2025年3月21日金曜日

秦夕美ノート余滴・秦夕美の短歌  佐藤りえ

二十冊にせまる句集をあらわした秦夕美には一冊だけ歌集が存在する。同名の句集とのセットとして作られた句歌集『万媚』がそれで、書肆季節社から昭和59年に刊行された。栞「万媚――その様式の別れ道へ」を馬場あき子が執筆している。夕美は当時馬場が主宰する短歌結社「かりん」に所属していた。

 人殺めきしここちして白木蓮の白にごりゆく梢に真向う 秦夕美『万媚』
 桃の肉しづかに落つる胃の腑ありていましばらくの生はあらなむ

夕美は句集と共に膨大な量の散文を残しており、俳句や文学にまつわる話題も多く、わりと赤裸々な自身の来歴が織り交ぜられている。十代の折、ふとしたきっかけで王朝文学にのめりこみ、万葉集より古今和歌集を好んだ――といったことまではわかったが、現代短歌を作ろうと思ったのはいつなのか、なぜ「かりん」に入ったのか、明確なことはわからなかった。

ただひとつ、手がかりとして「渦」の外部前号評にあたる文章にこんな記述を見つけた。

俳句もの説といわれるものがあるが、ものについて、馬場あき子著『鬼の研究』に面白い記述がある。『日本書紀』その他で鬼をものと呼んだといい

(…〈もの〉とは……はっきりと目にも手にも触れ得ない底深い存在感としての力であり、きわめて感覚的に感受されている実体である。畏るべきものであり、慎むべき不安でもあった根源の力を〈もの〉と呼んでいる。)

「女流俳句について」(「渦」61号・昭和46年)

この稿は「渦」入会以前、兜子より依頼を受けて「鷹」所属のまま客筆として書いたものである。こののち第二句集『泥眼』を編む夕美は、以前から能・狂言への関心を持っていたようで、彼女にとって馬場あき子はまずは鬼の研究者として認識されたのかもしれない。この部分だけを見て判断するのは早計だが、気に入って引いたところとして、夕美の考え―感覚的なものを重視する―に合致するところが大いにあると思う。

さらに後年、「渦」風信抄に以下の投書があった。

馬場あき子氏の「かりん」(五月創刊)を読んでいますが、あき子氏の「和泉式部」岩田正氏の「わが戦後詩」辺見じゅん氏の「史外への旅」の三本の連載を中心に、エッセイ、歌人論、わが本棚とわずか四十二頁ですが、作品欄の外に密度の高い内容ぶりに瞠目致しております。レイアウトも素敵でした。

(「渦」129号・昭和53年)

夕美は思い込んだら一筋なところがある。藤田湘子との出会いにしろ、赤尾兜子との師弟関係にしろ、こうと決めたらロックオン、猛然と追いかける、みたいなところがある。馬場あき子の動向をフォローしていたからこそ、創刊間もない「かりん」を既に手にしているのだろう。翌年(昭和54年)の「かりん」1月号に作品が見えるので、この後ほどなくして「かりん」に入会したものと思われる。


「かりん」昭和54年3月号、夕美の作品は入会から3号めにして「かりん集」に抜擢されている。「かりん集」は渦なら渦集にあたる、主宰選の上位特別枠、会員欄とは別個に掲載される。

 連翹のかなたをはしる子取り鬼恋の小鬼もとりてゆくべし (「かりん」昭和54年3月号)
 さびしさの果は知らねど冬干潟うなじに風をうくる白鷺
 白地図のなかの風景あるきゐて柳絮いささかとぶを見たりき

「牡丹雪」6首、うちはじめの1首が翌4月号の前月号作品鑑賞で岩田正から評を受けている。

着想のおもしろい歌である。下二句に作者の着眼のおもしろさが出ている。いわゆる子供の遊戯を見ながら、そこに作者自身の、子供の世界への追想を含めた形での、ロマンチックな観点をうき出させている。「連翹」もよくきいている。

岩田の鑑賞は「子取り鬼」を実景として眺めているが(もちろんこれは「まひる野」を源流とした「かりん」の傾向として至極当然のことなのだが)、「冬干潟」も「白地図のなかの風景」も、描写であろうとしつつ、ことばの面が際立つ作りとなっているように見える。夕美のかりん集への入集はこの翌年昭和55年11月号が最後となる。

 夕鵙に五臓六腑の汚れたるこのかなしみを告げてみたきを (「かりん」昭和55年11月号)
 骨片のかろきを言ひて眺むれば虹あはあはと顕ちにけるかも

この頃の「かりん集」、会員作品欄には今野寿美、坂井修一、日高堯子、青井史、佐波洋子といった名前が並ぶ。のちの歌壇の重鎮たちが妍を競う、出航間もない活発な結社に身を置いていたのだ。技術的なことはもちろんのこと、現代的な主題、文体の試行、風俗の反映といったものが、刻一刻と進められる、現代短歌最前線の現場である。

 語りあふ古代の色など 勾玉のごときナッツを夜更け食みつつ  今野寿美
 水平線めざして無量の羊らの渡れるごとし夕なぎの海  青井史
 恋文を書くこと断ちてわが指は方程式を解く さわやかに  坂井修一

文語調の作品ももちろん多くあるが、そこに籠められた精神はぐっと現代的な彩りを見せている。

俳句においては審美的な作品作りを遂げていった夕美は、短歌においてはあくまで情緒的な表現、「もののあはれ」を基調とした詠いぶりが続いた。ライトバース、口語短歌隆盛の時代に「そういう新しさ」は夕美の欲するものではなかったのかもしれない。

「かりん」の門戸を叩いたのは、馬場あき子の持つ、古典を体内から自然に湧出させるがごとき作風、王朝文学への造詣の深さといった点に親和性を抱いていたから、ではないだろうか。

 菊焚きし手の昂りのさりながらはや大切のものもかへらじ  馬場あき子『葡萄唐草』
 頼朝はどこにもをりてひたすらに蹶起せざれば木を植ゑている  『雪木』

そんな馬場が『万媚』に寄せた栞では夕美の短歌の特徴二点を挙げている。一つは「王朝風な女手文体の美的なことばや律を生かし、時には古歌の一節を奪って情緒を加えることなどもしている」点。もう一つは夕美の短歌に連句風の構造を見ている点だ。

もう一つは連句風の上下つけ合せの技法を用いたもので、これは連句の復活というよみ方をした方が意味深いことになるのかもしれない。

  ながれあへぬ言葉も紅絹の色なして
   夕暮坂の楓ふかれつ
  かい擁く白き仔猫に春日さし
   二夜つづきの妬心ほのめく
  冴えざえと坂よぎりゆく笛の音や
   後生たのまぬたまゆらの恋

(中略)その特色をいえば、つけ合せの句の方がオクターブが低くできていることである。心性の深い一呼吸おいた転換をとげてはいるが、脇句風の下句であって、揚句風にはついていないところが、あるいは秦さんの作品的特色になるのかもしれない。脇句はなお三句へとつづく世界を含みもち、そのゆえに抒情は言い残した余白をもっているが、一首の屹立の上には嫋々とたゆたうものを残しすぎているといえよう。

「万媚――その様式の別れ道へ」馬場あき子

一首をそのままひといきに結句まで読み下ろしたとき、古風な抒情と美意識にのみ目がいきがちなところを、下の句が脇である、と見ることで、世界が転換していく、場面が移り変わり、情がにじむ。馬場の指摘は夕美の短歌の俳諧的な性格を読み取り、その可能性と課題を示している。この栞は夕美にとってきわめて真っ当な、敬愛する先達からのサジェストになったのではないだろうか。栞は「短歌と俳句のジャンルを同時踏破しようとする秦さんの企図に、拍手を送りつつ」「やがて才(ざえ)は一つに収斂せざるをえないのだろう」と続く。馬場の予言は、予言というより、夕美の淡い心情の輪郭を、より的確に指摘してみせた、ということのように思う。

夕美本人の言及が見当たらず、時期的なことはわからないが、「かりん」への出詠は昭和58年ごろを境に途絶えている。その後も夕美は折に触れて短歌を作り、個人誌「GA」などに発表していった。

 夕焼けをおしつつすすむ飛行機の翼のごときバターナイフよ(「GA」85号/2020)
 ひさかたの光のほしやさりとても舫小舟のやうな一日(「俳句界」2021年5月号)
 五月待つ闇の奥処を思ひつつ置く甕棺の湿りほどよき
 一本二本数へて草を抜きゐたり頭の中が暇すぎるので(「GA」89号/2022)

「俳句界」2021年5月号の特集「俳句と短歌」では上記の作品とともに、俳句と短歌への取り組みの違いを端的に述べている。

喜怒哀楽の中で短歌は喜と哀だろうし、怒と楽は俳句という形式に収まりやすい。もっと嚙み砕くと、心をゆるく情にゆだねている時は短歌で、心が鋭角に一点へむけて尖っていく時、俳句になってしまう。

最晩年まで刊行された個人誌「GA」には毎号俳句とともに短歌が掲載されていた。「心をゆるく情にゆだねる」。夕美は短歌とそのように手をたずさえ、歩き続けた。