2025年3月21日金曜日

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり 25 富澤赤黄男の俳句集

(『富澤赤黄男 高屋胸秋 渡邊白泉 集』(1985年刊、朝日文庫「現代俳句の世界16」)より)

 

蝶墜ちて大音響の結氷期


 この俳句を声に出して何度も朗読してみる。そのなかで内容をどう解釈していくのか。(ちょうおちて・だいおんきょうの・けっぴょうき)を私なりに何度も俳句鑑賞で解釈(創造)してみる。

 絵画でいうならば、シュールレアリズム。

 富澤赤黄男は、1902(明治35)年から1962(昭和37)年の時代を駆け抜けた俳人だ。

時代背景を深読みしなくても新興俳句において検証がもっとも必要な俳人のひとり。

 絵画を読み解くように俳句を咀嚼玩味していくにしても、この詩魂の凝縮は、現実よりもリアリティーを獲得したイメージの到達点がある。未だに私は、この俳句の構造を咀嚼しきれていない。

 そんな私は、何度もこの詩魂の俳句鑑賞をしながら俳句を味わう楽しさに浸る。


 先ずこの俳句を絵画的に読み込むうえでひとつの俳句鑑賞の設定をしてみる。

 アニメーションのようにこの俳句を読む。アニメーションとは、映画技法のひとつ。絵や人形などを少しずつ変化させ,1コマずつ撮影し,映写によって被写体が動いているように見せる手法のこと。絵画の1枚としていくつもの絵の展開(移ろい)を想像してみた。

 「蝶墜ちて」は、蝶の命がもがきながらも死期に墜ちていく刻々と移ろう映像を捉えている。

 蝶は、地に落ちた。

ではなく地に墜ちていくアニメーションでも見ているように映像が展開されて、また映像がエンドレスに再生を繰り返す。

 その「蝶墜ちて」の深淵な断絶は、たった5音にまるで封印されているようだ。

 この詩魂は、蝶の命の朽ち果てる映像を凍結させながら「大音響の」に詩的飛翔が生じている。

 富澤赤黄男や高柳重信などの俳句研究でもずば抜けている『絶巓のアポリア』の俳人の高原耕治先生の言葉(電話越しにだが)を借りて云うならば、「蝶は、蝶でありながら蝶を超えてゆく。」ということなのかもしれない・

 この蝶は、富澤赤黄男の生きた戦争の時代を象徴しながら宇宙の星の消滅にも見えてくる。

 そこに省略されている富澤赤黄男俳句の宇宙への想像力の翼が飛翔する。

 あの十五年戦争の時代に生きてきた方々の言葉で「いつも戦争という時代背景によって死が身近に存在した」のに基ずくならば、「蝶」は死にゆく時代の暗喩にもなる。

 その蝶の死へと墜ちていく絶頂の「間」(ま)から一変して宇宙にさえ響き渡る大音響が生じる。「大音響の結氷期」。この結氷期のマクロの世界には、人間がより良く生きれずに人間性を喪失してしまう時代の凍りついた人間の尊厳の結晶たちの標本のような万華鏡が、そのアニメーションのようにエンドレスに流れ続ける。

 まさに天に創造された万華鏡の蝶が、墜落の瞬間を木霊させ続け、永遠の詩魂としてエンドレスに展開されている。

 この「蝶墜ちて」と「大音響の結氷期」の死を身近な日常として抱き続ける富澤赤黄男たちの深淵な時代が、この俳句に凝縮して込められている。

 そんな時代を富澤赤黄男俳句は、生き続けているのだ。

 つまり私たちは、戦争の世紀が地球から風化して戦争の痛みのない世界に生きていくのだろうか。

 人類は、延々と戦争の世紀を繰り返している。

 上5の蝶は墜ちていく瞬間を捉えつつも死に到達するまで大音響の結氷期のような時代へさかのぼり、エンドレスに巻き戻されていく。

 それが、蝶の尊厳の崩壊(死)における戦争の時代を延々と炙り出し続けている。

 しかしこの俳句は、上5の「蝶墜ちて」にエンドレスに捩じれながら戻り、∞(無限大)に延々と戦争を象徴的に蝶の死を標本のようにとどめながら時代を暗示する。

 それは、天上の星空を描き出すように戦争に巻き込まれていった死を明滅させ続けている。

 富澤赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」の到達点は、ある時代の戦争の世紀をさ迷いながら生き抜き、喉元を通り抜けてゆく、ある俳人が視た時代が標本化されていると云える。

そのことで浮かび上がる富澤赤黄色俳句に込められた戦争の風貌は、今もなお廻りめぐる星座早見盤の星たちの神話のように展開されている。

 戦争の世紀は、今後も続くとしても俳人の戦争への抗いをこの俳句から読み解き創造していきたい。


美しいネオンの中に失職せり


 みんな失職を詠める俳人をどれだけ知っているだろう。俳句にいい恰好ばかりを盛り込んでいませんか。「美しいネオン」の中を失職の果てにとぼとぼと歩いている。外界の煌びやかさは、隣の芝生とでもいいましょうか。失職の内心の落胆との対比が効果的だ。


戀びとは土龍のやうにぬれてゐる

乳房や ああ身をそらす 春の虹


 戀びととの交わりを書かずしてこのエロス!「土竜」のように濡れているという比喩も脱帽です。

 乳房を揺らしている。身をそらす歓喜も春の虹の隠喩もおおらかなエロスですな。

 今後も再読してみたい俳人のひとり。

 共鳴句もいただきます。


爛々と虎の眼に降る落葉

凝然と豹の眼に枯れし蔓

火口湖は日のぽつねんとみづすまし

鶏交じり太陽泥をしたゝらし

南國のこの早熟の靑貝よ

甲蟲たたかへば 地の焦げくさし

乳房に ああ満月のおもたさよ

ひとの瞳の中の 蟻蟻蟻蟻蟻

切株はじいんじいんと ひびくなり

草二本だけ生えている 時間

蛇よ匍ふ 火藥庫を草深く沈め

零(ゼロ)の中 爪立ちをして哭(な)いてゐる