(前略)
俳句文法の歴史と真実
「俳句あるふぁ」で記述している歴史は次の通りである。近代が始まってから、明治・大正期は文法研究が始ったもののそれを意識していた俳人は、一部を除いて少なかったという。ところが昭和期(戦前)に入って、多くの文法学者が俳句を例に文法を説くことが多くなり、俳句の実作や鑑賞に文法の知識が有用だという感覚がひろまった。戦後の教育改革で文語表現が減り、文語は学校の古典として習うこととなり、これを踏まえて俳句が文法的に読まれる時代となった。高度成長期の転機は馬酔木に林翔(高校教師)が執筆した「文法講座」に始り、文法の誤りを正すことが目的となっていった。平成以後は俳句総合誌のようなメディアが初心者向けの内容にシフトし、文法の指導をになうようになった。この他にも、学校文法がどのように発展したかも書かれているがそれは省略する。
「俳句あるふぁ」編集部の見識は、これを踏まえての反省である。断片的な発言を整理するとこのようになるであろう。
「戦後の学校教育の影響で、文法に「正解」があるという認識が定着したこともあります。かつては誰しもが自然に使っていた古典文法が身近なものでなくなり学校で教わるものになると、そこに「正解」が生まれるようになりました。いまや古典文法は勉強しないと使えないものとなり、教わった用法のみが正解であり、文法書に載っていない用法は「間違い」に見えるという、なんとも難しい時代になりました。」
「参考書や辞書をただ暗記するのではなく、言葉をよく知っていた古人たちの、生きた表現に触れる。古典文法の学習で大切なのはこの作業です。辞書的な定義を知るだけでは言葉を使うことはできません。」
「昭和までの人びとと違い、日常的に古典文法で読み書きするわけではない私たちにとって、多かれ少なかれ、古典文法の表現は距離が遠いものなのですから。
その上で、かつての古典文法の息づかいそのものをコピーすることはなかなか難しい、という事実にも、いつか突き当たることがあるように思います。」
だから、一見正統的な文語から逸脱しているように見える作品についても次のようなコメントをしている。
糶られゐる魚の真顔や万愚節 片山由美子
「「糶られている」というように、現在も進行中であるという意味の「ゐる」が登場するのは、私たちが学習する平安時代の文法よりもあとのことです。」
「俳句が「生きた」ジャンルであり、現代の私たちが携わる以上、俳句の言葉は、やはり「生きた」言葉です。辞書の定義に頑なに縛られ、逸脱を気にするばかりになるのはいかがなものでしょう。」
「日ごろから古典文の表現による俳句やさまざまな古典作品に親しみ。古典文法の表現を生きたものとして自分の心に養っておいてこそ、現代の私たちが用いる古典文法による表現はいきいきと輝くのだと思います。」
日頃この俳壇観測では私の性格もあり無条件に賛意を表することはないのだが、今回だけは全く正しいと思う。平成以後の総合誌の文法特集や文語文法入門書では決して見ることの出来ない画期的な主張なのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿