見えてくるのだ。
澤田の『革命前夜』は決して全共闘世代の革命とは違うようだ。どこか「革命ごっこ」が漂う。それはしかし寺山にも似てはいなくはない。革命よりは革命ごっこの方が一般大衆には分かり易いのだ。革命前の露西亜のプーシキンは、革命と革命ごっこを行きつ戻りつした。革命史『プガチョーフ反乱史』と革命期の恋愛小説『大尉の娘』を同時並行して執筆した。『プガチョーフ反乱史』(この書名はロシア皇帝ニコライ一世の命名になるという)は革命家にとっての教科書となった、しかし一般大衆に愛されたのは『大尉の娘』だった。
      *
 澤田から生前、句稿が送られてきている。『革命前夜』(2013年刊)収録の後、角川俳句賞に応募して落選した「還る」(2011年)「草原の映写機」(2013年)「ふらんど」(2014年)、第4回芝不器男俳句新人賞に応募した無題の100句である。『革命前夜』後の澤田和弥を語るのに決して少ない量ではない。『革命前夜』で「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」といった、「これ」以後の澤田和弥――新しい「これ」を我々は語ることが出来る。我々自身について、我々は語ることが出来ない。なぜなら我々が提示する、「これ」が全てではないからだ。しかし我々は今や安心して澤田和弥を語ることが出来る。「これ」以外に澤田和弥はないからだ。ようやく澤田和弥を伝説として語ることが出来るようになっているのである。

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