投稿日:2011年10月14日
●―1近木圭之介の句/藤田踏青
うまれた家はない風ふく絵本
昭和53年作の「ケイノスケ句抄」(注①)所載の句である。圭之介は明治45年に福井県舘町で生れたが、生後三カ月目に逓信省勤務の父の転勤で石川県金沢市へ移り、そこで小学校一年生終了までの七年間を過した。当然、圭之介の記憶にあるのは金沢の家であり、圭之介自身「金沢をふるさとに持ったことは一生涯、心の誇りですね」と語っている(注②)。犀川の流れる金沢は室生犀星や泉鏡花等を生んだ文化の香り豊かな土地であり、圭之介の金沢への愛着は後に「北の町に埋れた春はぬれた舌でしょうか 昭和58年作 」の句も生んでいる。
掲句の絵本は幼き日の記憶の中でのものであり、吹きすぎてゆく風が、心の中の家も絵本も消し去って行くような思いがしたのであろう。時間が記憶の中に紛れ込み、それによって記憶そのものがほろほろと分解されてゆくようにも。また、この句の下敷として山頭火の「うまれた家はあとかたもないほうたる」の句が意識にあったものと思われる。しかしその二人の作風の違いは、自己を現存在の彼方に置くか、現存在そのものに埋没してゆくかにあり、各々の句にその特徴が表れている。圭之介は山頭火と交誼を結んでいたが、「山頭火から俳句の批評や添削された記憶はなく、俳句の話もほとんどしたことはない。」と述べており、句作の上では影響をあまり受けていないと考える。しかし、山頭火の人間そのものには大いに魅かれるものがあったのであろう。後年、「山頭火」と題した思い出の下記の句を発表している。(注①)
いつもらんぷ磨いてあるほどに身辺簡素 昭和25年
らんぷが家の中につき彼が心中にある煩悩 々
独りでおるべき身の茶の花のもつ清貧 々
酒をたべる山頭火に鴉が来て誰も来ない 々
心の暗い日のかれ米をとぐ大いなる手を持つ 々
らんぷより明るい外で 柿の木の柿 昭和31年
仏にあげたものが ひとり食べる 々
この様に圭之介は、山口県小郡の其中庵時代の山頭火の生活やその人間的苦悩そのものにまで踏み込んだ思いを抱いており、圭之介が年齢を重ねるにつれて山頭火の句の深さにも魅せられていったと述べている。
今回のテーマ「記憶」にも関連すると思われる、圭之介の昭和28年作の一篇の詩を紹介したい。(注③)
「離散」
あれもこれも離れてゆき
これもあれも離れてゆく
コップは手より卓の上に位置をかえ
手とコップは無限のへだたりを生じる
右手と左手の間に 枯野が横たわり
木の葉は女ごころの如く林を離れた
記憶の如きは雲の浮遊と共に移り去り
全てのものが風景の中にへんぺんと離散した
人間にとって記憶というものは心象風景の中でいつかは離散し、消え去ってゆくものなのであろうか。そしてその時間的推移は瞬時と永遠が交叉したり、隔たったりして過去、現在、未来を照射してゆくのであろうか。その時、個的実存が孤独、不安、絶望といったものに蝕まれてゆくのであろうか。それ等の孤独感を引きずりながら圭之介は後年、下記の句群の中を泳いでいったのかも知れない。
一さいが去り 一つの灯にいる 昭和30年
一対の椅子の時間誰かいて 行ってしまう 昭和52年
記憶の構図くずれ ひたむきに構図 平成12年
己の記憶の中で笑った 平成18年
注①「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社刊 昭和61年
注②「うしろ姿のしぐれてゆくか・山頭火と圭之介」桟比呂子著 海鳥社刊 平成15年
注③「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版 昭和60年
●―2稲垣きくの/土肥あき子
養へば命哀しき籠蛍 「春燈」昭和56年8月号
昭和54年8月号「俳句とエッセイ」にきくのは「想い出」というエッセイを寄せている。最近見た蛍養殖のテレビニュースから、亡くなった師久保田万太郎の作品「蛍」に思いを馳せる。戯曲「蛍」は、悲運な男女の死を予感させるラストを蛍籠で暗示させる。
掲句の「養う」にも、蛍の命終をそう遠くない日に見届けなければならないことをじゅうぶん承知している屈託がにじむ。
さらにきくのにとって、蛍は特別な記憶を呼び覚ますものでもあった。
「思い出」に書かれた蛍のエッセイは、いよいよ過去へとさかのぼり、忘れられないあるできごとへと誘導されていく。
大正9年、きくのが女学生になった頃、幼友達に近所の田圃へと蛍を見に誘われ、躊躇なく同意する。そこで14歳の少女はゆらめく蛍火のなか、いきなり接吻をされたのだった。「いやっ」と少年を振り切ったきくのは「息もつかづに家へ戻ると、台所へ下りて柄杓の水でがぶがぶと気がすむまで口を漱いだ」。これだけだったら感じやすい少女時代の微笑ましいとすら思える経験で済むのだが、きくのの場合、その後結婚してからも男女に関する不潔感はつきまとったのだという。
幻想的な蛍火に惑わされた、あるいは思慕を募らせたあまりの計画的な行動だったかもしれない少年の想いに一切触れることなく、半世紀以上前経った今もまざまざとその忌まわしい感触に身をこわばらせる。
多感な少女期の不幸な経験が、その後のきくのの並外れた潔癖さと、それにあらがうような、ときに退廃的な選択の原点となったように思える出来事である。
蛍火は明滅する業火となって、いつまでもきくのにねっとりとまといつく。
「私は今でも接吻が怖くて出来ない」
最後に置かれた一文は、「恋のきくの」にとってあまりに切ない告白である。
●―4齋藤玄の句/飯田冬眞
ひもじくて芒かんざししてゐたり
掲句は、昭和50年作、句集『雁道』(*1)所収。
この句を鑑賞するさい、ポイントになるのは〈ひもじくて〉の主体である。擬人法と捕らえるならば、〈芒〉が〈ひもじくて〉となる。ススキの姿を凝視した結果、腹が減って食べ物が欲しいと思いながら、うな垂れている人のように見えたというのだ。しかも風になびいている黄金色に輝く花穂を長い髪にさしている〈かんざし〉に見立てた。そこにこの句の独自性を見出すことも出来る。
齋藤玄が「見る」ことにこだわる「凝視」の作家であることは、この連載において何度となく書いてきた。晩年の句集である『雁道』においても見ることに重点を置いて表現を重ねている句が多いことを考えれば、この句は凝視の成果のひとつといえるだろう。
芒はとてもひもじかった。風が吹き通るたびに、ひもじさは身に応えた。頭のきらきらしたかんざしは、ゆらゆらと重かった。(*2)
自註の玄の記述を勘案すると、芒の写生句と読めなくもない。
しかし、なぜ〈かんざし〉なのか。ふつう「かんざし」といえば、女性の髪飾りである。かんざしを挿している女性が、戦前ならまだしも昭和50年の北海道で一般的であったとは思えない。ちなみに玄が当時居住していたのは北海道滝川市新町である。新町は空知川の川岸沿いに位置する町で、昭和48年頃から文化センターや図書館、郷土館が建設され、市内の文化地域を形成している。余談だが、同時代に北海道札幌市で暮らしていた筆者の周囲でかんざしを挿していた女性は、明治生まれの祖母くらいの印象がある。ここでの〈かんざし〉は、記憶の中の女性を芒に重ね合わせて詠みこんだと考えられなくもない。
いままではあくまでも〈ひもじくて〉の主体を〈芒〉ととらえて考えてきたのであるが、一方で、作者自身ととらえるとどうなるだろう。
すると、作者である玄が〈ひもじくて〉髪に芒を挿しながら芒原をあてどなく歩いている景が見えてこないか。当時玄は61歳。10月に盟友である石川桂郎を聖路加病院に見舞い、断腸のお思いで別れてきた時期の作と思われる。
桂郎を見舞った時に次の句を残している。
死の側で笑む桂郎や秋の暮 昭和50年作『雁道』
死を予期している友の笑顔を眼前にしながら玄は何を思っただろう。昭和18年、「生涯のつきあいを約した」(*2)という一夜だろうか。それとも昭和19年、第二句集『飛雪』の題簽の染筆を依頼するために横光利一邸に二人で泊まった日のことだろうか。あるいは昭和47年、厳寒の網走を二人で旅した日の着膨れた桂郎の姿だったろうか。
いずれにせよ、句集『雁道』では〈死の側で〉の二句後に〈ひもじくて〉の句がある。掲句の鑑賞に戻ると、〈芒かんざし〉とはススキの花穂を折り取って、髪に挿すことで、女性に限定されるものではない。むしろ、果てしなく続く芒の原を歩きながら一本の芒を短く手折ったのであれば、男性的ですらある。よって〈かんざし〉に女性を読み取る必然性はなくなる。〈ひもじ〉さを紛らわせるための所作、あるいは、芒原に同化するための振る舞いととらえた方が自然だろう。なぜ、芒に同化する必要があるのか。それは、記憶を消し去るためである。たとえば、哀しい記憶。現実からの逃避。あるいは孤独感を忘れるため。昭和の子どもたちがお面をつけて、たやすくテレビのヒーローになりきったように、自分ではない何ものかになりたいとき、人は仮面をかぶり、頭に何かをかざすのではないか。そう考えるならば、先に掲げた自註の解釈も変わってくるように思う。友の死を契機にして、噴出してきた記憶。あるいは文字通り〈ひもじ〉かった頃の記憶を忘れるために玄は〈芒かんざし〉の重さを感じつつ、芒の原を歩いたのではないだろうか。消したくなるほどの記憶を持たないものには、到底理解されることはないと思いながら。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
●―5堀葦男の句/堺谷真人
幾何解く夜花火みどりに裏返る
『機械』(1980年)所収の句。
夏の夜。窓辺の机に向かい、幾何学の問題に取り組む少年。しかし、やがて思考の糸は腹の底に響く爆音で途切れることになる。今夜は花火大会だったのだ。次々と夜空を彩る大輪の花火。放射状に開ききった光の尖端が闇に吸い込まれ、一瞬ののち、緑に反転した閃光が浮かび上がる。花火見物をよそに独り図形と格闘する少年は葦男その人に違いない。受験生としての遠い日の記憶の中から、花火の開く瞬間を鮮やかに切り取ってみせた一句である。
葦男は神戸第一中学校から岡山の第六高等学校文科甲類に進み、1938年、東京帝国大学経済学部に入学した。1934年には六高受験に失敗、山手高等予備校に通うという経験もしている。六高はスポーツの強豪校として有名だった。13の運動部がインターハイにおいて延べ55回の全国制覇を達成しているほどだ。中高時代を通じて陸上競技部に所属した葦男も、厳しい鍛錬に明け暮れるアスリートだった。
学生時代に走幅跳や三段跳の練習をやったせいであろうか。激しく地面を蹴って、体を空中で海老のように屈伸する姿勢をとると、私の体はふわりと空中に浮く。その体を弓にそらし、次いで、高く振り挙げた両手を強くうしろに掻きつつ、揃えた両膝を前へぐつと引き上げる、この動作を律動的に繰り返すと、不思議や私の体は地上一メートル余りの高さで、地面と並行にスーツスーツと進む。
第一句集『火づくり』の「あとがき」に出て来る奇妙な記述は、結局、夢の中の飛翔体験であることが明かされるのだが、繰り返し肉体に刷り込まれたヴィヴィッドな運動感覚が、はるか後年まで夢の中で再現されることに筆者は興味を覚えた。ひょっとすると記憶の中には、大脳皮質の働きと関連しつつもそれとは別個に存在する「脊髄記憶」あるいは「小脳記憶」とでもいうべきものがあるのではないだろうか。
やがて葦男は「この天狗飛び切りの術」を進化させ、下級生の教室の窓を飛び抜けたり、泰山木の花を真上から眺めたり、果ては高い丘の上から谷を越えて緑地に着陸するというパラグライダーまがいの飛翔を愉しむ。その多くは病気の時、高熱の後の回復期などに体験するのだという。
葦男が俳句を「形象性の詩」と呼ぶとき、それは素朴実在論的な写生だけではなく、自己の心の中にしか存在しない形象の表現をも含む。夢の中の飛翔体験や鳥瞰イメージを克明に描くこととそれはどこかで相通じている。
さて、冒頭の句は西東三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」を連想させる。が、しのび泣きながら少年が取り組んでいるのは幾何学や微分・積分などの「数学」ではない。「算術」なのである。鶴亀算か、旅人算か。いやそれ以前の九九あたりで彼はすでに躓いていたのかもしれない。要はセンスやひらめきの問題ではなく、それ以前の丸暗記=記憶力の問題だった可能性が高い。
対する葦男作品の少年は記憶力抜群だった。そこに描かれているのは幾何の問題がすっと解けた瞬間の強烈な快感である。葦男はそんな「数学的エクスタシー」を「花火みどりに裏返る」という官能的な表現のうちに見事に言い止めたのである。
●―8「青玄」系作家の句/岡村知昭
今奏づ亡き師がききし諏訪根自子 桂信子
初出は『青玄』1957年(昭和32年)2月号、「おでんの湯気」と題された6句の中の一句。句集および『桂信子全句集』(2007年10月、ふらんす堂)には未収録。「ニューイヤーコンサート」との前書きがある。
諏訪根自子は1920年(大正9年)生まれのバイオリニスト。16歳からベルギー、フランスへ留学、第二次世界大戦下のヨーロッパで演奏活動を行った。戦後に帰国してからは国内で演奏活動を行ったが、1960年代に第一線から退いたという。ウィキペディアでの記述によれば「その後、消息はほとんど聞かれず、伝説中の人物となっていた」、また「絶世の美貌を謳われ」たとある。掲出句が書かれた時期はちょうど国内での演奏活動を精力的に取り組んでいた頃にあたるので、前書きの「ニューイヤーコンサート」もそのうちのひとつだろう。
年明けのとある1日、ラジオから流れてくるバイオリンの音色は、いまは亡き恩師が愛してやまなかったあの諏訪根自子が奏でているもの。病床の先生はラジオから流れてくる音楽をジャンルを問わずとても楽しみにしていらして、その中でも特に彼女のバイオリンの演奏は好きでしたねえ、との追憶にしばし身をゆだねるひとときである。このとき師を想う一弟子としての作者の脳裏には、「亡き師」がこのバイオリニストを詠んだ次の一句が浮かんでいたに違いない。
弾きて澄む顔は見えねど諏訪根自子 日野草城
この草城の1句の初出は『青玄』1949年(昭和24年)10月号、つまり『青玄』の創刊号に掲載された作品である。すでに病床での生活を余儀なくされていた自らの耳に届くバイオリンの響き、それはまぎれもなくあの一切の邪念を払いのけたかのような美貌から産み出された音色に間違いなく、今まさに彼女は一心に研ぎ澄まされた精神のすべてを賭けてこの一曲を奏でているのに違いない、それはいまこのとき、彼女自身が曲と一体化しているかのようではないか、と草城は美貌の演奏者への感嘆を惜しまないのである。そのような思いに満ちた1句を草城は主宰誌の記念すべき創刊号に載せ、さらには第7句集『人生の午後』にも収録したのだから、バイオリニスト諏訪根自子への賛歌として詠まれたこの1句は、弟子たちの心にも強く刻み付けられていたことだろう。もちろん桂信子も草城の弟子のひとりとして、このひとときは師が愛してやまなかったバイオリンの音色から浮かんでくるさまざまな回想に思いを馳せていたのだろう、まっすぐに澄んだ表情で。
さて、掲出句が掲載された号の作品を見ると、同じように草城への回想を背景にした作品が他にも見られる。
日向より膝に来し猫沈みねる
膝にねて程よき重さ冬の猫
師の愛せし猫なり師なき部屋あるく
「日光草舎」との前書きのあとのこの3句は今は亡き恩師の家での猫の様子を詠んだものにとどまらず、飼い猫だった「ルミ」の死を悼んだ草城の作品も踏まえられている。
猫死ねりいまはを人に知られずに
凍る闇死にたる猫の声残る
分ち飲む猫亡しミルクひとり飲む (『人生の午後』所収)
可愛がっていた飼い猫の死を深く悲しむ恩師の姿を作品を通して見ることになった弟子として、いま主なき家を堂々と闊歩し、家族や客人の膝に熟睡する猫たちの姿もまた師への想いを甦らせるには十分なものだったに違いない。とある冬の1日、あのバイオリンの音色もあの猫たちの元気な姿も、もう先生は見ることも聞くこともできないのだということを改めて深く心に刻む、そんなひとときを弟子の一人は過ごしている。年明けということは師の命日(草城の命日は1月29日)はもうまもなく訪れる。
●―9上田五千石の句/しなだしん
鰯雲くづれは雲の襤褸なる 五千石
第二句集『森林』所収。昭和四十五年作。
この句は、俳人協会新人賞受賞後のスランプの時期のものであり、『森林』の、この句の制作年、昭和四十五年の作品はわずかに8句であったことも前回書いた。
◆
この句について五千石は自註(*1)で、短く、次のように書いている。
「特攻隊くづれ」とか、「役者くづれ」というが、ここでは「鰯雲くづれ」。
「襤褸」は「ぼろ」ではなく「らんる」と読む。「襤褸」とは、破れた衣服・ぼろぼろの衣服・また、ぼろきれ・ぼろ、のこと。つまり、鰯雲の崩れた雲、または鰯雲になりきれない雲はボロキレのようだ、ということ。なんとも捨て鉢のような句ではある。
◆
私はこの句の下地になっているのは、昭和三十七年の、
流寓のながきに過ぐる鰯雲 五千石
ではないかと考えている。
流寓(りゅうぐう)とは、放浪して異郷に住むこと。以前にも書いたが、五千石は戦時に信州へ疎開し、その後細かく長野、山梨、静岡と転居する。その間、昭和20年には東京の自宅を空襲で失っている。
この流寓の句の自註には、
「流寓が流寓でなくなってゐるところに人生の寂寥性がある」
「鰯雲は、倦怠の象徴と思はれる」(山口誓子評より)
と、誓子の評をそのまま載せている。この評が行き届いたものだったことを顕していると見るべきだろう。
著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中で次のように記しており、それを裏付けている。
《前略》(流寓が)あまりに「ながきに過ぐる」ということになりますと、もはや「流寓」が「流寓」ではなくなっているとでも言いましょうか、妙にさびしく、うらぶれた気持ちになってしまいます。天を覆う「鰯雲」をうち仰ぐと、いよいよそんな思いに胸ふたぐばかりであります。《後略》
◆
この二つの句は「鰯雲」が共通するというだけではなく、鰯雲を見上げたときのあきらめにも似たさびしさの極みがベースとなっているのではないだろうか。五千石の少年期の「記憶」の句だと思う。
*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊
*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊
●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井
汗ばみ聞く故人の古き恋歌を
53年7月、『方壺集』より。
亡くなった人の歌う恋のうたを聞いているのだが、その歌の流行った時代が思い出されて、静かな室内におりながら次第に汗が吹き出してくるようである。この故人は、水原弘。昭和10年生まれ、昭和34年「黒い花びら」でデビュー、大ヒット曲となり第1回日本レコード大賞を受賞した。その後低迷するが、昭和42年「君こそわが命」で復活。酒豪であったと言われ、それが原因で昭和53年7月5日、42才でなくなった。
憲吉が水原弘と面識があったかどうかはわからないが、俳人というよりは、タレントとしての活躍が目覚しかった後半生にあっては出会いがなかったとも言えない。年齢的には一回り下であるが、老成した水原弘は憲吉と同世代人と錯覚してもおかしくない。
歌謡曲はとりわけ時代を想起させるが、「故人の古き恋歌」と言えば、やはり「黒い花びら」になるだろう、汗ばんで聴くのにふさわしい歌だ。そしてその時代にはこんなことがあった。
南極からのタロー、ジローの帰還
少年マガジン、少年サンデーの創刊
皇太子(現天皇)ご成婚
王貞治の初ホームラン、長嶋茂雄が天覧試合にサヨナラホームラン
児島明子ミス・ユニバースに
伊勢湾台風来襲、空前の5000人の死者
水俣病のチッソの有機水銀に由来することが判明
昭和34年とはこんな時代であった。やがて、安保闘争、三池争議という熱い政治の時代を迎えるようになる。暗さ明るさのないまぜになった時代を「汗ばむ」と形容するのは誠に適切な措辞であった。
では、これはだあれ。
歌姫の歌も豊かに夏に入る
昭和55年6月、『方壺集』より。
これはペギー葉山。水原と違い、憲吉とペギーは確かに面識があったようである。
ペギー葉山は昭和8年生まれ、水原より3歳年上であるが、今も元気でいる。水原の「黒い花びら」の出た同じ34年に「南国土佐を後にして」が大ヒットした。また水原と違い、「ケセラセラ」「学生時代」「爪」「ドレミの歌」「ラノビア」など息長い活動を続け、日本歌手協会会長も務めた。
●―12三橋敏雄の句/北川美美
いつせいに柱の燃ゆる都かな
読者の記憶から掘り起される映像がある。その映像がどのように映し出されるか作者は読者に任せるしかない。何よりも読者自身が句に向き合わなければその映像は見えてはこない。
掲句は、多くの論者から評され戦後の代表句のひとつとされてきた。昭和二十(1945)年の作、『まぼろしの鱶』『青の中』に収録されている。
一句として成り立つ、先の百年も残る無季句を得たいという敏雄の信念が伝わってくる。
「いっせいに柱が燃える都」という現象は尋常ではない。都が燃える要因となるものは、革命、テロ、暴動、戦争、天災など。さらに、都はどこの都という限定された場所ではない。ただ、「都」という言葉から、政治・行政・皇帝などの中枢機構が置かれている街というイメージを持つ。ポンペイ、バスチーユ(パリ)、ロンドン、平城京、天安門、本能寺(京都)、江戸、何処の都市でも、何時の時代でもよいのである。世界遺産登録の建造物、ひいてはその大元であるユネスコ憲章の世界平和(*1)をも考える、とにかく壮大な句である。俳句はちっぽけな驚きばかりでなく、歴史的な事象を想起させることもあり、ということをこの句を通して知ることができる。猛烈な火の粉をあげ都が燃えている。炎柱と炎柱との狭間にうごめく民衆の姿、声を想像する。大惨事である。
技法的には、「柱の燃ゆる」の「の」は、独立句の主格を示しており(*2)、更に「燃ゆる」の古語表現により、雅で歴史的な音感、質感を持つ。そして「かな」の詠嘆により崩れゆくもの、喪失していくものの美を感じる。『まぼろしの鱶』の昭和三十年代の項から昭和四十年代に制作された『眞神』での復活まで、この「かな」が姿を消す。それは三鬼の影響もさることながら、過去の新興俳句弾圧に対する抵抗とも感じられるのである。
制作年の昭和二十年は第二次世界大戦が終結した年であり、日本各地の小都市の多くが空襲の被害を受ける。確かに、制作年から考えれば、「空襲、特に東京大空襲を詠んだ戦争句」という多くの解説の通り、空襲の惨事に結びつけることができるだろう。しかしながら敏雄は、『まぼろしの鱶』の選句時にあえて何年何月何日という具体的な事象、場所がわかる句を外している。
制作年が同じ頃の敏雄の作品。
こがらしや壁の中から藁がとぶ 昭和二十一年作
梟の顔あげてゐる夕かな 〃
むささびや大きくなりし夜の山 昭和二十二年作
終戦で混乱した頃において、この落ち着きようである。敏雄は、あえて現実を、あるいは戦火想望俳句ひいては新興俳句を早急に遠い目線で見つめ直そうとしていたように思える。戦争が終わった安堵感と同時に暗闇の中の行き場のない悲しみ、慈しみ、そして不安を感じる。
「俳句は一たび作者の手を離れてのちは、そこに使われた言葉の意味と韻律から触発される映像表現に一切を掛けている。」『まぼろしの鱶』後記
「いっせいに…」の句は、ほんの前に起きた生々しい記憶の絵コンテだったかもしれないが、遠い記憶、回想のように滅びゆく美しさすら詠っている。敏雄を通過した言葉から生れる映像は、読者に遠く切なく迫りくる。敏雄は、具体的事象の概念を外すことにより、読者の(それもまだ生まれていない読者も含む)記憶に刷り込まれた映像に懸けたのである。
掲句から六十六年経過した現在も時空を超越する壮大な句である。
*1)ユネスコ憲章前文は以下で始まる。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」
*2)格助詞「の」が独立句の主格を示す他の句例:
五月雨のふり残してや光堂 芭蕉
おのづから影の出来たり籾筵 高屋窓秋
夕つばめあつまつてとぶ空のあり 石田波郷
●―13成田千空の句/深谷義紀
土偶みな寝に帰りき秋の山
第4句集「白光」所収。
青森は縄文文化が花開いた土地であり、今も県内には三内丸山などの遺跡が残る。その縄文文化の象徴として、よく挙げられるのが土偶である。一般になじみのあるのは、大きな目、突き出た腹が特徴的な遮光器土偶だろう。もっともこの土偶は、どんな目的で制作されたか、今も定かではないという。それでも現代人のわれわれから見ると、何とも言えない温かみをもつオブジェである。
そうしたことから、青森の人々にとって縄文文化や土偶はとても近しい存在である。その点は、他の地域とは決定的に違う。他の地域で土偶に親近感を覚えるなどと言えば、よほどの考古学マニアと言われかねないだろうが、青森ではもっと一般的に語られる。
そして青森の人々は、自分たちが縄文人の子孫であることを、折に触れ意識する。加えて、その意識というのは、単純にそうした遺跡が発掘された地域にたまたま住んでいるということではなく、この土地が何世紀も前には温暖な気候に恵まれた豊穣な地域であり、文化的にも進んでいた地域だったという自負が、その奥底に潜んでいるのである。土地の人達が「縄文」を語るときには必ず、そうした強い自意識あるいは誇りのようなものが根底に存在する。
掲句も、一読した限りではどこかファンタジーを感じさせる空想句とも思えるが、もっと重層的な構造を有しているように思う。例えば、かつての縄文人たちは土偶を、冬眠する動物たちと同じように考えていたのかもしれない。あるいは、千空にとって、この「土偶」は自分を含む津軽人の祖先であり、そうした縄文人も冬になると(冬眠する動物たちと同じように)山に生活拠点を移したかもしれない。いずれにせよ、そうした太古の縄文人たちの記憶が時代を超えて千空の脳裏に蘇ったとみることができるのではないか。さらには、千空自身が、「混沌とした現代社会に疲れた。かつての先祖たちと同じように、そろそろ秋の山に寝に帰ろうか」そんな心情を託したように思えてくる。謂わば縄文人としての記憶や自意識が現代に蘇った作品である。
●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】25.26.27.28./吉村毬子
2014年8月8日金曜日
25. 鈍(のろ)き詩人(うたびと)青梅あをきまま醸す
詩人は鈍い方が良い。器用に言葉を操る詩人は魂の真髄から詠っていない気がするのは私だけであろうか。愚かな「鈍き詩人」と「青梅」の取り合わせによる在るがまま、成すがままの大らかな解放感。青々とした丸い実梅が、初夏の日射しを浴びる大地に音を立てて転がり落ちる。「あをきまま醸す」とは梅酒にする様を思う。ホワイト・リカーの円みのある透明な液体に、泳ぎながら沈む「青梅」の涼やかさは「鈍き詩人」の持つ純粋な美しさと少しの薄情さをも表現している。
しかし、鈍いとは〈遅い・はかどらない・愚か〉の他に〈女にあまい・色におぼれやすい〉という意味もある。これは恋句なのかも知れない。人は恋すると誰もが詩人になると云う。「青梅」は、丸やかで張りがあり、桃の実ほど艶やかではないが、少なくとも形状は似ている。詩人(の、ような)の男が汚れなき少女をその無垢な状態のまま養育する――という、光源氏的なものも垣間見えないこともないが、此の句は、愛しい「鈍き詩人」を詠った句であると思える故、彼の作る詩、即ち彼の言動は爽やかで新鮮に見える。その少年のような愚かさに母性愛の如きものが心音を波立たせる。二人の愛も青梅の初々しさのまま醸されていくようである。
過日に掲げたこの章の初まりの二句
羽が降る嘆きつつ樹に登るとき
落鳥やのちの思ひに手が見えて
とは趣きが違うし、苑子俳句にしてはいささか甘い。しかし、〈回帰〉という名の章であり、一周りして元に帰るには様々な物語が展開し、転回されるのであろう。次句もまた詠いあげられていく「恋」の行方を追っていこうではないか。
26.乾草は愚かに揺るる恋か狐か
前句の明色さに比べると昏い苑子調がうかがえる。「乾草」は、家畜の飼料として夏の間に刈り干して置くものだが、「狐」がしのびこみ揺らしていったのではない。「乾草」を揺らしているのは男女の営みであろう。直接の行為でも語らいでも良いのだが、前者の方が句の激情感が増すと同時に、その揺れが激しいほど哀切を帯びる。それは、苑子が「乾草」を選択したことにある。
青々とした(前句の青梅のような)草の中の愛の営みではなく「乾草」という、刈られてしまった、植物としての生命は絶え、家畜に食われる運命を残しただけの草。「狐」は人を巧みに騙すといわれている。「恋か狐か」――「か」のリフレインが切ない。しかし、「狐」は稲荷神社の使いではないか。稲荷は食物を主宰する神、御食津神であり、その使いであるということは、やはり「乾草」の如く食べられてしまうだけの結末であるのか……。
27. 流木の夜は舟となる熱発し
見開き2頁4句に並べられた3句目である。狐(かも知れない)との恋は「熱発し」と至る。舞台は、乾草からの田園(もしくは、田園の中の納屋)から、大海原へと移る。「流木」「舟」は、共に大海原に浮き泳ぐこそ生命存在を確認するものである。「流木」は、樹木としての生命は絶えているが、波に浮いて群れにはぐれた渡り鳥が最後に羽を休める処であり、遭難者、例えば「船焼き捨てし 船長」が一息つけるものかも知れない。しかし、「流木の夜は舟となる」のである。流木が浮く夜の海という状況設定ではなく、流木としての我がその夜は舟となり、一刻、或いは一晩、岸に繋がり人を乗せる。それが、「熱発し」舟となったということである。
苑子の敬愛する三橋鷹女の句
墜ちてゆく 燃ゆる夕日を股挾み 鷹女『羊歯地獄』所収
この凄絶さにはない諦念感の沈澱から漂うエロティシズムが浮遊している句である。
28. 放蕩や水の上ゆく風の音
熱は癒えたのか、冷めたのか――。
「放蕩」という憎み切れない語は、その字の持つ意味、(「放」=かまわずにおく・解きはなつ・赦すこと、「蕩」=広くゆきわたる・揺れ動くこと)と、音に寄る語感であるかも知れないとも思う。「放蕩や」の切字は、一拍置くことを促し、また感嘆詞としての役も担っているのだろう。「水の上ゆく風の音」は、河川や海を詠うのなら格別に際立った中七下五の表記ではないのだが、「放蕩」という物質や現象ではなく(感情的、道徳節をも呼び起こす)、抽象的とも具体的ともいえるその語について詠っているのだから、なんとも掴みどころのない飄々とした様が的確に表現されているのである。(池袋西武カルチャー教室の頃、男性に此の句が好まれていたのも頷ける。)
「水の上ゆく風」は勿論見えない。「風」とは流れていくものである。流れることでその音が聴こえるのである。「風」は水底を知っているのか、知ることができないのか、見る時がないのか、唯、「水の上」を流れていくだけである。まさしく「放蕩」の真髄を語っているのである。けれども、きっと、「放蕩」は、水底まで覗いて知らない振りをして流れていくのであろう。
前回までの流れから行けばそういった起承転結に至るのだが、〈回帰〉は、未だ未だ終わらないのである。始まったばかりである。