2025年7月11日金曜日

【連載】現代評論研究:第11回各論―テーマ:「秋」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

 2011年09月09日

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 小さな秋が来たあんたもブラックでいいか

 掲句は平成20年作の「層雲」所載の圭之介96歳の作品である。圭之介はコーヒーの抽出方法や豆にこだわりがあり、居宅を訪れた客に対しても常に自らコーヒーを選択、抽出をしてもてなしていた。私も圭之介居を訪問した際にそのような供応を受け、ブラックをお願いした記憶がある。小さな秋とブラックコーヒー、その対置は少し甘いが、なんとも散文詩的に軽やかに問いかけているではないか。そしてその口語自由律の表現の自在さがその最晩年(翌年に97歳で逝去)の融通無碍の境地にピッタリとはまっているように思える。文語定型ではその情景に接近しえない方法であろう。尚、圭之介の好きな画家はブラック、佐伯祐三、三岸節子などで、好きな音楽家はショパン、マーラー、ベートーベンなどであったそうである。安楽椅子に腰かけてレコードを聞きながら画集をひもといている姿が目に浮かぶ。因みに砂糖を加えないもののみをブラックとするのは、日本の用法であり、英語のblackとは単に乳製品を加えないことをいい、砂糖の有無は問わない由。

 熟れた木の実の中は克明に書いた手帖に似ている   昭和52

 黄色い並木に私が紛るそれだけのこと       昭和56年

 画家でもある圭之介が対象を観照しその本質を描けばこの様になるのであろう。デッサン風の前句からは、自然界の木の実の溢れるような生の緻密さと、克明に書いた手帖から人間の複雑な社会生活へと思いを至らせる事によって、生きるというある種の哀しさが導き出されているように思われる。後句は公孫樹並木であろうが、その眩いばかりの黄葉の輝きの中に埋没する自己、そして舞い散る木の葉にも隠されてしまうであろう存在の微小さ危うさからの自己省察が垣間見られる。

 きれいな肺が月を呼吸する            昭和42年

 食器重ね秋肺まで明るい             昭和53年

 篠原鳳作は「しんしんと肺碧きまで海の旅」と真昼の南の大海原を詠んだが、前句は夜の下関海峡での感慨であろう。鳳作の句に於いては海の青でも蒼でもない、碧が肺いっぱいに満ちてくる青春性に富んだ拡大する光景だが、圭之介の句に於いては老年に至った心身が月の微かな輝きに照らし合う如く、静かに肺が呼吸をし、焦点が絞られた点景となっている。そして「きれいな肺」とは健康であると共に、しみじみとした夜気に満たされていることでもあろう。後句は真っ白な食器が洗いあげられ、重ねられる時の爽やかな明るい響きが肺の中まで明るくするという印象派風の様相であり、真ん中に置かれた「秋」の一字が上句と下句の次元の転換点として上手く機能している。圭之介に於いては肺はものを見、ものを聞くものでもあったのだ。

 みちがなくて月ばかり              昭和50年

 山頭火ばりの六・五の短律句である。「て」は活用語の連用形につく助詞で、「ばかり」は体言の終止形につく助詞である。この様な一呼吸置いた二句一章的な手法は嘗ての「層雲」自由律俳句に頻出しており、所謂「層雲調」と呼ばれていた。それが良い意味でも悪い意味でも自由律俳句に辺境性をもたらした事は間違いない。

 圭之介にはこの他にも「月」の句が多くあり、抄出してみよう。

 月から顔をはなして承知してくれてゐる      昭和8年

 暮れずに壁 月になる              昭和19年

 月をかおに別れとうない             昭和22年

 砂丘、非具象の月が出ている           昭和37年

 呆然 砂丘あまねく月となる           昭和38年

 演技に体温なし 月浮かぶ            平成17年

 「月」はいつの時代もドラマ性を伴なってくるものらしい。

 

●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 まぼろしの狐あそべる花野かな 『冬濤』

 振向けば花野の虚空うしろにも 『冬濤』

 少女等の円陣花野より華麗 『冬濤』

 花野きてけものの如く耳を立つ 『冬濤』

 日と見しは月花野にて刻失ふ 『冬濤以後』

 霧が溶く花野の色の流れだす 『冬濤以後』

 死場所のなき身と思ふ花野きて 『冬濤以後』

 壺の花に花野の風の通ふらし 『花野』

 花野の日負ふさみしさは口にせず 『花野』

 きくのには花野の句が多い。

  生前最後の句集『冬濤以後』から没年までの19年間の作品をまとめた『花野』の編者西嶋あさ子氏によれば、「集名については『冬濤以後』の章名にも取られ、その後の特別作品にも使われていて、きくのさんに似つかわしいと思ってきめた」(編者あとがき)とある。続けて「きくのさんは、華やかで、さびしげで、かわいい面もお持ちであることは、作品が物語る」と続き、まさに光りと影の交錯する花野の人の像が結ばれる。

  掲句のまぼろしの狐は昭和38年、きくの57歳の作品である。

  きくのが疎開のため身を寄せていたのは、信州の小諸から一里半ばかりはいった浅間山麓の農村であった。信州には古くから「管狐(くだぎつね)」の伝承がある。広辞苑によると「通力を具え、これを使う一種の祈祷師がいて、竹管の中に入れて運ぶ」という。また、関東まで害が及ばなかったのは戸田川を越えられないためともいわれる。竹筒に収まるハツカネズミほどの小ささと、水を嫌うあまり勢力を広げない習性などを考えあわせると、なんとも可愛らしい狐の姿が浮かび上がる。もちろん、土地の者にしてみれば、「管持ち」「狐憑き」など、なにかにつけ身近に怖れられてきたのだろうが、おそらく他所から来ているきくのには、どこか可愛らしい狐の話しとして耳にしていたのではないかと思う。

 きらきらと日が射し、風にそよぐ一面の花野のなかでは、ものの影が自在に踊る。ざわめく風のなかで、ふと伝承の狐がきくのの胸に降りてきたのではないだろうか。

 管狐はたちまち75匹に増えるという。忌み嫌われている小さな狐たちを、せめてこの花野で遊ばせてあげたいというきくのの心が見せたファンタジーかもしれない。

 多く花野を詠んできたきくのの最後の花野は、昭和54年73歳の作品である。

 花野見にゆくだけの旅支度して 『花野』

 もう一度、まぼろしの狐に会うための旅でもあったのかもしれない。

 

●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 空は散るものに満ちたり菊膾

 掲句は、昭和49年作、句集『狩眼』(*1)所収。

  下五の〈菊膾〉が秋の季語。「菊膾(きくなます)」は、菊の花びらをさっと茹でて、三杯酢や芥子酢であえたものをいう。苦味の中のほんのりとした甘みとシャキシャキした歯ざわりを楽しむ料理である。食用菊には2品種があり、刺身のツマなどに用いられる黄色の「阿房宮」と、酢の物などに用いられる赤紫色の「延命楽(もってのほか、かきのもと)」が一般的である。料理の「菊膾」に用いられるのは後者で、「もってのほか」は山形県の特産である。

  筆者も以前、羽黒山の斎館を訪れた際に「もってのほか」を食したことがある。その時に居合わせた方の説明によると、芭蕉も食べた料理ということであったが、芭蕉が出羽三山を訪れたのは元禄2年(1689)の6月4日で、季節があわない。後で調べてみると、芭蕉が菊膾を食べたのは事実だが、場所は羽黒山ではなく、近江国(滋賀県)の堅田。時期は羽黒山を訪れた翌年の元禄3年9月のことであった。聞きようによっては、芭蕉が『おくのほそ道』の旅で、羽黒山を訪れた際に「菊膾」を食べたと思い込まないとも限らない。ものがものだけに、「もってのほか」と憤慨される方もいるかもしれないが、そこは観光客相手の営業トークと笑って済ませたい。

  芭蕉が堅田で詠んだ問題の菊膾の句は、〈蝶も来て酢を吸ふ菊の酢和(すあへ)哉〉である。「菊膾」の文字は詠み込まれていないのだが、『蕉翁句集草稿』には〈蝶も来て酢を吸ふ菊の膾哉〉という別案が収録されている。また、「酢和(すあへ)哉」の句の前書きには、「湖上堅田の何某木沅(ぼくげん)医師の兄の亭に招かれて、みづから茶を立て、酒をもてなされける。野菜八珍の中に菊花の鱠(なます)なほ香ばしければ」(*2)とあり、確かに芭蕉が「菊膾」を酒のさかなにして食したことが分かる。

  さて、ここまで、くどくどと「菊膾」の話をしたのには理由がある。歳時記の「菊膾」の項目をみるとたいてい芭蕉の〈蝶も来て〉の句が掲載されている。前書とあわせて考えれば、菊膾は酒とともに食膳にのぼるものであることが分かるだろう。菊と酒、すなわち九月九日の重陽の日に、菊の花を酒に浮かべて飲むと邪気を払い長寿になると信じられてきた慣習を下敷きにしているのだ。芭蕉の〈蝶も来て酢を吸ふ〉という句は、たまたま蝶がやってきて、菊膾の酢を吸ったという事柄を写しただけのものではない。余命いくばくもない秋の蝶が、延命を願って「菊の酒」を吸いに来たが、それは菊膾の酢だったよ、という哀れさと可笑しみがこの句の底に潜んでいるのである。そこを汲み取らなければ、この句の面白さは半減してしまう。「菊膾」の本意本情は、芭蕉のこの句が原型になっているのだ。

  そこで、あらためて玄の句をみていこう。

  〈散るもの〉に満ち溢れているのは、秋の空である。秋の空に〈散るもの〉といえば、真っ先に思い浮かぶのは、木の葉だが、言の葉、いのち、なども〈散るもの〉としてとらえられるだろう。ひとつのものが、ばらばらになって四方に飛び散る、あるいは、あたりにひろがって消えてゆくイメージが〈散るもの〉という語から感受できないだろうか。それは、まさに、いのちのかけらが秋の空に満ち溢れ、やがて消えてゆく情景でもある。そして、菊の花びらが湯の中に落ちて、身を翻らせて茹でられている光景にも重なる。長寿を願って食膳に出される〈菊膾〉を下五にすえたことで、〈空は散るものに満ちたり〉との取り合わせが鮮やかに見えてくる。命を終えて〈散るもの〉と命を永らえると信じられてきた〈菊膾〉との対比が秀抜である。いかに自己の思いを季語に託して象徴性をもたせられるか、との試みがうかがえて興味深い。〈菊膾〉には、ひとつのいのちは姿を変えて別のいのちにつながってゆく、という玄の生命観が象徴的に込められている。この句は季語の変革を志した玄のひとつの到達点といえる。芭蕉以来の「菊膾」という季語のもつ本意本情をみごとに更新させた秀句である。

*1  第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 今榮蔵 『芭蕉年譜大成 新装版』 平成17年 角川学芸出版刊 所引

 

●―5堀葦男の句/堺谷真人

 今生を柿のはらから照り合える

 『山姿水情』(1981年)所収の句。(ちなみにこの句は『朝空』(1984年)に再録の際、「今生を柿のはらから照り合へる」という風に表記が歴史的仮名づかいに改められている)

  農家の庭先であろうか。高く枝を張った柿の大木に実が鈴なりに成っている。はち切れんばかりに熟した柿の実はどれもつやつやと美しい。折から落日の光を受けて何十何百という柿が一斉に照り輝くさまは、さながら今生の中の今という一瞬をともに懸命に生きている兄弟姉妹のようだ。

  葦男は不幸にして兄弟との縁が薄かった。自身が26歳のときに兄・進の病歿に逢い、28歳のときには弟・治がサイパン島で戦死を遂げている。特に、太平洋戦争屈指の激戦地で落命した治に対しては、晩年に至るまで、生き残った者としての後ろめたさや自責の念を抱えていた形跡がある。現代の精神医学の立場からすれば、葦男こそがグリーフ・ケアの対象者たるべきであった。が、戦中派の常識ではそうではなかったのである。

 いくさ経て愚兄われのみ盆の酒 『山姿水情』

  この句には「戦後三十四年」という前書きがある。1979年の作である。気がつけば、戦後まるまる一世代に相当する時間を「生き延びてしまった」との感慨、その時間を余命・余生と観ずる姿勢は、1980年に上梓された『残山剰水』の集名からも看守できる。

  ビールで別れ弟は神サイパン忌 『過客』

  1944年7月7日、サイパン島の日本軍守備隊は全滅した。出征の壮行会でビールを注ぎあったのが今生の別れとなり、弟は若くして靖国神社に祀られる存在となってしまった。弟よ、どうして神になどなった。倶に白頭を戴き、美酒を酌み交わしながら来し方のあれこれを語り合うような人生もあり得たのではないのか。

  かつぎ出す案山子や誰の学生帽 『過客』

  新たに作った案山子が稲田にかつぎ出される。見ると学生帽を被っている。一体誰の帽子であろう。『一粒句集』第30集(1993年)所収の葦男自選作品にも見える句であるが、前年の秋、一粒(いちりゅう)句会の席上で葦男がこの句の名のりをした時のことを筆者ははっきりと憶えている。

  詠まれているのは秋の収穫シーズンの他愛ない悪戯である。現に作者である葦男本人も簡単にそのようなコメントをした。だが、そのとき筆者はこの学生帽がなぜか葦男の戦死した弟の遺品のような気がしてならなかったのである。そして、学生帽を案山子に被らせるという行為に度を越えた悪ふざけを感じ、これは戦死者への冒瀆ではあるまいかとまで思ったのであった。

  しかし、葦男逝去の後、時間を置いてこの句を読み返しているうちに、思いがけなくも全く異なる読みが浮かんで来た。つまり案山子は憑り代であり、学生帽を被らせることで特定の死者の霊魂をそこに呼び下ろすことができる招魂の装置なのかもしれないと。もしそうだとしたら、はるか故国を離れた地で非命に斃れた人々の霊魂は、年年歳歳、実りの秋に懐かしい祖国に帰って来ることができることになる。

  冒頭の句にもどろう。「柿のはらから」というフレーズがすっと出てくる背景には葦男と亡き兄弟たちとの数十年に亘る対話の蓄積がしっかりと活かされているのだ。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 落日にケロケロ笑ふ曼珠沙華   日野晏子

 「日野晏子遺句集」(平成7年10月刊、以下『遺句集』と表記)昭和三十一年~昭和三十九年の章に所収、初出は今のところ未確認。

  「落日」から放たれるオレンジ色の眩しさと一群の「曼珠沙華」が連ねる花びらの赤の鮮やかさ、この取り合わせが一句にもたらすのは過剰なまでにまばゆい光と鮮やかな色彩とが激しくぶつかり合う空間である。このぶつかり合いを目の当たりにするとき、「落日」と「曼珠沙華」の間にあるはずの余白は、光と色彩の前に塗りつぶされてしまったかのごとく存在を消されてしまっている、まるで他の命あるものすべての存在を消し去ってしまうかのように。この空間に響きわたる「ケロケロ」という笑い声、「曼珠沙華」の一群から次々と放たれる笑い声は「落日」の眩しさを浴びることでますます響きは鋭さを増し、その切っ先はこの空間すべてのあらゆる存在に向けられる、もちろんこのような生きとし生けるもののたたずめる余白のない空間を呼び出してしまった己の存在に対しても、である。だからいくら耳を塞いだところで、自らの生をあざ笑っているかのように「ケロケロ」との響きはこの一句の空間に響きわたっているのである。だが「ケロケロ」の嘲笑の響きなくして「落日」と「曼珠沙華」がもたらす空間は、生死のはかなさへ対する漠然たる叙情に包まれたものにとどまっていただろうことも間違いない。作者である晏子はこの一句の空間に「ケロケロ」という響きを取り込むことを決してためらわなかった、そうすることによって「落日」の眩しい光と「曼珠沙華」の鮮やかな色彩に塗りつぶされた空間にひとりたたずまねばならない自らをあざ笑うかのように。

  さて、わたなべじゅんこ氏は著書「俳句の森の迷子かな 俳句史再発見」(2009年11月 創風社出版)の晏子を取り上げた一文の中で、掲出句について「さすがの私もついていけない。どうしてこんな句ができたのだろう。気になる。」と戸惑いを露わにしているが、その戸惑いについては、ここまでなんとか鑑賞してきた私自身も大いに頷かされた点で、なにしろただでさえオノマトペを一句に取り扱うのは難しい上に現れたのが普段でもめったに登場しない「ケロケロ」なのだから、戸惑いが生じるのも無理からぬところであろうか。その上でわたなべ氏は晏子の作品への印象について(ここでは掲出句を含めたアンソロジーを読んでのもの)、「夫の楽しみのためという、どちらかと言えば消極的な理由で始めた俳句であったせいか、あまり上達しようとの意志を感じられないように思う」と述べているが、この点については晏子俳句のウィークポイントとして頷ける部分がある一方で、「上達しようとの意志を感じられない」という指摘にはどこか頷けないものも感じられる。「上達しよう」との意志は草城の死後に夫への思慕をモチーフとして作り続けた晏子にとっては欠かせないものであったはずだし、「草城の妻」としての誇りもあったであろうからだ。ただ俳句を作り続けようとする彼女の前に広がっているのは、自分の俳句の「上達」を認めてくれる存在であった夫、日野草城がいない日々なのである。

  掲出の一句に戻ると、一句の全体に高らかに響きわたる「ケロケロ」という笑い声は確かにわたなべ氏ならずとも大いに「気になる」のだが、この戸惑いはもしかしたら一句を作った晏子本人にもずっと存在していたのかもしれない、もし草城ならはっきりと読み解いてくれたかもしれないとの思いとともに。でも当然のことながらこの一句が出来たときに晏子の前に草城はいない。「落日」の眩しい光と「曼珠沙華」の鮮やかな色彩を共に喜んでくれる者の不在を思い知らされるとき、「ケロケロ」という響きは曼珠沙華からの笑い声ではなく、自分自身の嘆きの響きとして現れてきたのかもしれない。果たして「ケロケロ」「ケロケロ」と響いているのは、時を経てもなおも続く晏子の慟哭なのだろうか。その問いに応えようにも、この一句の空間は眩しすぎる光と鮮やかすぎる色彩と、耳障りにも程のある不思議な響きとに包まれて、あまりにも余白が少なすぎるのである。

 

●―9上田五千石の句/しなだしん

 これ以上澄みなば水の傷つかむ    五千石

  第三句集『風景』所収。昭和五十五年作。

 『風景』(*1 )は、昭和五十三年より昭和五十七年まで、四十五歳から四十九歳までの作品326句を収録する第三句集。

     *

  前回、五千石は俳人協会新人賞受賞後スランプに陥り、その後山歩きをはじめ、徐々にスランプを克服してゆき、昭和五十年には主宰誌「畦」を創刊したことは書いた。

  第二句集『森林』の収録句数が254であるのに対し、第三句集『風景』は326句を収録しており、「畦」の発表句を含め、落ちついた作句活動を安定的にしていた時期といえるかもしれない。

     *

  掲句は「澄みなば水の」と季語を崩して使っており、順接の仮定条件の形で「水澄む」が出来あがっている。いかにも五千石らしい、ナイーブな感情をものに託してストレートに詠った、五千石の代表句のひとつである。

     *

  ところで、『風景』のこの句の前に置かれた句は

 紅葉照る双つ泉を姉妹とも      五千石

 であり、この句には「北軽井沢 二句」と前書きがある。つまり、掲出の「これ以上」の句も、北軽井沢で詠まれたものということになる。

  また「畦」昭和五十五年十一月号には、同じく「北軽井沢」と前書きの、次の句が残る。

  水の脉闇にひびかし冬そこに      五千石

  これらのことから、北軽井沢の紅葉の頃、おそらくは十月後半頃の、双子の泉か沼や池での作と推察できる。「水澄む」の季語の季感は九月というのが一般的かと思うが、十月の、冬を間近に感じる頃の写生と思うと、「これ以上」澄めば、という措辞も大いに頷けるところである。

     *

  なお、北軽井沢付近の双子の泉、または池や沼を探してみたがどうも見つからない。佐久市の西側、八ヶ岳湖沼群に「双子池」というのが見つかったが、北軽井沢からは離れすぎというのは否めない。やはり北軽井沢辺りに姉妹のような、名も無い小さな泉が存在するのかもしれない。

  ともかくも、「水澄む」の句として口ずさみ続けたい一句である。

 *1 『風景』 昭和五十七年十月二十五日 牧羊社刊

 

●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 黄落や滅び行くものみな美し

  類想句がいくらでもありそうな気がしたが、思い出せなかった。むしろ短歌にその1つのフレーズが似ているものがあったが。類想句がありそうというのは、普通は作家の独創性を否定することになるのだが、しかし、世界で初めてこの句に出会ったときの感動は計り知れないものがあるような気がする。短いフレーズの中で、自分の思いを120パーセント言い切ってくれたら、それが独創であろうと、類想があろうと構いはしないのだ。だからそれはちょっと宗教の言葉に似ている。最も古い「モットー」とされる「祈りかつ働け」(Ora et labora)はベネディクト会のものだが、この言葉の荘重さは独創から来ているのではなくて、普遍性によるものであろう。英王室の紋章にある「思い邪なるものに災いあれ」(Honi soit qui mal y pense)もそうだ。憲吉のこの句もそうした荘重さを伴っているようである。

  『方壺集』、昭和59年11月の作品から抜いた。憲吉晩年の作品といってよいから、憲吉の気分の中にこうした思いが生まれていたとしてもおかしくない。軽佻浮薄な人間が吐く、意外に重い言葉に我々は感動する、文学は宗教でないからである。いや、真の宗教は、宗教に反するところから生まれるべきだからであろうか。

     *

  詩歌の中で、「美し」などという主情的言葉を使うのは初心者のすることだという批判もあるようだが、「美し」を乱用してまさに成功を収めたのは、客観写生を唱えていたホトトギス派であった。

 手毬唄かなしきことをうつくしく 高濱虚子

 炎上の美しかりしことを思ふ   高野素十

 人の世にかく美しかりし月ありし 星野立子

  美しいものを素直に美しいといって美しく感じさせるには、かなり逆説的処方を駆使しなければならない。ホトトギス派は「客観写生」という主情を排するドグマを持っていたから、こうした逆説を十分駆使することが出来た。憲吉はどうであったろう。ホトトギス派とは違って、意外に爛れたような生活から神を求めるような信仰心がほんの一瞬、刹那のようにわいたと思えなくもない。日本で愛されていて本国では忘れかけているフランスの小説家シャルル・ルイ・フィリップ(『朝のコント』の著者)は臨終にこういった。「ちくしょう、なんて美しいんだ!」。極めて俗ぽい言い方だが、上の句の心情に通じるであろう。

 

●―12三橋敏雄/北川美美

 淋しさに二通りあり秋の暮

 秋は夕暮れ。「秋の暮」は、日本人の美意識の根源ともいえる壮大な季題である。

  格調高い三夕(さんせき)といわれる「秋の夕暮れ」の歌(*1)が収められた『古今集』(平安初期)では、時間とともに物がうつろう「悲しさ」を秋の夕暮れに詠んだ。そして『後拾遺集』(平安中期)以降には、

さびしさに宿を立ちいでてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ 良暹『後拾遺集・秋上』

秋はただ今日ばかりぞとながむれば夕暮れにさへなりにけるかな 源賢『後拾遺集・秋下』

 と、秋に淋しさを強く感じる歌がみられるようになる。そこに「無常」「幽玄」という美意識が後に加わっていき、日本人はなんと高貴な民族であることかと、千年もの昔がありがたい。

  「わびしい」「さびしい」という感傷から発展した「侘(わび)」「寂(さび)」は利休・紹鷗により美意識に。さらに江戸・蕉風俳諧では創作理念の骨格となり、貧窮・失意に精神的余情美の深まりを求めたのである。ちっぽけでみすぼらしいものに美しさを詠んだ。

 此道や行く人なしに秋の暮 芭蕉

 去年より又淋しいぞ秋の暮 蕪村

  ちなみに「淋」に「さびしさ」の意があるのは独特の用法で常用漢字は「寂」のみ。俳句では「淋しい」という表記が好まれるようだ。

  とにかく「秋の暮」は古くから悲しく淋しい伝承の季題である。

  此頃はどうやら悲し秋のくれ 子規

  新興俳句弾圧以降、敏雄は、師である白泉、そして青鞋とともに古俳句研究に興じた。白泉を顧みて敏雄は「常に俳句形式の成果を歴史的に見通してみずからの表現力の進展をはかろうとする、かねてよりの思いに従ったまでであったと思う。」(「俳句とエッセイ」昭和58年)と語っている。

  白泉の「秋の暮」を引いてみよう。

 向ひ合ふ二つの坂や秋の暮 白泉

 谷底の空なき水の秋の暮

 そして敏雄自身も先人へ挑むような「秋の暮」の句を詠んだ。

 木の下に下駄脱いである秋の暮 『青の中』

 縄と縄つなぎ持ち去る秋の暮  『まぼろしの鱶』

 秋の暮柱時計の内部まで

 石塀を三度曲がれば秋の暮  『眞神』

 先人みな近隣に存す秋の暮  『疊の上

 あやまちはくりかへします秋の暮  『疊の上』

 上掲句、「淋しさに二通り」の句が作られたのは、1982(昭和57)年。『疊の上』に収録。同年に『淋しいのはお前だけじゃない』(西田敏行主演)という人情ドラマが人気だった。戦後の復興を遂げ、物が溢れ、豊かになったはず国が、どこか「淋しい」。人は我武者羅に生きながら、「淋しい」という言葉に、あぁ淋しいと気が付かされた。

  歌詞に「淋しい」「不幸」という言葉が多用される、かの阿久悠の1993年のコメントに、「歌が一番大事なのは、こんな不幸な目にあって悲しいということではなくて、不幸のちょっと手前のね、切ない部分がどう書けるかということが、僕は一番大切なことだと思っているんですよ。」というのがある(*2)。「淋しさ」という言葉が、人の心を動かし、豊かで便利な世の中が、少し淋しいこと、ということに人々は気づき始めていた。日本人のDNAの中に「淋しいことは美しいこと」という螺旋が組み込まれているのかもしれない。

  その「淋しさに二通り」とは、相反する二つの「淋しさ」のことと解する。「理由のある淋しさ」「理由のない淋しさ」、「ひとりでいる淋しさ」「人といる淋しさ」、「お金のない淋しさ」「お金のある淋しさ」だろうか。秋の淋しさを突き詰め、うつろいゆく人の心に世の無常観を詠んだと解釈する。

  「あやまちはくりかへします」の句は、掲句の二年後、1984(昭和59)年に作られた。「あやまちはくりかへしませぬから」と論争に発展した原爆慰霊碑の言葉を連想する。うつろいゆく秋に、あやまちはいつか繰り返されるかもしれないという、これも世の無常観がみえる。「秋の暮の淋しさ」を研究し、無常の世を見てきた人の句である。

  現在の日本に「清貧」という言葉が再び価値ある言葉として扱われている。諸行無常。「秋の暮」に凝縮された日本の情緒が伝わる。敏雄の句を通し、無常ということについて想う2011年の秋の夜である。

 

*1)三夕(せんせき)の名歌 『古今集』

  さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮

 心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行

 見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 定家

*2)阿久悠の歌詞には確かに、「さびしく微笑み…(ラストシーン)」「私はなぜかブルーさびしい…(ギャル)」「おまえさん雨だよ、さびしいよ…(おまえさん)」など、「さびしい」が頻繁に登場する。

  

●ー13成田千空の句/深谷義紀

 新藁を焼くはふるさと焼くごとし  『忘年』

 多かれ少なかれ、どの俳人についても言えることだろうが、千空の句集を紐解くと採り上げる季題が時代とともに変化していくのが分る。なかでも顕著な変化を示すのが農業関連の季題であり、時代が下るにつれて急速に減少していく。これは、終戦後の一時期帰農生活を送っていた千空がその後離農したという個人的事情に加え、季語となっていた田園風景あるいは農作業が消滅していったという社会的環境の変化も影響しているのであろう。

  それでも晩年に至るまで千空の創作意欲を刺激した、農業関連の季題がいくつかある。掲出句もそうした作品のひとつであり、収穫後の藁焼きが作品の対象となっている。

  農作業の目的は、なんと言っても対象作物の収穫にある。とりわけ米の場合は主食であり、その実りが多ければ豊作を祝い、少なければ凶作、すなわち生存の危機に直面することになる。一方、藁自体はあくまで副産物に過ぎない。もちろん、かつてはそれなりの用途があり、俵の材料にしたり、馬小屋や牛舎に敷き詰めたりもしたが、所詮主役にはなりえない。しかし、そうした即物的あるいは経済的観点を超えて、新藁には一年間の農作業にまつわる様々な思いが凝縮されている。こう記すと、如何にも季題趣味だとの叱責が聞こえてきそうだが、それが実際の職業体験や生活感覚を結実させたものであれば、風雅を愛でるだけの季題趣味とは一線を画したものになる筈である。

  新藁を焼くのは、千空の居住する五所川原近辺でよく見られる風景だ。かつては稲刈りを終えた後に急いで藁を焼き、男たちは出稼ぎに旅立っていった。本来ならば新藁は田に漉き込んで地味を整えるのがよいが、手間もかかるため専ら焼かれて処分されていたと聞く(現在では煙害として各地で条例による規制が行われている)。一年を通した農作業を終えて藁を焼く農家の男たち(そして女たち)の胸には、どのような感慨が去来しているのだろうか。

 かつて千空は次のような作品をものしている。

 藁焼きの胸のうつろを思ふべし  『人日』

  一つの仕事を終えた安堵感と裏腹の寂寥あるいは虚無感だろう。

  さらに千空は、その煙の中に家族や仲間の姿を認めた。

 焚き添へてふくらむ藁火遠い母   『地霊』

  千空にとって新藁は、こうした思いを包含する故郷の象徴であり、その存在の一部なのである。


●ー14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】23.24./吉村毬子

2014年3月7日

23 羽が降る嘆きつつ樹に登るとき

 何の羽であろう。翅ではなく羽であるから、鳥の羽であろうか。羽を持つ神のものだろうか。人は嘆きつつ天を仰ぐ。嘆きつつそれでも上昇しようと、天へ近付こうと樹を登る。平坦な地を緩やかに歩いて行く幸せに浸ることよりも、譬え険しい道であっても登りつめたいと喘ぐ時がある。

 しかし、もうすでに地が温かく安らかな道でなくなった時、人は樹に登ろうとするのかも知れない。誰も助けてはくれない、たった一人のその痛みに耐え続け、荒地を踏みしめ幾度も転倒しながら、「嘆きつつ樹に登るとき」、柔らかく静かに「羽が降る」のである。

 真っ青な空から羽の降りくるその静謐な時。その羽は嘆いている者を労わるように、優しく包むように肌に触れる。長い旅路の渡り鳥たちの苦悩と戦いに抜け落ちた羽を、痛みを知る者へ風が運び来ることもあろう。

 抜け落ちた羽であっても、羽は飛ぶ為のものである。嘆きつつも樹に登る者へ、昇り、飛翔する為の羽を与える。それは、樹の天辺へ登りつめたなら、自由な空の世界を羽撃きなさいという暗示とも理解できる。しかし、空への上昇、羽撃きは、昇天にも価する。苦しみから解き放たれた、嘆かなくともよい自由な空間へと救われるという意味も包含する。

 富澤赤黄男に次の句がある。

  羽が降る 春の半島 羽が降る   赤黄男『蛇の笛』

 苑子の句は、「嘆きつつ」と率直な表現で詠っているが、困頓とした終戦後の闇の中の赤黄男は、「嘆く」ことも、「樹に登る」こともせず、もはや降り続く「羽」を遥かな春の半島で見詰めているしかなかったのかも知れない。

 だが、羽、樹木の色彩感溢れる瑞々しさと清々しさは「嘆きつつ」がなければ、その存在感が迫ってはこないのである。

 第1章【遠景】とはまた異なる第2章【回帰】も美しき寂寞の句より始まるのである。


24 落鳥やのちの思いに手が見えて

 「落鳥」とは、鳥が死ぬことである。鳥は、飛ぶことが生を意味するのであるから、落ちる=死ぬとは頷ける。1970年代のベストセラー小説の『かもめのジョナサン』(リチャード・バック)を思い出す。少女時代に父の愛読書の中から盗み読みしてから今でも好きな物語である。主人公の鷗、ジョナサンは、飛ぶ行為自体、即ち速く飛ぶことだけに価値を見出し、餌を採るために飛ぶ他の鷗たちから異端扱いされ、群れを追放されてしまう。それでもジョナサンは、飛び続け、もはや飛行とは違うより高い次元へと向かって行くのである。

 揚句の中七下五「のちの思ひに手が見えて」とは如何なる解釈ができるのか。「や」の切れ字を置いても鳥が死んだことへの「のちの思ひ」なのであろう。推理小説のように後から落鳥の原因を探っていけば、その手法が(例えば、誰かが括ったとか・・・)明らかになったということにもなる。が、死後の思考の内に死ぬこと自体が手法であったのか、と思いあたったとも取れる。自死という手法である。その場合、「落鳥」は、鳥の自死というよりも、隠喩になるのであるが・・・。

 しかし、一句目「羽が降る嘆きつつ樹に登るとき」とこの句との並列には、仏教の六道、(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を想起させるものがある。嘆きつつ樹に登った人間が羽を得て、鳥(天)に姿を変えた後、地(地獄)に落ち、餓鬼・畜生・修羅を経て、また人となったのではないかと私には思えてくるのだ。

 果たして、前掲のジョナサンは落鳥に至ったのか、否や、永遠に違う空(天)を飛び続けているのではないか。

 この面妖な句も『水妖詩館』第2章の始まりを飾るに相応しい一句である。