「俳句新空間」第12号で、救仁郷由美子氏に『永劫の縄梯子』「風の言語――俳句のリアリズム――」を執筆していただいたが、「俳句新空間」では半年に1回の刊行なので連載ものとして書くならばBLOGでの執筆もお願いしたいと依頼した。今回が実質その第2回である。
実はすでに「豈」でも『永劫の縄梯子』「『四大にあらず』とともに」を長らく連載し、「LOTUS」でも安井浩司論を執筆した。今回場を改めて、ライフワークともいえる安井浩司論が再開されるのは喜ばしい。(筑紫磐井)
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BLOG「俳句新空間」②(「俳句新空間」―風の言語―が➀で通号②)
有耶無耶の関ふりむけば汝と我 (『汝と我』)
掲句においては、句中での、「ふりむけば」が一瞬の場面転換を起こし、この場面転換が可能性を開いていく。それは一語で意味を完結させる無音の動作を助詞「ば」が仮定へと繋げていくからだ。この動作の語から俳句形式の特質(詩の特質)である、ことばの省略による無(空白)の空間から、無限にことばを呼び起こすことができる。
そうなれば、「有耶無耶の関」に立つイメージの場での、無の空間から、「お前」と呼びかける同格の場を出現させることも可能なのだ。
何故に。それは、「汝と我」の問い問われる場が、「なぜ俳句なのか」と問う場処であり、その問う場処を「有耶無耶の関」と仮称したと思えるからだ。
一体、お前はどうする(・・)の(・)か(・)。《お前》―《私》、極としての「私」しか答えざるをえないことを前提とした問いだ。「私」が問うことと答えることを所有する、この原初としての(あるいは基本的(・・・)な)問いをふるい立たせることが、求められているように思える。
(『海辺のアポリア』「定型の中で」)
「俳句定型とは何んであろう」と、書き出されて始まる「定型の中で」、「一体、お前はどうするのか」と、俳句実作者として、〈俳人安井浩司〉は自問する。
私自身の「問うことと答えること」の俳句の極の場で、問い問われる自己の全的存在が、ここ掲句の「汝と我」に在る。俳句と対の私ではなく、俳句=私の自意識の一瞬の転換、その瞬時に見えた自己の奥底で問い問い合う「汝と我」。しかし、問うているのは、私自身なのか。あるいは俳句自身なのか。問うてみて、見えてくる「汝と我」。あいまいで確かなものは何もない。立つ地は零地点である。ここを出発点として、安井は、さらに「〈定型の中〉にあって、《お前はどうするのか》に今こそ繋がってゆく外ない」という。
だが、「俳句形式の、さまざまな困難性」に向うはげしい言述は、〈安井浩司〉の詩の感性から述べられたものなのだ。それ故に、困難性を問うことそのものに疑問が投げかけられることにもなろう。だが、「お前はどうするのか」と問われる言葉を受け止め、決意の俳句行為をなしている俳人、詩人が現代にもいる。
それでも、「俳句形式の、さまざまな困難性」の中で、日本語の詩としての「俳句定型詩」は、安井の個的問題なのではないかと考えてしまう。安井はこの「困難性」を「不可能性(・・・・)の中をつらぬく恐るべき行為」(『海辺のアポリア』四六頁)だという。
人間の理想としてなすべきこと、なすべきことを筋道立てて述べる当為論。述べた理想を自己実践していくことの困難性。困難性の果てはなく、しかも困難性を乗り越えてゆく俳句。
その当為論による「俳句定型詩」が、「句篇・全六巻」に、想像し得た俳句定型詩、望んだ定型詩となって表わされている。
その後に刊行された句集『烏律律』も俳句の定型詩として在る。だが、真の自由を得た(真の詩であることの)未見の詩が句中の中に在ることには、ほとんどの読者が気づかぬままにいる。
ここで、いきなりの直観的断定をしてしまうが、仮称もまた実存からの発語であると確認しつつ、先へ少しずつ向かうことにしたい。 (以後、次回)
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