BLOG「俳句新空間」で先行連載している「現代評論研究」は平成23年から連載を始めた「戦後俳句を読む」のシリーズの復刻であったが、これを受けて「新・現代評論研究」を今回から始めることとした。昨年実施した現代俳句協会の評論教室を契機にリアルタイムなBLOGの場で評論研究を進めようとするものである。その第1回目に当たる今回は取り敢えず3人が参加して頂いたが逐次追加されてゆく予定である。
内容は、「戦後俳句を読む」に執筆した内容を多忙な中書き改めていただいた仲寒蟬氏、「戦後俳句を読む」に倣いつつ新しい作家鑑賞を加える眞矢ひろみ氏、取り敢えず短期連載で作家論としての取りまとめを考えている後藤よしみ氏と特に枠組みにこだわらない執筆をしている。今後予定される執筆者はさらに新しい企画を考えているようである。
★―1:赤尾兜子を読む1 / 仲 寒蟬
0. はじめに
かつて2011年4月からの「戦後俳句を読む」(「俳句新空間」とその前身の「詩歌句」掲載)で赤尾兜子の俳句を46回ほどにわたって観賞した。
今回の戦後俳句研究でも赤尾兜子を読もうと思うのだが、単に前回の続きというのでは発展性がない。筆者もあれから俳人としての経験を積み、それなりに色々と考えてきたのだからその兜子像も当時とは少しく異なる筈である。
そこで手始めとしていわゆる兜子らしい前衛的な句が形成された『蛇』『虚像』よりも前の句集から読み始めてみようと思う。ちなみに生前の赤尾兜子には刊行順に『蛇』『虚像』『歳華集』『稚年記』『玄玄』(厳密には死後の刊行)の5句集があるが、年代順に並べると『稚年記』が一番先に来る。さらに死後にまとめられた『赤尾兜子全句集』刊行直前に遺品の中から見つかった句稿を元に『飈』という句集がまとめられたが、年代順で行くとこれは『稚年記』と『蛇』との間に当たる。
したがって暫くは『稚年記』『飈』の俳句から読み進んで行くこととする。
1. 無花果や若き乳房ニある秘言
『飈』の巻頭句であり「因習の彼方 一句」の前書を持つ。
のっけから難しい句に出くわした。そもそも「秘言」は何と読むのか。「ひめごと」では「秘め事」とややこしい、やはり「ひげん」であろうか。大字源にも字通にも出ていない。意味としては秘めた言葉と取る他ない。
『飈』は昭和58年2月28日発行、兜子の妻である赤尾恵以の「あとがき」によれば
去年、『赤尾兜子全句集』が間もなく刊行される直前に、遺品の中から発見された未発表の二百二十二句でございます。
ということである。この句集の存在については妻にも他の何人にも一切知らせていなかったという。刊行に関わった和田悟朗によると
日記風に書き連ねたこの句集は、初期の『稚年記』と、のちの前衛作品『蛇』との中間期に当たり、終戦直後のミリタリズムの反省とやがて始まる社会不安への危惧の心を抱いて、青年兜子が抒情主義から脱却しつつ、やがて前衛的姿勢への萌芽を見せる多情で思想的な作品集。
ということになる。
さて、この句、無花果はその形と果汁豊かな感触とから容易に乳房を連想させる。若き兜子にあった恋、というより情事の記憶であろうか。前書の「因習の彼方」はどういうことだろう。まさか菊池寛の小説『恩讐の彼方に』とは関係あるまい。因習というからには古くて新しい時代には弊害となるもの。男女の関係で言えば恋愛感情のない結婚とか愛妾制度のようなものだろうか。その彼方ということだから新時代の自由意思に基づく肉体関係ということか。
★―2: 橋閒石の句 1/眞矢ひろみ
たましいの暗がり峠雪ならん
昭和59年蛇笏賞受賞「和栲」の一句。選考委員の飯田龍太は「委員の誰ひとり、面晤をもたぬとは、まことに愉快」と記す。この句集は閒石が亡くなる8年前、傘寿記念の出版である。「大方の人が、受賞まで閒石の名を知らなかったようで」と正木ゆう子が述懐しているが(*1)、「和栲」は閒石にとって第7句集であり、永田耕衣や赤尾兜子とも親しく昭和33年には高柳重信の「俳句評論」創刊に参加し、鈴木六林男は閒石に再婚話を持ち掛けるほどであった(*2)。単に関東で無名だったのではと想像してしまう。一方、恩田侑布子が評したように「閒石が初老期までは平凡な俳人に過ぎなかった」(*3)とすれば、全国的には無名であったことの要因とも考えられる。
さて、恩田評の正否はひとまず置くとして、閒石の作風の変化自体は、句歴が70年を超えることを考え合わせると、当然と言えば当然である。逆に生涯を通じて変わらなかったことに着目すると、その一つが故郷・金沢への郷愁の念が強く、生涯を通じてモチーフにしたことだろう。
「和栲」には掲句のほか、故郷を語彙として使った句に
故山我を芹つむ我を忘れしや
はらわたに昼顔ひらく故郷かな
ふるさとや灰の中から冬の鳥
また、故郷を強く意識した句として
こなゆきこゆき雪のでんでん太鼓かな
ふぶく夜や蝶の図鑑を枕もと
雪ふれり生まれぬ先の雪ふれり
などが挙げられる。
閒石は祖父が加賀藩、お書物掛を勤めた書家という家に生まれたが、病弱な少年期を過ごす。中学を退学して自宅療養となるが、父親が図書館から借りてくる本に、江戸期から子規前後の俳書が含まれ、地方新聞や雑誌に投句するようになる。これが連句、俳句との馴初めである。金沢といえば、泉鏡花や室生犀星に始まり現代にいたるまで、多くの文人を出しているが、父親が俳書を借り与えるあたりを地域風土と呼ぶのかもしれない。その後、四高を経て京大に大正14年21歳で進学するが、この時期に両親や長兄を相次いで亡くしている。死と隣り合わせだった青少年の時期を、故郷で家族と暮らしたことが、閒石の精神に大きく影響したことは想像に難くない。
大学では英文学を専攻し、教官の職を得て神戸に居を定める。専門は英文学、殊にラムやハズリット等のエッセイである。閒石自身も後年、金沢での家族の思い出、蟹、鰤、鶫、雛菓子といった食物、雪や氷柱、生家の佇まいなど、細々とした日常を随筆として綴っている。北陸とは違い、縁遠くなった雪には特に敏感で「雪という字にぶつかっただけでも、母親にめぐり逢ったような気がする」と書いている(*4)。
昭和26年48歳の時の初句集「雪」には「ふるさとへ続くこの道秋の風」などあり、平成4年亡くなる直前の最終句集「微光」では「雪山に頬ずりもして老いんかな」と、自虐的でユーモラスながら凄まじい。頬ずりをするのは雪ではない。雪山である。閒石の「雪」は、映画「市民ケーン」の「薔薇のつぼみ」のイメージと重なってしまう。
文頭のたましいの句についても、自己の魂の深部に、峠の雪、つまり故郷を見出しているものと読む。婉曲推量の助動詞・辞である「らむ」の機能を使い、話者(≒作者)の立ち位置を明らかにする。傘寿の閒石は、これから越えるだろう節目・峠に、魂の最深部に遺る雪・故郷金沢と母の背のぬくみを感じているのだろう。などと解せば深読み、妄想と叱責を受けそうだが「詩の本領は重層の曖昧さにある」「こうもとれああもとれる、というふうであってこそいいのだ」(*5)として、一つの読みに拘泥することを嫌った閒石である。このような読みに対しても、静かな笑みを浮かべるに違いない。
以下、余談である。昨今、望郷をモチーフにした俳句を見かけない。交通通信のネット化が進み、全国どこでも同じフランチャイズの店が軒を連ねる時代である。そもそも豊かな地域風土を持つ地を故郷として持たない、又は認識しない俳人が増えている可能性も高い。また、唐突だが、野口る理が「俳コレ」(*6)に『意識していること』として「「今」や「思い」を書かない」としていたことを思い出した。望郷の念が俳句の対象から消えた、或いは共感を生む土台足りえなくなったように感じる。だとすれば、閒石は生涯を通じて故郷に向き合った最後の俳人かもしれない。
*1『現代秀句』正木ゆう子 春秋社 平成14年
*2『橋閒石全句集』栞 鈴木六林男 沖積舎 平成15年
*3「終焉のむつの花」偏愛俳人館 恩田侑布子 角川『俳句』令和2年9月号
*4「残雪」『泡沫記』橋閒石 南柯書局 昭和55年
*5「比目魚」『泡沫記』 同
*6「俳コレ」「週刊俳句」編集部 邑書林 平成23年
★―3:「高柳重信の風景」/後藤よしみ
一 はじめに
(一)
『芭蕉の風景』が、小澤實氏により二〇二一年に出版されている。松尾芭蕉が句を詠んだ地を作者が実際に訪れ、芭蕉の当時と変わらぬ風景のなか、また当時の面影が全く消え去ったなか、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考えつづけた連載をまとめたものである。「実際の風景と、それを形作ってきた文化の古層を読み解き、見聞きしたことを文章や句にとどめる。先人や歌枕の跡を訪ねた芭蕉の旅と二重写しとなり、時空を超えた豊かな文学世界」と評されている。
この風景というものの概念は多様で、いろいろに解釈されている。一般的には、十七世紀以降に西欧において風景画が登場して風景に美を見いだすようになったとされる。日本においてはどうであろうか。柄谷行人は、明治二十年代の文学作品において、西洋と同じように風景に美を見いだそうとする発見がおこなわれているとする。
その柄谷行人は、芭蕉において、風景は発見されなかったとしている。それに対する意見も多数出ている。
それでは、戦後の俳句作家として高柳重信における風景とはどのようなものであろうか。高柳重信については、次のように紹介されている。「多行形式の俳句を開拓し、大いに実践」(澤好摩『現代俳句大事典』)。「従来の俳句概念を決定的に打ち破って出現した俳人。(略)多行形式によるイメージの屈折と重層化、カリグラムの表現法によって物語的世界を仮構、展開し、一句集によって宿痾の生の全体を象徴化した」(川名大『現代俳句』)とされている。このように戦後の俳句に新たな取りくみを展開した俳人である。
高柳重信において、風景とはなにか。はじめに重信自身の言葉から見ていきたい。
まず、少年期である。東京都文京区にある小学校の三階建ての屋上からは、校歌の一節、「富士の高根に筑波嶺に」と歌われているように、富士山も筑波山も見えた。重信は、度々屋上に上り、そこからの風景を眺め、後年の詩心を育てている。
《日々、その姿を眺めてくらすことは、やがては、その間近にあって、それを仰ぎたいという心を養い続けることであり、そしてまた、いつかは、その山に登ってみようとする思いを、具体的に確実につのらせつづけることでもあった。その山には、それにふさわしい霊魂がひそんでいると信じられていた時代であれば、それはすなはち、人間の精神と直接つながる思いであったわけである。(略)それは、ある一つのものが喚起する人間の精神や感情に、相互に共通した普遍的な感情を、あらかじめ期待することが出来る基礎でもあった。そして、この俳句表現の一つの特徴である即物的な発想も、そのような感受性の基礎がなければ、とても成立する余地はなかったろう》。(「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』)
敗戦後に移り住んだ荒川河畔の戸田の風景は次のように描かれている。
《秩父颪と呼ぶ北風が、日がな一日吹きつのり、空気が澄みきってくる夕暮れどき、夕焼けに染んだ西の地平線にくっきりとした富士が雪を被て、うす桃色に遠望できるのが、わずかに正月らしい風景なのであろうか。しかし、その遠望の富士につづく枯色の荒川の堤防や、更にそのこちら側の畑には、元旦早々から麦踏みの人影が見え、思えば、富士の遠望に心を奪われているのは酔眼の僕ただひとりのようでもある。つかの間に日が落ちると、歌留多を読む声もない。秩父颪に吹きたわんだ電線が暗闇の中で寒々として唸り声をあげるだけである。そしてこの秩父颪も、戸田橋のあたりで荒川を越え、東京に入った瞬間、もう何の風情ももたぬ唯の北風になってしまうのである》(「戸田の正月」『高柳重信読本』)。
敗戦直後の寒々としたなかの富士の山容が美しい。
次に、重信が宿痾と呼ぶ肺結核のため、吐血し、宇都宮病院に入院していた一九六五年に関するの文章である。入院中の生活で《自然から語りつづけられる体験》が甦る。入院時の状況をつづった「宇都宮雑記」(『高柳重信全集Ⅱ』)によりひも解いてみる。まずは、ようやく歩けるようになってからのものからみていく。
《顎をひき、胸を張り、両手は帯を握って、しっかりと拳をつくる。そして、なるべく見はらしのきく、すこしでも高いところを目指して、静かに歩をすすめてゆく。よく晴れた日には、まだ雪を被た日光の山々が、あざやかな姿を北西の方角に見せ、遠く、東の方角に、筑波山と思われるものが眺められる。(略)それは、少年期から青年期になろうという十八歳の時であったが、僕は、あの大戦の困難なさなかに、すでに右肺に空洞を育てていた。
大戦が終わって、(略)僕だけは、依然として、今日明日あたりという、あまりさしせまった思いではないにしても、あるいは半年か一年の後にやってくるかもしれない死について、漠然とした思いで、ただ、それを待つことだけが、のこされたわずかな仕事であった。
しかし、思いもよらず、四十二歳の今日まで生きてみると、いったい、何が手遅れだったというのであろうか、いささか唖然とするほどの不思議な思いがする。
だが、その昔、この日光や筑波の山々は、もっと直接に人々の日常生活につながり、その精神にも生き生きとしたかかわりを持っていたにちがいない》。
さらには、
《ここでは、晴れているかぎり、眼前に日光の連山がくっきりと見え、たまさか快晴に少し高いところに立つと、うち続く家並みのはるか遠くに、うっすらと筑波山を眺めることが出来る。(略)だが、その昔、この日光や筑波の山々は、もっと直接に人間の日常生活につながり、その精神にも生き生きとしたかかわりを持っていたにちがいない。そこでは、人間がそれを眺めると同時に、山々もまた人間を強く見つめていたであろうし、季節に応じ天候に応じ、そして時々刻々に微妙に変化する山容は、人間とのさまざまな対話をもたらしたであろう。それは、いま、想像も出来ない澄みきった空気と、驚くべき荒涼とした見はらしの中のことである。おそらく、俳句が俳句であって、なおかつ同時代の多くの人間の心の中に、ある普遍的な感情を共通に喚起することが出来たのは、このような人間と自然との豊かな対話が、常に可能であったからであろう》。(「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』)
このように、風景との対話を記している。ここで分かることは、重信が少年期から風景と対話をおこない、入院期の死を身近に感じた際の深い風景の洞察である。そこでは、俳句創作の根源にふれている。
(二)
重信の句業を概観すれば、次のことが言えるであろう。敗戦後に俳壇に多行形式により登場した重信。五〇年代後半から六〇年代半ばにかけ寡作となる。それが、この入院時期の風景の中に身を置くことから作風の変化がみられ、創作意欲が高まっている。
初期の代表作から見ていく。
身をそらす虹の
絶巓
處刑台
*
船焼き捨てし
船長は
泳ぐかな 『蕗子』(一九五〇年)
形式面では、空白や一行空白を活用した視覚的造型性の多行形式をもちている。
次に六十五年の風景体験からを、七一年の飛騨行での風景体験を経ての「飛騨十句」の作品は以下のようなものがある。
飛驒の(ひだ)
美し朝霧(うましあさぎり)
朴葉焦がしの(ほほばこ)
みことかな
*
飛驒の(ひだ)
山門の(やまと)
考へ杉の(かんがへすぎ)
みことかな
*
飛驒の(ひだ)
闇速の泣き水車(やみはやのなきすゐしや)
依り姫の(よりひめ)
みことかな 「飛驒」『山海集』( )内ルビ (一九七六年)
このように変化を見せる。形式面では、空白や一行空白がなくなり、四行形式に固定され、ルビがふられている。内容面では象徴主義の影響からの西欧的なものより日本的なものへと転換している。形式および内容の両面にわたる大きな変化が生じている。
重信と風景の関係から重信の句業の移り変わりがどのようなものであるか。本稿では、これを探っていきたいと考える。