★―2橋閒石の句 7/眞矢ひろみ
閒石にとって、俳諧とは文学文芸のジャンルや形式の名称ではなく、「身の処し方」という心境の深さの次元で体得する心持ちを指す言葉であった。即ち「いっさいに遊ぶこと―遊びとは囚われない心ざま」(*1)「『雲を踏む確かさ』に明け暮れる軽み」(*2)に他ならない。
壮年期から晩年期にあたる1960年代を中心に、閒石は二つの対立する概念、虚と実、仮面と素面(自我と反自我)、具象と象徴、個性と非個性といった対概念に関して、書籍やエッセイなどで繰り返し取り上げ、考察している。古典から芭蕉をはじめ心敬や世阿弥、近現代では井泉水、宇野浩二や三島由紀夫、さらに英文学からは専門であるC.ラム、W.イェイツ等々の多方面にわたる著述等を引きつつ、これら対概念が融け合うような次元における客体、そのような「物」に行きつこうとする志向に深く共鳴する。そして、そのための環境として、自己意識を超えた無我、忘我の境地、芭蕉の言葉とされる「無心所著」の意義を強調する。それは「虚であれ実であれ、おのが意識に囚われて粘着する状態から解放されたおもむき」であり、文学芸術において創造する力の源泉としている(*3)。一方、当時の閒石の句は、強い自我意識と重く硬直化した表現が相まって、一般的には評価も低いことは周知の通り。逆に言えば、だからこそ自らの課題として、粘着する自我や物から脱却し、虚実が融合する場に遊ぶこと、即ち去来が言及した「俳諧をもって身を行う」(*4)ことを目指したのであろう。
なお、このような詠み手の無我の境地や俳句性等への言及は、平畑静塔による「俳人格」に関する一連の論説を彷彿とさせる(*5)。しかし閒石は「俳人格」論を「裏返し的姿態が習癖となって類型をうみ、批判精神の稀薄亡失に陥った末期現象」として厳しく批判する(*6)。静塔が「流れ行く大根の葉の早さかな」といった句に、虚子の「空白精神」「一種の放心状態」を認めて理想的俳人格としたことに納得しない。最晩年の閒石は、良寛のような「俳人格」に到達したようにも見えるが、人格を持ち出すまでもなく、俳諧の心持ちで処したとする方が本人の意に沿うものと言える。閒石の「反写生」という立場、信念は終生変わることは無かった(*7)。
柳立つうしろの柳笑いけり 「虚」 昭60年
西田幾多郎のごとく冬帽掛かりいたり
はるかなる冬木と夢に遊びけり
揚句では、虚実融合の世界が展開する。柳、冬帽、冬木は虚とも実とも、象徴とも具象ともとれる「物」であり、「囚われない心」によって捉えられる。前述の、対概念が溶け合うような次元における客体とも言える。文頭の「雲を踏む確かさ」とは、多義性の曖昧さ、浮遊性の中に、虚実といった対概念が並び立ち一体であることを捉えた言葉とも言えよう。なお、西田幾多郎の句に関しては、閒石にしては珍しく自解を残しており(*8)、「掛かりたり」ではなく「掛かりいたり」とした理由については「冬帽の生ける存在感を込め、時空の深みを暗示したかった」とし、「西田さんを憶うとき、いつも決って、古びた冬の中折帽が化身のように現れる」と同郷(金沢)の哲学者への思いを記している。
短日のここにも釘を打てと云う 「橋閒石俳句選集」 昭62年
掛詞とけて柳の芽ぐみけり
経と緯の交わるところ水すまし
遊びの境地は、更に同じ舞台に並び立つことの無かった異次元、異世界の言葉、物、概念等が融合する世界へと広がる。閒石が20年以上を要して到達した句境、遠い昔も現在も、また眼前の実景も異世界の幻影も綯交ぜとなった世界である。閒石自身は「かねてから願っている忘我の境にはなお暫く間がある」としながらも、「少し気持が軽くなったのは確か」と、珍しく自信をのぞかせる(*9)。
ラテン語の風格にして夏蜜柑 「微光」平4年
噴水にはらわたの無き明るさよ
銀河系のとある酒場のヒアシンス
歯がひとつ抜けたる秋の笑いかな 「微光」以後 『橋閒石全句集』平15年
寒鴉一羽となりて透き徹る
「和栲」(昭58年)の後、最後の句集となる「微光」までの八十路の約十年、閒石は教職を辞して俳諧と俳句の活動に専念し、最も自由自在の最晩年を迎える。「和栲」に見られる滑稽、諧謔、ずらし、ユーモア等々は、耕衣の句ほどでは無いにしても、いくぶん卑俗性やこれに伴うエロチシズム、グロテスクがあるように感じられるが、そのような色合いも徐々に薄らぎ、可笑しみは残したまま、単純清澄で自在の境地に遊ぶ句が多くなる。閒石自身も「しばしば、身も句も共々に、不思議としずかな明るさの、幽かなおもむきを楽しむ折もある」としている(*10)。
揚句はそのような傾向を示す句として抄出した。中でも、著名なヒアシンスの句は、酒場の場所が地球外であればSF的な虚実綯交ぜの句とも言えるが、日本のどこにでもある典型的な居酒屋であれば、事実を並べたてた「写生句」「ただごと俳句」としても読めてしまう。もちろん、銀河系とヒアシンスを並置したところに誇張・面白味があり、読み手はグーグルアースで宇宙からゴルフボールを覗き込むように、大宇宙→銀河系→酒場→ヒアシンスとズームの視覚的なドライブ感を味わえることが、この句の意義と言ってよいだろう。
「微光」出版後、3か月後に閒石は鬼籍に入る。「白燕」に掲載の随筆「俳諧余談」の97回原稿を脱稿した直後のことである。その稿では、エッセイの要諦について「何物にも何事にも煩わされない自由な在り方を説くモンテーニュの言葉に戻らねばなるまい。まことの〈遊びごころ〉はそこに芽生える。〈道草を食う〉愉しさを知らなくては、この文芸に関わる資格がない」とする(*11)。俳句、俳諧と同様の内容に驚かされる。閒石が生涯を通じて、古今東西の文学、俳句、俳諧、随筆等々に携わり到達した、作者(詠み手)側の結論・実感ということができる。
(了)
*1 あとがき「和栲」昭58年
*2「俳諧の人」『俳諧余談』平21年
*3「無心所著のこと」「仮面と素面」ほか 『泡沫記』南柯書局 昭55年
「ラムの思考様式」 神戸商科大学経済研究所 昭38年
なお、同書において、閒石は「虚実の場」という章を設けてC.ラムの思想について「(ラムの)理想は忘我の境地にあった。相反する二物の対比から出発し、(中略)全一の調和を図り、さらに時間空間の場における虚実の問題にまで発展して、究極の真理を無我に見出した」と結んでいる。
*4 「俳諧の人」『俳諧余談』において、「俳諧をもって文をかくは俳諧文。歌を詠むのは俳諧歌也。身を行はば俳諧の人也。」『去来抄』を引用している。
*5「表現と人格の高度な結合」平畑静塔 『「俳句」百年の問い』夏石番矢編 講談社学術文庫 平5年
*6「俳句性について」『琴座』10月号 昭36年 再掲『俳諧余談』平21年
*7 閒石の俳句観を如実に示したものとして、参考までに次の記述を引く。
「俳句の如き短詩型に於いて、専ら写生による印象明瞭を理想とするのは謬りであって、暗示的な象徴主義こそすべての詩の本質であり、殊に短い詩に於いてはその生命とも言うべきもの」「狭い詩型の中では活現法によって描く事物の複雑精緻さには限度がありますが、暗示法は叙情余韻を特長としますから、何処迄も奥深く進み得る余地をもってゐます」(俳句史大要 関書院 昭27年)
「漠然と俳句性と考えているものは、すべて比較的濃い色調といった程度のもので、独自性ではない」「あるが如くに考えられてきたいわゆる俳句性が、つきつめてみれば幻覚にすぎない(略)十七音という骨組みしかない」(「俳句性について」『琴座』昭36年10月号 再掲『俳諧余談』平21年)
*8 「つれづれなるままに」『俳諧余談』平21年
*9 あとがき「橋閒石俳句選集」昭62年
*10 あとがき「微光」平4年
*11「九七」『俳諧余談』平21年
★―3「高柳重信の風景 」4 後藤よしみ
四 戦前期の文学と社会思潮
金魚玉明日は歴史の試験かな 『前略十年』
この句は中学二年の夏休み前の期末試験を詠んだものになるが、 歴史の教師は久保田収といい、重信入学の年に着任している。彼は東京帝国大学の平泉澄(皇国史観の歴史家)に学んだ神道史学者であり、重信に色々な面で影響を与えたようである。
〈その新任の教師の教えは、それ自体が一つの意志を持っているに等しい大きな歴史的な時間の流れと、それに確乎たる志を抱いて意識的に関わろうとした人物の事績を、あたかも我がことのごとく痛感しながら学べというものであった。(略)さまざまな感情の動きなどを想定しながら、いっそう我が身に引き寄せて判断してみることが、いつしか私の習慣のごとくになってきた。(略)事実、いわゆる新興俳句運動も、また戦後俳句の諸相も、そして、それに微妙に反応した各時代の俳壇の動きも、あるいは個々の俳人の言動も、このような考察を試みることによって、はじめて明らかとなる問題が少なくないのであった〉。(「『蕗子』の周辺」『高柳重信全集Ⅲ』)
彼のその授業はいわば感情移入のフィーリングの歴史教育であったようだ。
〈いつも私は楠木正成公や新田義貞公北畠顕家公などの率いる軍勢の中にいて、(略)しかも、なぜか私は、死に直面する場面が好きであった。ただ見事に敗れることのみを第一義として湊川に赴いた楠木正成公が、(略)一族ともども七生報国を誓って薨去されたとき、私も同じ誓いの下に死んでゆくのであった〉。(「『蕗子』の周辺」『前出』)
楠木正成像は、「朝敵」から「忠臣」へと時代とともに変わる。そこでは、「七生滅敵」を「七生尽忠」とし、命をささげることが求められている。戦時下、若者は楠木正成の思想を拠り所として決死の覚悟を固めようとしていたという(谷田博幸『国家はいかに「楠木正成」を作ったか』)。 戦前からの重信の蔵書のなかに、吉田松陰、藤田東湖、平泉澄の書と『神皇正統記』などがあったという。また、加藤郁乎は、重信が「神典皇学にたえざる敬意愛着をよせつづけた」と次のように記している。
〈高柳重信は独自の皇道観を持っていた。(略)俳句の話が大方出尽くして対酌酣となると憂国の志情鬱勃と湧出するもののごとく、大楠公の忠義から南北朝へと話頭転回、吉野朝の悲哀をひとりで引き受けたかのように嗚咽した。その皇道精神が戦前戦中に養われたのは論を俟たない〉。(「皇道と俳道」『高柳重信読本』)
ここでの皇道とは、「皇神の道」の簡約語であり、「皇神の道」は「皇神の道義」と同義とされる。この「皇神の道義」の意味は、「君臣の大義」、即ち現人神たる天皇とそれに仕える臣民の「君臣の道」を指しているという(河田和子『戦時下の文学と〈日本的なもの〉』)。郁也の言うところの独自の皇道観が何であるかは不明であるが、推測すれば重信の祖先の大宮某に行き当たる。大宮某は伊勢の守将であり、一族は南北朝時代に南朝側に加わっていたという。もう一つとしては、重信の後南朝への愛着心をあげることができるだろう。その皇統は、大宮伯爵の実態としての血統と大宮某を見なす重信には尊いものになっていると思われる。これらの影響が作品にもあらわれているものとしては次の上段の句をあげることができよう。
天に代りて 目醒め
死にに行く * がちなる
わが名 わが尽忠は
橘周太かな 俳句かな 『山海集』
日露戦争時の軍神「橘中佐」の歌詞は、「(略)霧立ちこむる高梁の/中なる塹壕声絶えて/目醒めがちなる敵兵の/肝おどろかす秋の風」である。この歌を「本歌取り」し、俳句への献身の心情を発露したのが下段の句である。 重信に横たわる日本的なるものの背景の一つはこれらにもあると言えよう。
その一方では、フランス文学、そして象徴主義とも出会っている。「少年期から青年期にかけての私に、いちばん大きな影響を与えたものは、たぶん、辰野隆・鈴木信太郎・渡辺一夫などを中心とする主としてフランス文学の古典に関する本であった」と重信は回想している(「模糊たる来し方」『高柳重信全集Ⅱ』)。また、大学時代には、『ヴァレリイ全集』と共に『リラダン全集』を予約、購読しはじめている。重信はフランス語に無縁であったため、翻訳を読み比べるなどにより作品の読み方を学んでいる。これらのフランス象徴派の詩人からの言語体験は後の俳句詩論形成の基になっていると言ってよいだろう。
〈フランス語は習得できなかったが、ボードレール、ランボー、ド・リラダン、ヴァレリーなどのフランス文学に翻訳を通じて傾倒していた〉。(夏石番矢「高柳重信学校」『俳句縦横無尽』)
渡辺一夫らは、いずれもリラダンの翻訳を手掛けており、当時のリラダン流布の立役者でもあった。リラダンの一九世紀末の貴族主義的、耽美的なものに重信は長く影響されているが、その孤高反俗的なリラダンの美学は、戦時下では「非国民」として扱われるようなものであったと言える。 そして、マラルメはもう一方の重信の敬愛する詩人である。マラルメはポーの詩論である「構成の哲学」に影響を受け、意図的に詩的効果を追求していく方法を継承し、この詩論は重信の『蕗子』や『伯爵領』などの作品に影響を与えていると目されるものである。このフランス文学との出会いが、日本的なるものとともに戦時下の思想形成の源流として敗戦後の方向を重信に示してくれるものになる。
★―7:藤木清子を読む2 / 村山 恭子
2 昭和7年
幼名を呼び合ひながら十夜婆 蘆火3号(昭和7年1月号)
十夜は陰暦の十月五日夜から十五日朝まで、浄土宗の寺で十昼夜にわたって行う念仏法要。多くの信徒が参詣します。高齢の女性〈十夜婆〉は、幼少の頃から付き合いのある人々とお互いの〈幼名〉で呼び合いながら、法要に参加しています。長年にわたる信仰心とともに、お互いの成長を見守り合ってきた姿が尊くもあります。
季語=十夜婆(冬)
夜学子の道一ぱいに戻りけり 同
夜学を終えた子らが、道一ぱいに広がりながら通り行きます。昼間は工場などで働き、夜は勉学に勤しみました。一日の終わりを仲間と共に、仕事や勉学の話をしながら、がやがやと行く子もいれば、疲労困憊し黙々と歩く子もいます。〈戻りけり〉から寮へ一斉に帰る様子でしょうか。慈愛に満ちた眼で、夜学子らを見守ります。
季語=夜学子(秋)
天井へわが影およぶ夜なべかな 蘆火4号(昭和7年2月号)
秋の長い夜を働き続けています。手元の光を頼りに作業をしており、その者の影を天井まで大きく立ち上らせます。熱心になればなるほど、光源へ身体が近づき影は一層広がります。
その影は己の分身で、恐ろしげでもあります。光の「白」と影の「黒」が印象的です。
季語=夜なべ(秋)
まち針を数へて夜なべ仕舞せり 蘆火5号(昭和7年3月号)
今日も一日が終わりました。夜なべの針仕事を仕舞にしましょう。まち針を何処かへ落としていないか入念に数えます。最初と最後の数が合い、ほっと安堵のため息がこぼれてきます。明日もまた夜なべをするのでしょう。つつましやかで静かな暮らしが見えてきます。
季語=夜なべ(秋)
年寄のたえいるばかり風邪のせき 同
風邪のせきに苦しんでいます。医者にかかって薬を飲めるとよいのですが、手持ちを考えると心細く、何とかこのまま自然に治るよう耐えています。年齢を重ねると治りも遅くなり、
日延べが薬でもあるようです。
季語=風邪(冬)
★―5清水径子論6/ 佐藤りえ
春星が目薬パンを買ひに出て (昭和41)
引き続き「鶸」より。翌朝の朝食用だろうか、パンを買いに外へ出た。仰ぎ見た空にある星、その光が自分にとっての目薬なのだという。21世紀の今でもなく、深夜にパンを売る店もあるまいし、ひょっとして早朝、焼きたてのパンを買いに出た情景なのかもしれない。この春星はうしかい座のアークトゥルスか、おとめ座のスピカだろうか。径子はこの頃俳人協会事務局で事務職に就いている。遠い空にわずかに輝く光が自分を癒やすものであるという感覚は、寂しくもありつつ、「天狼」の師たる山口誓子の影響がうかがえる。
投函の後ぞ寒星夥し 山口誓子『晩刻』
寒星を見に出かならず充ち帰る
名ある星春星としてみなうるむ
誓子には星の文人の異名を持つ天文民俗学者・野尻抱影との共著『星戀』もあり、「オリオンが枯木にひかる宵のほど」「ペガサスの大方形や露の上」「木星や娼婦泳ぎし海の上」「スバルけぶらせて寒星すべて揃ふ」など、星、星座の名前を直接詠み込んだ句も多い。星を単に夜空にちり輝く舞台装置としてでなく、動かぬ遠いものながら、「名を知りて後星の春立ちにけり」などとも詠み、愛着を感じ、心を寄せていた。
「氷海」はそもそも「天狼」東京句会の機関誌として発足した。創刊号は誓子の俳話「単一化について」にはじまる。俳句は素材となる情熱、感情を技術によって単一化してこそ成り立つものである、という主旨で、若い作家の「単一化されざる情熱」「複雑極まりなき生への情熱」こそが俳句である、という考えへの苦言を呈している。会員林屋清次郎、径子の弟・清水野笛とが「誓子俳句研究」の連載を開始、「凍港」から作品を繙いている。「氷海」会員たちはそれぞれ誓子の影響下にあり、誓子から学び、摂取しようと出立したことが明らかである。
そうした中で、径子は誓子の療養以降の叙情性を受け取りつつあったのではないか、と思う。「鶸」はかなしみ、嘆きといった点が注目され、実際そういう作品が大勢を占めてはいるが、掲句のような視線を上へ投じる明るさ、少し強く言えば楽天的な要素が出ている句もあることは見逃せない。
*
昭和28年「俳句研究」7月号に径子は「西片町」というエッセイを寄せている。本郷西片町の下宿に暮らした数年のことが現在進行形で綴られている。終戦後、失職して家賃にも行き詰まった径子はふらりと夜汽車に飛び乗り、軽井沢へ向かった。辿り着いたその地の八百屋の店先でとあるドイツ人の老婦人と知り合い、彼女の家に仮寓し、世話を焼きつつ一夏を共に暮らしたのだという。にわかには信じがたいエピソードだが、清水径子全句集年譜の昭和22年の項にはたしかに「旅先で岸シェルチェ夫人の知遇を得て、この夏秋を碓氷峠周辺の自然と遊ぶ」とある。
年譜に短く添えられた文章の優雅さとは裏腹に、いきあたりばったりな逃避行はほろ苦く終わり、径子は西片町の下宿に舞い戻る。また懐が空き、横浜の兄(義兄・秋元不死男)の元へ身を寄せるが、二ヶ月ほどでふたたび西片町へ戻ってしまう。
就職のあてはなかつたけれど、「どうにかなるさ」と言う妙な気持はいつの間にか、わたしに出来あがつてしまつた。実際、ふりかへつてみると、みんなどうにかなつてきたのであつた。(清水径子「西片町」)
突然見知らぬ人、それも異国の人の家に転がり込み、あわよくば外国語とタイプライターを教わろうなどとは、天衣無縫にすぎる行動だが、径子は本気だったようなのだ。そこで多少なりとも身につけたタイピングが後年仕事の糧となった。こうした行動はやぶれかぶれという見方もできる。身ひとつであればこそのあやうさと身軽さが径子のなかに同居している。「どうにかなるさ」と嘯く径子の向日性はこの後徐々に発揮されていく。
●―15中尾寿美子の句/横井理恵
梅雨深きわが手に赤きねぢまはし 『天沼』
寿美子の第一句集『天沼』に見られる「色」と言えば、第一に「赤」である。
手の中にある「ねぢまはし」の把手は赤い。梅雨の最中、家の中にこもりがちな日々にあって、手にとった「ねぢまはし」で寿美子は何を締めようとしたのか。
鳥が逃げても飛べない女赤い芥子 『天沼』
椿あまりに紅くて心許されぬ
これらの「赤」は、「焦燥」の「赤」かもしれない。思うに任せぬいらだちに握りしめる手。逃げた鳥を追えない瞋恚、鮮やかすぎる色彩に身構える心、それらを抱きながら掴んだ「ねぢまはし」である。もしかしたら、何を締めるあてもないのかもしれない。見えない何かを引き締めようとしているのかもしれない。正面を見据え、唇を引き結ぶ寿美子の姿が思い浮かぶ。
第三句集『草の花』の「赤」の句からは、うつむき加減の寿美子の姿が見えてくる。
囀らず飛べずぽつんと落椿 『草の花』
紅梅の映りて痛き水ならむ
うつし身の足許の花赤のまま
ぽつんと落ちた赤い椿は私自身だ。だって、囀ることも飛ぶこともできないところが同じだから。あの水ったら、あんなに紅くて心許せぬ梅を映して、きっと痛みを感じているにちがいない。そして、「うつし身の足許」には小さく赤い花がある。これらの「赤」はもう、寿美子の手の中にはなく、こぼれ落ちて足許に点っている。
そんな寿美子が顔を上げると、その視線の先には、この世の色ではない「白」が映る。
婆の死後野の涯にさく白菫 『草の花』
晩年の思ひちらつく白桔梗
「赤」を手からこぼしてしまった寿美子は、白から目を離さず、我が身を「白」に重ねていく。そして、最後には、未来を予祝する色として、晴々と「白」をうたうようになる。それが、前にも取り上げた
霞草わたくしの忌は晴れてゐよ 『老虎灘』
白髪の種花種に混ぜておく
の二句である。「焦燥」の「赤」を離れ、(「畏れ」の「白」を経て、)「予祝」の「白」へ。
この変遷は、寿美子が悩みつつ、苦しみから目をそらさず、全てを歓びをもって受け止めるに至る道のりを映している。
振り返ってみれば、「紅」と「白」。寿ぐ色を、寿美子は生きたのだろう。