2025年7月25日金曜日

【新連載】新現代評論研究:各論(第9回):後藤よしみ、佐藤りえ

 ★―3「高柳重信の風景 」5  後藤よしみ

 2 敗戦下の封印と西欧主義者

 重信の敗戦当時の様子は、敗戦時の虚脱感の蔓延から魂の彷徨が見られたという。  

〈十月、福寿院本堂にて勤皇文庫『保健大記』『中興鑑言』を筆写、亡国を嘆ず。なお時期不明なるも、憂国の情を発し「群」にいた小崎均一等とある種の行動を企画したと推定される。これは志においては、後の三島由紀夫の自刎事件の情 と相似したものであった〉。(「略年譜」『高柳重信全句集』) 

 敗戦時に「自決殉難」した者は五二七人にのぼったという(影山正治『日本民族派の運動』)が、重信らの行動も当時のこのような動きに類したものと推測できる。これは、敗戦前の皇国史観などによる愛国の心情からの行動と思われる。しかし、その一方では、たとえ漠然としてではあっても、何ものかへの期待感と情熱がしきりに掻き立てられていったという。 

 敗戦直後より、社会全体の戦前との反転が見られ、戦前の社会思潮は日本的なるものも含め否定されるようになる。再刊の「群」の創刊号にも重信の次のような勤王俳句が掲載されていた。 

   梅雨嵐勤王のこと世にすたり   『前略十年』  

 この「群」がGHQの検閲の目に留まり、出頭命令を受け、重信も憂慮したものの検閲の網にはかからずに済んでいる。その時期の検閲を保守的な伝統的な面にきびしいと重信はとらえており、俳壇での保守伝統派の状況をどことなく怯んだように受け取っている。この戦前下に劣らぬ占領軍の検閲が大きな壁としてあったと言えよう。重信自身もその作風を見つめ直すことになるが、日本的なるものを内面にひそめておこうとするならば、より身近であった象徴主義の下が受け入れやすく、また急激な変化も可能であったろうと思われる。

 その変転の重要な足掛かりとなったのは、桑原武夫が「第二芸術―現代俳句について―」をあらわしたことへの反論となる「敗北の詩」であった。これは、戦前からの時代思潮、とりわけ皇国史観に根差した日本的なるもの、そして当時彼の中に萌芽しつつあった象徴主義的な傾向をも一度否定し、その上に新たな自己を築くことを意味する。つまり、俳句否定論に対して捨て身の自己否定から立ち上がろうとしたと言えるだろう。俳壇が「第二芸術」論の反論により沸き立つなかで、重信は「敗北の詩」をあらわす。 そこでは、俳句否定論を受けて、「俳句という詩型の特殊性を追求」している。そして、「小説・詩・俳句が、それぞれに持っている形式の危険の度合の最上級に、この俳句があることは事実であろう」と述べている。 

 〈いちばん重大な問題は、時代の流行に逆行する俳句文学そのもの、いわば反社会性、ならびに、敢えてそのジャンルを選択した俳句作家の反社会性を、如何に明確に、正直に自覚するかにかかっていると思う。僕は、そうした多分に反社会的な、あるいは超越的な立場を明らかにすることによって、人間の進歩を信仰する合理的な評論家たちに、大きく開き直りながら、ここに一つの特殊で偏屈なジャンルを主張したいと思う〉。(「敗北の詩」『高柳重信全集Ⅲ』) 

  また、一方で重信の読書対象ではエドガー・アラン・ポーの詩論を、また右記のリラダンおよびヴァレリーを愛読している。ポーはフランス象徴主義の父であり、マラルメらに影響を与え、リラダンはマラルメの交友相手である。ヴァレリーはマラルメのサロンである火曜会に参加していた。重信がマラルメに心を寄せていたことの証は、マラルメとの交流の場として「火曜会」が持たれていたのに対し、重信が「火曜会」を催して句会を行ない、『火曜句集』を編み、そして家業として起こした印刷業の会社名を「火曜印刷所」としていることからも明らかであろう。

 そして、マラルメの「影像の連鎖の方法」などを取り入れて、暗喩を用いてゆく(川名大『昭和俳句史』)が、重信の方法は「心象を積み重ねて、最後に一つの作品全体の心象を形づくる」ものである。ここには、以前からの連想に秀でた重信の特徴があらわれている。このようにして急速に西欧化と言えるようなフランス文学をはじめとして象徴主義などを受容していったと言えよう。

 大戦下の病床では皇国史観の書物をひも解き、敗戦後の病床には大宮伯爵があらわれて象徴主義の世界へと誘っていったのである。


★―5清水径子論7    佐藤りえ

 体温の中の雪の戸たたかるる

 引き続き『鶸』より。初出は「氷海」昭和29年4月号「体温のなかに雪の戸叩かるゝ」。「体温の中の雪の戸」は冬の寝覚めの布団のなか、朦朧としながら誰何の音を聞いている景だろうか。感覚的な捉え方、結句をひらがなとしたことで、ぼんやりした余韻がより強調されている。

 「氷海」の同じ号で小宮山遠が清水径子論を書いている。径子について叙情性と知性双方を持ち合わせつつ、絶えず「焦慮」をかさね、俳壇という男の世界を生き抜こうとしている、と分析した後曰く、

かゝる孤独や憤怒に依って形作られていった径子の作風は徹頭徹尾「気まじめな」表情である。ぼくは径子の作品からわらひ・・・の声を聞いたことがない。(「清水径子小論」小宮山遠)

 小宮山は同時期「天狼」昭和29年9月号にも「氷海のひとびと」として同人14名の簡単な紹介記事を書いている。径子は三番手で「主知的な作風の持主で、日常の生活を虚飾なく描き得る作家でもあります。」と紹介されている。

 さらに少し遡り、「氷海」昭和27年14号の散文「日記」で林屋清次郎は径子についてこのように書いている。 

会えば人間味ある人なるに、句は冷たきスタイリストなり。やゝおすましなり。(中略)賢姉径子は技巧派にてやゝ虚無派(シン強し)なり。

 昭和一桁生まれの小宮山遠はこの頃二十代前半、親と覚しき年長の径子に気まじめ、主知的といった印象を持っているのは時代のならいと言えようか。今回引いた「体温の中の雪の戸~」などは感覚的な表現のはじまりと見てよい気がするが、彼らにとってあまり注目されていないようなのは、彼らが暗に期待するところが主宰秋元不死男のようなヒューマニズムのはっきり発露した句、また生活の細部を慈しむタイプの句だったりするからだろうか。もしそうだとしたら、それはどこかないものねだりのような気がする。径子の作品は当初からいわゆる写生を標榜しないことがはっきりしているし、生活実感のある句も、単純に喜んだり悲しんだりするような詠嘆を回避する、現在性が重視されている。

 もてあます真夜の体温に雪明り  加藤知世子(昭和23)

 冬萌や朝の体温児にかよふ  (昭和26)

 凍てし靴ふみしめふみしめ体温生む  (昭和28)

 同年代(2歳年長)の加藤知世子の同時期の作品をいくつか挙げてみる。一句目、自身の中のなにかの昂りを諫めるかのように、戸外の雪明りが明るい。二句目、そろそろ芽ぐむ頃とはいえまだ寒い、冬の朝にふれあう子供の体温はひときわ暖かく感じられる。三句目、靴まで凍ってしまいそうな寒さの中を歩く。自分の動きによって、冷えた体がようやく暖を取り戻す。

 これらの句の「体温」は「ぬくもり」と言い換えることができる。子供との間に感じるぬくもり、自身の寒さを拭い去るためのぬくもり。ここで「体温」という語はオーソドックスに用いられ、多義的な意図は感じられない。

 「体温の中の雪の戸」はもう少し表現そのものにウェイトがかけられている。「体温」という語彙の扱いが物質的といおうか。そもそもこれが「ぬくもり」なのだとしたら誰のものなのか? 結句の受身からは主体そのもののことであると判断され、ここに人は一人しかいない。

 深読みしていけば、「体温の中の雪の戸」とは自身のかたく冷たく閉ざした「雪の戸」を誰かがコンコンとノックしている、という読みもありうる。しかし、そんなにロマンチックでいいのだろうか。「かたく閉ざした私の扉(心)を訪うひと」は少女趣味な仮定に過ぎない。

 「なかに」から「中の」へ、「叩かるゝ」から「たたかるる」に推敲したことで、受ける印象として、より身体性が強調された句となった。結句の「たたかるる」の表記は同じ仮名が二度繰り返され、「体温の中」という場所の提示と相まって、「雪の戸」が飛雪で固まる寒々とした扉から、なにか生命のある装置めいたものに変貌を遂げた。


 ところで「体温」という語は女性作家特有の語彙ではないか。立風書房の「現代俳句全集」全6巻、みすず書房の「現代俳句全集」全8巻中に(新人作品を除いて)以下三作品しか認められなかった。

 体温の銀線きらと枝蛙  友岡子郷

 激怒する体温の渦バラの季節  佐藤鬼房

 寒き作業衣著けし体温負くるまじ  三橋敏雄

 子郷の句は体温計の水銀のことを言っているし、鬼房の「体温の渦」は頭に血の上ったイメージであって、具体的な他人の体温のことではない。3句だけのサンプルで云々はできないが、これらの「体温」はイメージの提示となっている。健康上の問題の有無に拘わらず、自身の状態を常に観察している、また出産・子育てを通して「子供」という他者と触れあい、嫌が応にも身体性と向き合う機会の多い女性とでは、「体温」という語彙に対する実感がかなり違っているのかもしれない。

 寒燈や残る体温掌に惜しむ  柴田白葉女

 唐紅葉わが体温と同じうす  阿部みどり女

 露霜に体温うつる傍えの児  長谷川かな女

 早乙女の体温泥の田にて蒸る  津田清子

 体温のこる帯が触れゆく春障子  河野多希女