鴇田智哉(ときたともや)さんは、2009年に大変な話題となった新人発掘のアンソロジー『新撰21』のひとりで私も御一緒させていただいた。俳人としての作品の面白みが定評だったと記憶している。
この本句集『凧と円柱』は、第6回 田中裕明賞(2015年)受賞作品。
その帯文より。
この句集はいわば、心の編年体による。(あとがき)
編年体(へんねんたい)とは、「史実の展開や人物の事績を時を追って記す年代記であり、歴史叙述の形式としてはもっとも伝統的、かつ普遍的なもの。」のこと。
俳人・鴇田智哉さんの俳句は、自らの感性を見い出していく丁寧な生きた証だ。
俳句らしさというよりも鴇田智哉という感性のダイヤモンドを発掘している。
それは、鴇田智哉の軌跡、人生の足跡でもある。
うすぐらいバスは鯨を食べにゆく
薄暗いバスは排水口のような夕日に吸い込まれていく。
そんなバスの席か吊り皮に揺られながら酒の席へ向かう途中なのだろう。
わくわくしながら今日の宴の鯨を想像して胸の海原を躍らせている。
いちじくを食べた子供の匂ひとか
果実のようにぶら下がる子どもは、なにやら今日は無花果(いちじく)の匂いがするとか。
日々の子どもとの距離とか俳句の日記には、創作も記憶のダイヤリーも自由奔放に見出されていく。
日陰からおたまじやくしの溢れくる
日陰でないと干からびてしまうほど自然は誕生も死もシビアに選択されていく。観察眼の裏打ちされた俳句が土台にあり、そこから鴇田智哉の感性のダイヤモンドが見い出されている。それは、1句1句の良し悪しではなく鴇田智哉さんの生きる道程に印された俳句の足跡なのである。生きものの生死のように丁寧に生きる己の感性の化け物を見い出している。
黄揚羽の刻み込まれてゐる林
黄揚羽が林に刻み込まれていると感受する詩眼は、この日々の己の感性の化け物を丁寧に記していこうとする鍛錬の賜物だ。
水ぬるむ腕に金具が嵌めてある
洗顔のためか。腕時計を外しているのだが、水温むの季語も活かされつつ現代感覚の丁寧な日常の所作に詩眼を見い出していく鴇田智哉の感性には、瞠目させられしっぱなしである。
人参を並べておけば分かるなり
人参を並べておけばわかるだろうか。市場や村の無人販売などの人参には、本当は、「それぞれに人のルートがあるのよっ」て市場んちゅは云う。人のルートって?「それぞれお客さんがね。通る道があるのよ。」無人販売で何なにのバッチャマ、ジッチャマの顔が浮かぶ。そんな丁寧な生き方を現代人は、忘れがちで丁寧に生きることさえ忘れがちだ。
前触れが葱の花よりただよへり
塊として菜の花にうづくまる
まつくらな家にとんぼの呑み込まる
前触れを感受する丁寧さは、私は自戒を込めて丁寧に生きるのを連呼する。その前触れを感受すべき詩眼のアンテナを広げたい。葱の花や菜の花、蜻蛉を鴇田智哉さんの人生は、どのように俳句化されているのか。その記録でもあり記憶でもある鴇田智哉の人生がこの句集の此処には、確かに在るのだ。
さはやかに人のかたちにくり抜かる
最後の句は、私なりに鑑賞してみるとアイスクリームのスプーンにくり抜かれる人のかたちが表出していると捉えてみた。そんな面白みが楽しい。
鴇田智哉の俳句日記は、描く。
それらの俳句たちは、鴇田智哉に棲む感性の化け物の目撃者なのだ。
松尾芭蕉の旅を書に綴るように今後も鴇田智哉の句集に潜む感性の化け物がどのように詩眼を開花させていくのか楽しみにしている。
下記も共鳴句をいただきます。
かまきりの眼のそらに面したる
どこまでの木目のつづく春の家
三つほど悪い茸の出てゐたる
マフラーのとけて水かげろふの街
囀の奥へと腕を引つぱらる
いつぽんの秋刀魚ののびてゐる光
こほろぎの声と写真にをさまりぬ
はだいろのとけこんでゐる竹の春
息をのむエレベーターといふあそび