2025年3月21日金曜日

【新連載】現代評論研究:第4回 戦後俳句史を読む(風景)/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

筑紫:今回から「戦後俳句史を読む」の体裁を変え、それぞれの発言を充実する編集にしてみたい。とりあえずひとつの提案として、この「戦後俳句史を読む」を16人の行う「戦後俳句を読む」と同様、テーマを設けて論じてみたい。その第1回は「風景」とした。「死」も風景とすれば、以下で述べる風景論は多少「戦後俳句を読む(死)」と重なることがあるかもしれない。


北村:今回の話題の与えられたテーマは「風景」である。私の貧しい知識で山口誓子に見当を付け、朝日文庫『現代俳句の世界④:山口誓子集』(註1)を中心に作品を少し読んでみた。日野草城のときもそうであったが、戦後というくくり方からは少しはずれることになる。風景とは「何らかの余裕のある人間が、見ることによって感知する、結合した自然の物体群の醸すアトモスフェア」とでも言っておこう。誓子は、俳句の詠むものはものとものとの新しい関係と言うから、ミニマルな風景。したがって以下、「風景」もいくぶん偏る。

 誓子は、ものとものの関係に接したとき刺激を受ける。そのときのその「ものたち」のシチュエイションを詠みとどめれば読者は同じ心の動きを体験できるであろう、といった趣旨のことを述べている 。


 代表作

① 夏草に汽缶車の車輪来て止る     『黄旗』・昭和8年

② 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る      『炎昼』・昭和12年


など、彼の作品についての、諸賢のオブジェ性や無機性の指摘が記憶に残るが、よく見ると繊細なものの関係の描写がなされている。それによって直接の言葉がなくても、彼が何に心を動かし、感興を覚えたかが分かる。


③ 男の雛の俯向きたまひ波の間に    『黄旗』・昭和8年

④ 蠅憎めばすこし離れしところにゐ   『激浪』・昭和19年

⑤ 行くにつれ奈良へ退く奈良の月    『一隅』・昭和41年


 これは特に動物を詠んだ句に著しい。彼は動物固有の動きの一瞬を写生できるのである。


⑥ するすると岩をするすると地を蜥蜴  『炎昼』・昭和10年

⑦ 諸処にとび終に一なる揚羽蝶     『激浪』・昭和19年

⑧ 稲雀汽車に追はれてああ抜かる    『激浪』・昭和19年


 蜥蜴の句、「するする」を間を置いて繰り返すことにより、間歇的に動くトカゲの動作が手に取るようである。対象を眺めて自由にさせ動きを見守り、ときに応じて干渉する。志賀直哉『城之崎にて』・大正6年などにも共通する、抑制のある知性人の態度であろう。しかしそれは後を追った、西東三鬼(年齢は誓子より1年上)、永田耕衣の抑制なく自己を押し出す迫力にはかなわない。耕衣となると、もう対象を遊ばせるよりも自らが泥んじるのである。


 いや、しかし若い誓子は、さらに魅力ある世界の入り口に立っていたのではないか。むかし、私には誓子の俳句が今ひとつ分からなかった。しかし


⑨ 終に苦しかやつりぐさの錯綜は    『和服』・昭和24年


を見たときに私なりに了解できた。「かやつりぐさの錯綜」する様は脳内の風景のメタファである。ものとの照応関係を用いて内的宇宙 (inner space: J. G. Ballard) へののぞき窓を作ったのである。この経験は、この句ほど図式的ではなくても、他の景物を詠んだ句を理解する上でも大変役に立った。

 しかしこの句、晩年自身が厳選したという朝日文庫版には収録されてはいない。この自薦句集は三鬼の選とはかなり異なるそうである。


⑩ 麦黄なり屋(や)に竜骨のそびえ立ち    『炎昼』・昭和13年


など抽象性のある一連の麦の句も収録されなかった。その理由は、「終に苦し」がしっくりこないなど句の立ち姿に問題を感じた面もあるかもしれないが、なによりも「我」や「主観性」の出ることを禁忌としたところにあろう。颯爽たる誓子にして、戦後このような地点に行き着いたこと、私には残念である。


筑紫:次回の「戦後俳句を読む」第5回は「風土」について句が選ばれ、論じられることになるが、風土とは何かを少し言及しておきたい。既に「風土俳句」については、前回で定義をくだしたが、これだけが風土の定義ではないことは当然である。一般的に言えば、風土とは自然環境であり、しばしば人を律してゆくものであるから、和辻哲郎のように「風土」は単なる自然現象ではなく、その中で人間が自己を見出すところの対象というふうに拡張することもありえるだろう。その意味において風土俳句も「風土」の1つの表れとしてみておかしくはない。その意味では、そこに住む人間に与えられた条件であり、人間は受動的な役割を果たすにとどまる。風土俳句がごく一時の、ごく一部の人たちにしか適用されなかったのも頷けることである。

 さて、近代俳句ではこのような「風土」と違う全く新しい要素が正岡子規によって導入された。それは写生である。明治27年の秋に子規は根岸の郊外をしきりに散歩している。このとき1冊の手帳と1本の鉛筆を携えて次々と俳句を書き付けた。毎日得るところの10句、20句は平凡な句が多いけれど嫌味がなくて垢抜けしたように思って嬉しかったという。これが子規の写生の開眼である。そこでは人間的要素がすっかり捨象され、風土のように類型化されない個別個別の特徴ある純粋客観的な要素が俳句では注目されるようになった。

 風土といえないとすればそれは風景と言わなければならないであろう。俳句でしばしば用いられる、「客観写生」(高浜虚子)にしろ、「打座即刻」(石田波郷)にしろ、「眼前直覚」(上田五千石)にしろ、「第3イメージ」(赤尾兜子)にしろ、俳句のキャッチフレーズは風景となじみやすいのだ。

 では風景とは何か。北村がいう「何らかの余裕のある人間が、見ることによって感知する、結合した自然の物体群の醸すアトモスフェア」の説明はある程度共感できることである。

 私自身、雑誌「俳句空間」に執筆した「風景論」(平成3年)以来、風景という言葉に関心を持ち次のように考えるようになった。風景で重要なことは、風景があって風景思想が生まれるのではなく、風景思想があって目の前の自然から風景を切りとってくると言うことである。風景思想がなくては、風景は存在しない。問題は風景思想がどのように生まれたのかということである。

 明治の風景の創始は【注】に試案を述べてみた。戦後の風景は、これからさらに進んで独自の風景論を展開した。


中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼

陰干にせよ魂もぜんまいも 橋間石

厠にて国敗れたる日と思ふ 能村登四郎

雪国に子を生んでこの深まなざし 森澄雄

白い人影はるばる田をゆく消えぬため 金子兜太

悲しきかな性病院の煙突(けむりだし) 鈴木六林男

さうめんの淡き昼餉や街の音 草間時彦

どの子にも涼しく風の吹く日かな 飯田龍太


 見てもわかるようにどこにも風土は存在しない。境川村に住んだ龍太ですら風土は詠んでいない。彼らが詠んだのはすべて風景である。戦後俳句の活動とは、思想を詠むことでもなく、主題を詠むことでもなく、ただひたすら風景を読むことに明け暮れてきたのである。

    【注】近代日本にとって重要な契機は、志賀重昂の『日本風景論』(明治27年刊)ではなかったかというのが、私の仮説だ。日本の山岳家の祖小島烏水が『日本風景論』を手に日本アルプスを探索したのはその小さなエピソードに過ぎない。

 前出の私の評論と前後して出た大室幹雄の『志賀重昂『日本風景論』精読』(岩波現代文庫)は志賀の業績を矮小化している。その理由を、①根拠なきナショナリズム、②志賀の科学的知識は浅薄である、③風景の本質は日本古来の煙霞僻にすぎない、とあげている。

 もともと①について言えば、ナショナリズムはどんなナショナリズムも根拠なきものであり不合理きわまりないのだから、それをもって志賀を糾弾する理由にはならない。また、一方で、明治のナショナリズムが功罪いずれに傾いているかは分からないのであり、現在ナショナリズムが否定されている世界で唯一の国家、戦後日本の評価基準で眺めても意味がないのである。一方、②と③は『日本風景論』の成立の根拠に遡らなければ分からない。

 そもそも『日本風景論』のようなものは何故書かれたのか。何を根拠にこんなユニークな本を書こうとしたのか。大室も誰もそのことを教えてくれないので、私なりに類書を当たってみた。英国の政治家・銀行家にして博物学を趣味とするジョン・ラバックが著わした“The beauties of nature and the wonders of the world we live in”(1892年。和訳名『自然美と其驚異』)は『日本風景論』(1894年刊)の2年前に出ている。内容は、動物→植物→森林と原野→山岳→水→河と湖沼→海→天、とミクロからマクロへ視野を広げてさまざまな風景を描いている。内容は科学的記述と文学作品をつづった啓蒙書であり『日本風景論』によく似ている。特に、その「山岳」の章は、『日本風景論』そのままといってよいから、この本の影響はかなり濃密なものがあるといってよいであろう。ところでラバックは、その後、“The scenery of Switzerland”(1896年『スイス風景論』)、“The scenery of Switzerland”(1896年『スイス風景論』)を著わしているが、このような国別風景論は、ラバックに志賀は先立っていることになる。

 もちろん先蹤に、地質学者アーキボルド・ゲイキイの“The scenery of Scotland”(1865年『スコットランド風景論』)があったろうが、これはむしろ科学書に近いから科学と文芸の融合はラバックならではの業績であった。

 何を言いたいのかといえば、ラバックの『自然美と其驚異』の影響を受けたとはいえ、『日本風景論』は世界で最初の国別風景論の本であったのではないかということだ。思想が風景を切り出す、最初の現場を示してくれているのだ。

        *

 大室のいう、②科学的知識の浅薄さ、③日本古来の煙霞僻にすぎない風景観は、啓蒙のあり方、細分化された科学的ディテールから文化への発展を示しているように思われる。大室は、志賀の著書の新しさは、ただ一点、煙霞や雲霧、雲烟ついった古びた死後を水蒸気と呼び直した一点にだけあったのだといってさしつかえない、とこれまた批判するのだが、いや逆に、こうした単純な一元化こそ明治の精神であった。そしてこうした無茶な単純化を経ないでは西欧思想の翻訳は不可能だったのである。今も我々の周辺には単純化の結果の無茶な西洋思想の残骸が残っているではないか。かと言って、科学的知識は大学が機能し始めた当時山ほどあったはずであるが国民を感動させ、動かす知識には全くなっていなかった。無茶な一元化は国民の心を動かしたのだ。そして多分、当時の人々に必要なのは、翻訳された欧米の風景(立ち返って言えば風景思想)ではなくて在来の日本と連続した風景思想であった。それを実践し得たのも志賀しかいなかったのである。

 ラバックで思い出すのは英国民の、こうした分化した知識を総合する能力だ。話は飛ぶが、国際連邦を提案したH・G・ウエルズは、そもそもこの運動の前提となる「世界史」が存在しないことに気付いた。このために数十人の専門家に原稿を書かせ、それをウエルズが自らの思想に基づいて、一切専門家の意見を入れず書き改めた。分かりやすい、思想の一貫した啓蒙書とはこのように出来るという一例である(いまなら著作権の関係で決してできない手法である)。これがかの有名な『世界文化史大系』である。英国民は啓蒙書編纂のノウハウをこのように獲得したのだが、一時代の日本中の青年の血を熱くさせた啓蒙書『日本風景論』の編纂もこれに似た方針があったはずだ。「②科学的知識の浅薄さ」はことさらな分化した科学を排除する総合性に、「③日本古来の煙霞僻」は西洋の美意識を日本の山水に融和させる意志とみてよいのだろう。

 だから大室の指摘するちょっと変わった煙霞僻の中に明治の新しい精神が息吹いているのである。


○鮭捕り網を斜陽に曝す石狩江村の晩、奥州訛りの漁唱、雪の如き荻花の間に起こる。

○夜雪初めて霽れ、分明に認め得たり屯田村の灯火三四点。


 こうして生まれた明治20年代の風景に、俳句の風景も乗らずにはおかない。『日本風景論』以前の、子規の「かけはしの記」(明治24年)、「はて知らずの記」(明治26年)は芭蕉の奥の細道の亜流を一歩も出ていない。しかし、河東碧梧桐の『三千里』(明治39~40年)は『日本風景論』を踏まえ、さらに克服した全く新しい文学であり、風景であった。ここに『日本風景論』の過渡的な意義を認めるべきである。では、虚子は?この間虚子は全然旅行などしていない。風景の主体的な形成に全く没交渉だったのである。明治の精神が作り上げた新しい風景を、受動的に俳句に取り込んでいただけであった。


堀本

《 風景論の参考書 》

 風景論の参考書としては、まず、明治期、古典的な名著志賀重昂の『日本風景論』(明治27初版・現在近藤信行校訂 岩波文庫)、これは影響の大きい一書であるが、今読んでも愉快で刺激的である。 


一 日本には気候海流の多変多様なる事

二 日本には水蒸気の多量なる事

三 日本には火山岩の多々なる事

四 日本には流水の侵蝕激烈なる事 (『日本風景論』緒論)


 よって、日本風景は「瀟洒、美、跌宕(てっとう=豪放の意)」との特徴を持ち火山や水蒸気に美の根拠を持つ。〈霧時雨不二を見ぬ日ぞ面白き 松尾芭蕉〉(同書)。重昂は、この句を例に出して、霧や雨の水蒸気が生む風景、また見え隠れする景物の趣きを語る。「科学的」説明の間に挿入されるかなりの分量の詩文、俳諧句。この論述構成のあり方は、いささか奇書の感じもするのだが、本書のいわば浪漫的なナショナリズム、これこそ日本固有の風景だという発見と熱っぽい主張が、知識青年達におおきな影響を与えた。

 松岡正剛の『山水思想』(2003・五月書房)『花鳥風月の科学』(2004・淡交社)、には「花鳥風月」などのモードに分けて、日本人の美意識を解剖している。特に「風」」の章の探求が魅力的で、彼によれば、「風」は一種のメディア(情報)のシンボルである。風景とは何か、と言うテーマでの切り口は、諸家によって予想以上に多様である。


《 風景句の戦後性—「焦土」の風景》

 風景の書き方で戦前とあまり変わらないところを抜き出してみた。いろいろみてゆくと、廃墟や焦土にも豊かな景を見出しているところ、感動を覚えるほどである。日本人の精神世界では(少なくとも今までは)あるいはそれが、物質的な貧しさが埋蔵する見えぬ富に気づかせてくれるのかもしれない。


山茶花やいくさに敗れたる国の・日野草城  

明日如何に焦土の野分起伏せり・加藤楸邨 

焦土の辺晩涼は胸のあたりに来・森澄雄 

焼跡に遺る三和土や手毬つく・中村草田男


《風景句の戦後性—川柳集より「富士山」の詠まれ方》

富士山を取り合わせた句は風景句の好例になる。『近江砂人川柳集』(昭53・番傘川柳本社)番傘創立七十周年記念出版より。


お召艦その背景に富士の山   (昭14)

焦土あはれ流聯(いつづけ)をした店の跡  (昭21)

富士山にわが機の影がくっきりと (昭37)

聖火行く富士も声援する中を   (昭39)

元日の富士おごそかにあり石油危機(昭49)


 戦前は国の権威を美しく飾り、戦後は焦土での生活の背景に聳えている。いまならばプチナショナリズム、というところ。富士山の配し絵にすることの気持ちよさ、が伝わる。


《風景句の戦後性—「富士山」の俳句》

 俳句では、おおむね「富士」そのものをおおいなる「日本の風景」として称揚し対象化しようとする。それらの句が類型的でありながら単なる叙景をこえた完成度を獲得しているところも、戦前戦後とも変わらない。


元日や一系の天子富士の山  内藤鳴雪(明治の句)

立秋の麒麟の脚が富士を蹴り 須藤 徹(平成の句)


 須藤徹は戦後世代である。彼のキリンは動物園から抜け出して、巨大な神獣「麒麟」の風格を持つ。しかもウルトラマンのようにこの名山にケリを入れる。(しかし、これもやはり富士山の賛美と読みとられる。)


雪の富士高し地上のものならず  山口誓子

ばら色のままに富士凍て草城忌  西東三鬼

富士秋天墓は小さく死は易し  中村草田男  


 俳人の風景観も「富士」の神聖化からはまだぬけだしていないだろう。「焦土—荒廃」から立ち上がるために、「富士」という永遠の山への詠み方がまもられたのである。これは、俳句の方法的特質とのみはいえない。富士に代表される日本の風景の普遍の美を信じているゆえか、あるいはこれが日本的思考法というべきなのだろうか?


註1:『現代俳句の世界④:山口誓子集』「俳論 一」