2025年7月25日金曜日

【緊急】辻桃子はなぜ大浴場に泳いだか?   筑紫磐井

  令和7年6月11日に辻桃子が亡くなった。自己紹介によると、「曲水」の作家に18歳で手ほどきを受けたのが最初であった。後に楠本憲吉と出合い勧められて「青玄」に入り坪内稔典や攝津よしこと轡を並べ、後に楠本の「野の会」の創刊同人となった。しかし、阿部完市や高柳重信から絶望的な助言(「野の会」にいたら君は駄目になる)を受け、飯名陽子に勧められ「鷹」に入会したのだという。

 余り経歴を詳しく述べてもしょうがないので、端的に結論に移ろう。こんな桃子を代表する句といったら誰しもまず、

 虚子の忌の大浴場に泳ぐなり

を思い出すであろう。奇しくも桃子の亡くなった直後に届いた、最も新しい自選句集『白桃抄』(7年6月20日付)は数ある桃子の句集を精選したものであるが、その冒頭にはこの句が掲げられている。辻桃子の生涯を代表する句と辻自身も認めていたことはこれからもよくわかるであろう。

 しかしこの句は曰く因縁がある。この句は、「鷹」の新人賞を受賞した作品群の中にあり、無名の新人賞作品でありながら、多くの俳人に早くから高い評価を受けていた。


「「虚子の忌・・」なんて、あたしびっくりっしちゃたんです。こんなことを言い出そうとは、ちょっと思いませんでしたので。」(「新人賞選考座談会」飯島晴子・鷹57年)

「虚子とは一面識もないうら若き(?)女性。私には残念ながらこれといって虚子忌の句がないだけに、正直いってこの句には驚いた。鎌倉から二重丸がついて戻ってくる一句と思う。」(波多野爽波・毎日新聞58年)


 実はこの句は、「鷹」の上諏訪吟行会(56年6月6日~7日)で詠まれた句である。当時「鷹」は我々から見ても最盛期であり、飯島晴子、高野途上、永島靖子、いさ桜子、酒井鱒吉、大庭紫蓬、後藤綾子、四谷龍、冬野虹、宮坂静生、鳥海むねき、石田よし宏、小澤實、宮脇真彦らの錚々たる顔ぶれの229名が参加したという。こんな盛大な吟行会は聞いたことがない。そんな中、夜中の2時、温泉の大浴場で独り泳いでいたのが桃子だった。こうした状況の中で生まれた句であったのである。

 翌日の句会で、この句は飯島晴子の特選を得た。「新人賞選考座談会」で飯島晴子が激賞したのもこうした経緯があったからだ。しかし、当日の湘子の選には入らなかった。並選でとられたのは、

 青嵐愛して鍋を歪ませる

の方だった。

 この吟行会での成果を引っ提げて、会員投句の「鷹集」56年8月号で桃子は巻頭を取る。しかし、湘子は「今月の30句」で取り上げたのは「青嵐」の句の方であった。巻末の「選後独断」でも取り上げていない。飯島晴子が取り上げた「新人賞選考座談会」でも、湘子は「虚子の忌の」の句は取り上げていない。湘子は引っかかるものがあったのだろう。

 3年後、桃子は鷹賞を受賞して、第1句集『桃』を牧羊社から刊行するのだが、この時の序文にあたる「辻桃子について」で、湘子は一連の流れの中で新人賞作品を触れて「虚子の忌の」の句を掲げているが、必ずしも熱のこもった紹介の仕方ではないのである。どうやら湘子は釈然としていないのではないかと思う。

 では、桃子自身はどうであったのか。巻頭作家には、2か月後に「巻頭作家登場」が割り当てられるのだが、桃子は「虚子の忌の」句だけを取り上げている。

 この句ができるに当たっての、飯名陽子(現遠山)、飯倉八重子(桃子が「虚子の忌の」句で巻頭を取る直前に亡くなってしまった)、飯島晴子との緊密な関係も感動的だが、最後に桃子はこんな述懐をしている。

「湘子は、「愛されずして沖遠く泳ぐなり」と、はるかな沖を泳いでいる。私もやっと金魚鉢から大浴場へ出て来た。いつか海へ出て波打ち際のあたりで泳いでみたいと思っている。」(鷹56年10月)

 そうか、「虚子の忌の」の句は「愛されずして」の句を思いながら詠んだのか。湘子に憧れる俳句であったのだ。しかし、湘子には愛されなかった。考えると、湘子の「愛されずして」も秋櫻子へ憧れる俳句であったのだ。しかし、湘子も秋櫻子に愛されなかった。師弟のこんな一方的な関係は、ボタンの掛け違いのようによくある事なのだろう。