(投稿日:2011年10月28日)
●―1近木圭之介の句/藤田踏青
しんしん雪 荷造りされた私の骨が
しんしん雪 荷造りされた私の骨が
しんしん雪 荷造りされた私の骨が
しんしん雪 荷造りされた私の骨が
「ケイノスケ句抄」(注①)所収の昭和56年の作である。ただこの句には「雪のうた」という題があり、しかもこの全く同じフレーズが四行にわたって表記されている。この句集に於いてこの様な表記がされた例は他に「砂丘へ誰が菜の花をすてたのか」の三行表記があるのみである。「砂丘へ・・・」の句の場合は、その句の前提として「果実をおく 砂丘の時間匂う」「砂丘のなか残響が 月に海に私」の句が据えられており、その三行句の後にも「幻想空間砂丘におれが墜ちてゆく」の句が置かれており、これ等砂丘の連作の中での時間の流れの一つの休止的な役割を果たしていると見て理解出来る。しかるに掲句の場合は全く単独に置かれており、作者としてはかなり意識した構成となっている。所謂、句集という形態の中でこの様な表記を行うことは高柳重信の多行表記とは又異なる位置と目的とを示すものと考えられよう。この同じフレーズの四行表記が示すものは、自画像が降り積もる雪のごとく次々と自問自答してゆく様ではないであろうか。そして私の骨から逆想された世界を故郷の金沢に見い出しているのではないであろうか。この様な思いは後年、下記のような句となって再出していく。
肉が骨が無防備 冬銀河 平成7年作
冬銀河の前では人間という私という存在がいかに小さく無防備なことよ、と呟いているかの様である。そして人生という肉から骨への時間的な経過も、この壮大な宇宙時間の中では認識され得ないものの如くに。
心象風景としての冬の自画像としては下記のような作品もある。
自画像の黒い目の奥の雪の風車 昭和30年作 注①
自画像の顔の左右分離して雪の風車 昭和40年作 注①
この自画像と雪の風車とは相対峙する存在なのであろう。黒い目の奥にある雪の風車とは、それによって起こされる吹雪の為に視界を妨げるものであり、その目の黒と雪の白との対比も併せ持っていよう。また、顔が左右分離するほどの風圧は自意識の分裂さへも示唆しているのではないであろうか。
講義は続いている テキストに冬蝶が止まって 昭和51年作 注①
美学とノオトの無い肖像。中国山系葉がふる 昭和52年作 注①
幹の内部わたしが冬へ傾く 昭和58年作 注①
この講義とノオトは現実のものではなく、社会に於ける人生そのものの背景を暗示しており、冬蝶への一瞥はその中でのひと時の安らぎと疑問符かもしれない。また前句は画家としてのデッサン力を上手く生かしており、それは後二句の実景描写から導き出された美意識と心象風景へと還元されてもいるのである。
冬の実よ 異郷にきて噛む一つ 平成3年作 注②
家族に噛みついた死者よ 冬野よ 平成6年作 注②
異郷ゆえに噛みしめる冬の実の固さ、そのしみじみとした味わいが孤独感を深くするようだ。一つは独りに連なり沈潜してゆく趣がある。
この死者の過去世は如何なるものであったのか。家族に噛みつくという行為はある種の反抗であり、しがみつきでもある。それ故に冬野は冷徹な判者でもある。
再び掲句に戻るが、この様な表記法からはやはり詩人としての圭之介の面が押し出されてくる。最後にテーマにそった詩1篇を。
「冬の街」 昭和27年作 注③
街の坂をおりてゆく
港はくれ早く
下方の白い建物の地下は
キャバレーである
無数のうでが人体に生え
おんなの媚態を
くうきがあやうくささえる
地上では寒い風が
骨のような木をささえる
注①「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社 昭和61年刊
注②「層雲自由律二〇〇〇年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊
注③「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版 昭和60年刊
●―2稲垣きくのの句/土肥あき子
短日や灯ともし頃の小買物 句帳より
昭和12年と16年のきくのの句帳が手許にある。といっても、メモ書きのそれではなく、12年は改造社版の俳句日記、16年は和紙綴じの美しい一冊で、どれも完成した作品が並んでいるため、投句の際の覚書と思われる。俳句の前には「一月六日渋沢邸句会」「六月一日特急アジア」など出席した句会や、旅吟の場所などが書かれており、掲句の前には「ホトトギス 昭和16年2月号」とある。
ホトトギス誌を確認してみると、確かに該当号の虚子選一句欄に掲句を見つけることができた。しかし、前後1年をぱらぱらとめくってみたが、この他にきくのの投句を見つけることはできなかった。
きくのが俳句を始めて以来投句を続けていた「春蘭」は、主宰大場白水郎の満州転勤に伴い昭和15年6月号で終刊となり、同年10月に「春蘭」同人であった岡田八千代が中心となって白水郎を選者に「縷紅」が創刊された。誌名は白水郎の別号であった縷紅亭による。昭和19年1月号で休刊となる「縷紅」だが、バックナンバーが確認できるのは昭和17年8月号、18年8月号、9月号の3冊きりである。昭和18年9月号にはきくのの住まいが投句先として表示されている。
ホトトギス投句の時期は、「春蘭」終刊後、「縷紅」と並走してということになる。
ホトトギスとの関係は、白水郎も、のちに所属する「春燈」の主宰になる万太郎も、ホトトギス題詠選者岡本癖三酔が指導する三田句会に属していたこともあり、きくのが「ホトトギス」に目を向けたとしても別段不思議はない。
しかし、ホトトギス掲載の前後の作品を並べてみると、昭和15年「春蘭」3月号には
初髪に觸るる暖簾ットかはし
「ット」はひょいとかわす態であろう。この自在な言語感覚!
また昭和17年8月号「縷紅」には
藻の花や相觸れし手のただならず
藻の花やなんにも云はず別れませう
と、正調きくの節ともいえる作品が並ぶ。
冒頭挙げた「ホトトギス」掲載の句に立ち現れる柔順な女性像もまたきくの自身であることは間違いないが、それでも1号限りでホトトギス投句をあきらめたのは正解だったのでは、と愚考する。
●―4齋藤玄の句/飯田冬眞
寒風のむすびめごとの雀かな
昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
〈寒風〉というと肌の細胞がキュッと引き締まる感じの風。その寒風には〈むすびめ〉があり、その〈むすびめごと〉に〈雀〉がいるという。ふつう風は直線的に吹き抜けてゆくものと思っているが、実は〈むすびめ〉がある、という発見が、この句のユニークさだろう。おそらく、その〈むすびめ〉は風が休息する場所なのだ。そこを目ざとく見つけて、集まっている雀たち。よくみれば、雀は点在している。おそらく、そこにも〈寒風のむすびめ〉があるのだろう。その〈むすびめごと〉に〈雀〉が身を寄せ合っている。ぬくもりをさがすのに長けた雀ならではの振る舞い。一点凝視で〈むすびめ〉を発見した作者の視野が、〈雀〉の補助線を得て、ひろがってゆく。〈ごとの〉の措辞に作者の認識の深まりが凝縮されている。見逃しがちな雀の生態を空間的に把握しながら、〈寒風〉によって温度感をも伝達させている。寒風の冷たさと雀のぬくもりを優しい視線で手渡してくれた秀句。
掲句と同様に、冬の厳しさの中で息づく生き物たちをモチーフにした句をいくつかみていこう。最初に鳥の句を次に魚の句の順。
玄冬の鷹鉄片のごときかな 昭和16年作
つぎはぎの水を台(うてな)に浮寝鴨 昭和48年作
すさまじき垂直にして鶴佇てり 昭和49年作
凍鶴に寸の日差しも来ずなりぬ 昭和54年作
氷下魚(かんかい)は夢見るごとく釣らけれる 昭和47年作
動かぬが修羅となるなり寒の鯉 昭和50年作
一句目は、初期の齋藤玄の代表句のひとつ。厳寒の空を突き破らんばかりに飛翔する鷹の姿を鉄片に喩え、自己と重ねている。「壺」を創刊した翌年の作。当時は「京大俳句」時代からの俳号、齋藤三樹雄を名乗っていた。「音の句」の項でも書いたが、いわゆる新興俳句弾圧事件を背景とした青年の鬱屈と自由への憧憬に満ちた青春性を湛えた秀句。
二句目は、結社同人間の政治的な振る舞いに疲弊して、長らく俳壇から遠ざかり、個人誌を出していた玄が「壺」を復刊した年の句。昭和50年刊行の『狩眼』および全句集の表記に従ったが、昭和53年刊行の自註(*2)では、下五を〈浮寝鳥〉と改変している。〈つぎはぎの水〉を才智とみるか、凝視とみるかで評価は分かれるだろう。私は〈台〉の一語で、〈つぎはぎの水〉が浮寝する水鳥の不安定さを射抜いているように思うが、いかがだろうか。
三句目の〈鶴〉は、一句目の鷹とは対照的に空から舞い降りて、大地に降り立った姿を詠んでいる。テレビを通して、世界中の動物の姿態を観てきた我々の目からすると〈垂直にして〉がやや安易に思える。だが、作句年次を考えると一般家庭におけるテレビの普及率はまだそれほどでもなかったはずだ。厳寒の北海道の丹頂鶴を実際に見た者でなければ〈垂直にして〉は出てこない。雪原の広さも見えてくる。
四句目は句集『雁道』を刊行した昭和54年の冬の作。遺句集『無畔』に収録。〈寸の日差しも来ず〉の措辞に雪に覆われてほの暗い天空を仰ぎつつ佇つ〈凍鶴〉の姿がありありと浮かび上がる。
五句目の〈氷下魚(かんかい)〉は「こまい」の北海道における呼称。海面の氷に穴を開けて釣る。氷下魚の稚魚は目の周りがほんのりとピンク色に染まっており可愛らしい。〈夢見るごとく〉によって、氷の穴から釣り上げられたばかりの氷下魚の姿を活写している。
六句目は、水底に魚体を沈めてじっと動かない姿から〈寒の鯉〉の執念を読み取っている点に特徴がある。動きたいが動けない、鯉と水との相克を、〈動かぬが修羅となる〉とした措辞に玄の底知れない独創性を感じる。
今まで見てきたように冬の生き物を詠んだ玄の句は、的確に季覚と空間をとらえており、そこに卓抜した凝視の力と景物の情感に甘んじない、堪え性の強さを感じる。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
●―5堀葦男の句/堺谷真人
カレンダー配るやさしく打つ真似して
『山姿水情』(1981年)所収の句。
師走になると、新しいカレンダーが刷り上がり、取引先や社員に配られる。フォトジェニックなモデルを起用した大判ポスター風のもの、コンパクトで実用的な卓上型、花鳥画をあしらった掛け軸タイプなど意匠も仕様も千差万別である。経費節減の近年、たとえ部数はぐんと絞られても、相手先の自宅や職場で社名や商品名を長期間継続的に露出できるカレンダーは、手頃な宣伝物として依然重宝なアイテムなのだ。
葦男の第四句集『山紫水情』は1975年から1979年までの作品を収録する。日本経済が第1次オイルショックの苦境を脱し、再び成長軌道に乗った頃である。当時、歳末の挨拶として今よりずっと多くのカレンダーが流通していた。葦男は繊維業界の団体に勤務していたから、職場には服地メーカーやアパレルメーカーのものも届いたはずだ。最新モードに身を包んだファッションモデルたちが颯爽と闊歩する華やかな意匠。丸めたカレンダーで相手の肩をぽんと打つゼスチュアからは、美しいものに感応した女性職員の心の弾みのようなものが伝わってくる。
それにしても何と明るく軽妙なスケッチであろう。過去に葦男が描いた職場風景からはおよそ想像もつかない明るさと軽やかさである。比較のため、第一句集『火づくり』最終章「火の章」から引いた次の10句を見て頂きたい。
動乱買われる 俺も剃り跡青い仲間
信に遠きことばかり鉛筆の濃緑削ぐ
午前の憤(いか)り首大の球壁へ打つ
夜は墓の青さで部長課長の椅子
事務の波間に黒の無言の島沈む
靴の中の指らの主張寒い会議
見えない階段見える肝臓印鑑滲む
ある日全課員白い耳栓こちら向きに
リコピー書類他を焦がす汚染する友情
揉み捨て鳴るセロフアン空席者の意見
1956年から1962年にかけて、40代前半の葦男が描き出した職場風景はこのように陰鬱極まりないものであった。動乱を商機とする背信の日々。上司や同僚、部下との間に育つ疎外感。そして、組織の中で汚れ、疲れゆく個。葦男は職場の日常の随所に露頭を見せる「極限状況」にとことん向き合っていたのである。この間の消息については、以下の金子兜太の評語に譲るのが良いであろう。
葦男の感性にある暗さ(中略)が批評意識によって刺激されて募りつつ、批評をより暗鬱に盛り上げていくことにもなって、こうした作品がつくり出されたことは間違いない。当時の社会情勢に向って意識的に批評的に自己表現しようとするとき、誠実な人柄だけに過剰反応していて、その結果のことといえなくもない。
(遺句集『過客』序 1996年)
まったくの余談ながら、東宝映画の社長シリーズ第1作『へそくり社長』(森繁久彌主演)が公開されたのは1956年、同じく東宝のドル箱となったクレージー映画第1作『ニッポン無責任時代』(植木等主演)が公開されたのは1962年のことである。これらの娯楽映画と葦男の作品が同時代のサラリーマン社会の空気を背景に生み出されていることは確認しておいても良いかもしれない。
●―8青玄系作家の句/岡村知昭
喋るより黙しがちなる凍鶴忌 小寺正三
初出は「青玄」1957年(昭和32)8月号、「草城一周忌追悼作品」のうちの一句、
この特集には同人90名のそれぞれ一句が掲載。季語として用いられた「凍鶴忌」とは、日野草城の命日である1956年(昭和31)1月29日のこと。
草城と「鶴」といえば代表作である「高熱の鶴青空を漂へり」をはじめとした作品の数々が思い出されるが(第2回で取り上げて鑑賞しているのでご参照いただければ)、この一周忌へ向けて草城の命日を修するにふさわしい言葉として、俳号をそのまま使った「草城忌」、最後の句集のタイトルから取られた「銀忌」(しろがねき、ひらがなでの使用例もあり)とともに、「凍鶴忌」と「鶴唳忌」という草城と「鶴」のイメージから生まれたふたつの語があったのだが、この追悼特集では「凍鶴忌」が多く用いられたのに対して、「鶴唳忌」は八幡城太郎が「鶴唳忌夜雨がありし土やはらか」の一句のみ。「青玄」誌の中での定着の度合いに大きな差が出ているのがうかがえる結果となった。ちなみに「草城忌」の句においても「鶴」のイメージを背景にした作品がいくつか見られるので、合わせて引用してみる。
かの微笑まざまざとあり凍鶴忌 日野晏子
凍鶴忌とて美しい火を囲む 伊丹公子
酔はぬ酒に想ふ凍鶴忌といふことを 播本清隆
天より鶴の羽音高鳴り草城忌 板垣鋭太郎
ねんねこの鶴の模様や草城忌 平井石竜
ではなぜ「凍鶴」が「鶴唳」より受け入れられたのだろうか、と考えてみたい。草城の「鶴」の句は高熱の身体を空を漂わせている、天高く飛べない己への嘆きに溢れているかのような姿を見せており、「凍鶴」の静かさの極まる立ち姿とはどこか違う存在であるはずで、「鶴唳」のほうがふさわしいと思えるくらいでもある。だが「青玄」誌の同人たちが抱いた草城のイメージはどうやら空高く鳴き交わす鶴ではなく、細い脚を貼り付けているかのように地に付けて、厳しい冷気の真っ只中に立ち尽くす「凍鶴」であった、ということなのだろう。そこには戦前の才気を前面に押し出した作品群から来る華やかさと、戦後の病床での生活によってもたらされた沈静に満ちた作品群とままならない身体と俳人としての活動への不如意の部分、そのどちらをも抱え込んだひとりの俳人の命日を修する語としては「凍鶴」は「鶴唳」より確かにふさわしく思われたのだろう。
掲出句はそんな「凍鶴忌」の印象が充分に生かされた一句である。「喋るより黙しがち」なのは師の命日を迎えた自分自身であり、同じようにこの日を迎えた弟子たちであり、そして亡き師の家族であろうが、亡き師もまた「喋るより黙しがち」な人であったことよ、との感慨も深く一句には込められている、亡き師は病の痛みも生活の苦しみも創作の苦悶も、それら一切の何もかもを引き受け、嘆きの数々をけっして見せようはせず、静かに微笑んでいた人だったのだと。草城との日々の記憶が鮮やかに残るなかでの追悼の一句として、草城の静かなる立ち姿を見届けたひとりである正三は「喋るより黙しがち」以上のことを喋らないように何とか踏みとどまっている、それこそが師である草城の忌を修するにもっともふさわしい態度であると自らに言い聞かせているかのように。
最後にもうひとり「凍鶴」の句を紹介したい、作者は草城の第2句集「青芝」の扉に登場する愛娘の温子さん、この頃「青玄」の一員であった。父から句集の冒頭に「温子よ はやく 大きくおなり/ちよこちよこばしりが できるやうになつたなら/青い芝の上で 鬼ごつこをしよう」と呼びかけられた娘が、いまは亡き父への想いを寄せた一句である。
冴ゆるなり凍鶴星となりて燦 日野温子
●―9上田五千石の句/しなだしん
剥落の氷衣の中に滝自身 五千石
昭和五十年作。第二句集『森林』所収。
見立てと擬人化のオンパレード、かなりしつこい句ではある。
凍滝にかかる「剥落」は見立てであり、「滝自身」は滝の擬人化と言えるだろう。そして極めつけは「氷衣」だ。これは「ひょうい」と読ませる造語らしい。ただこの「氷衣」、強引な語彙ではあるが自然に受取れなくもなく、音では「憑依」も感じさせて、この句では面白い効果を生んでいる。こういうしつこい句、私は嫌いではないのだ。
*
この句は、冬の滝を詠んだ連作と思しき四句の最初の一句で、他に、
凍滝の膝折るごとく崩れけり
氷結の戻らねば滝やつれたり
涸滝をいのちと祀る三戸はも
が続いている。最後の句は「涸滝」であるから、一連とは云えないか―。
五千石の句集には地名をはじめとする前書のある句が割合多く、この『森林』もそれに洩れないが、掲句を含む連作には前書は無い。『上田五千石全句集』(*2)の「『森林』補遺」のこの時期には当該句の掲載がないことから、この関連はこの四句がすべてと推測される。このことから、これらがどこで詠まれた句かは定かでなく、吟行の際の即吟ではないように思われるが、「凍滝」等の題詠だという証拠も無い。
この句の制作年、昭和五十年は、昭和四十八年にはじまった「畦〈通信〉」が正式に「畦」として月刊誌となった年にあたる。言えば「畦」が活発に活動していた時期であろうし、五千石自身もスランプから脱し、吟行やもちろん題詠句会などに精力的に動いていた時期であろう。この精力的な時期に生まれた、精力的な句、ということになろうか。
*
以前、私は北海道知床で、素晴らしい凍滝を見た。そのとき、自然が創り出した造形を前に私は言葉をなくし、ただの一句も詠むことができなかった。掲句はどこの凍滝か不明だが、その荘厳な凍滝の様をまざまざと思い起こすことができる。
五千石の句としてはあまり表に出てこない作品であるが、冬の「凍滝」の句として、私の愛誦句となっている。
*1 『森林』 昭和五十三年十月十日 牧羊社刊
*2 『上田五千五全句集』 平成十五年九月二日 富士見書房刊
●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井
昭和57年12月という時点は、憲吉を見ると面白い時期である。この月、健吉は還暦を迎える(26日が誕生日)。
その1か月前から弱気な句があふれる。
寒く剃り寒く呟やく「還暦か」
自鳴鐘カンレキといま零時打つ
冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン
12月になると、
多岐多雑多弁多職で今年も昏る
更けて柚子湯に恋潰すごと柚子潰す
いつも冬愁苔を撫でれば苔妻めき
師走二十六日いま死ねば憲吉忌 炎ゆ冬バラ
死ねば野分が葬送してくれるか君らの怨歌
一見反省に満ち満ちているようだ。ちなみに、「死ねば野分」は加藤楸邨の「死ねば野分生きてゐしかば争へり」を借用したもの。憲吉にはこの類が多い、自分他人を問わず洒落た文句は共用と考えていたようだ。それでも、六十歳という節目の年は憲吉も粛然とする思いを抱かないではいられなかったのだろう。
しかし、性懲りのないのが憲吉という人。
ハンドバックは男のポケット愛経て恋
ポインセチアの緋が訴える遅き帰宅
同時期にこんな句を詠んでいるし、翌年には、
島擁く港私を繋ぐあなたは虹
街は傘咲かせあなたはオベリスク
窓に虹のけぞる七彩 女体も亦
と憲吉調が絶好調である。さて話を戻して、
多岐多雑多弁多職で今年も昏る
を裏付ける活動を上げてみよう。
『春の百花譜』『食は「灘萬」にあり』『美味求心』『女ひとりの幸はあるか』『みそ汁礼讃』『会社の冠婚葬祭』『食べる楽しみ・旅する楽しみ』『洒落た話のタネ本』『東京いい店うまい店』『結婚読本』『女が美的に見えるとき』『言いにくい、困ったときの話し方』『全国寺社めぐり』『味のある話』『手紙上手になる本』などなど。この1~2年書いた本であるが俳句関係はほとんどない。おそらく憲吉がすっかり吹っ切れた時期がこの年であったのではないか。シニカルながら安住の地を見つけた楽しさがある。
以上すべて『方壺集』。
●―12三橋敏雄の句/北川美美
こがらしや壁の中から藁がとぶ
冬が来る。突風がごうごうと凄まじく吹き渡り戸を叩く。何かが飛んでいく音がする。疾風の中に藁が混じって飛んでいくのである。土壁の中にある藁である。壁の中で粘土に混ぜられ埋め込まれている藁が飛ぶのだから通常ではありえない風景であり、超現実的(シュール)と言える句だと思った。街が荒野となり、心の荒び、あるいは叫びのようなものを感じる。
「凩・木枯」は、秋の末から冬の初めにかけて吹く、強く冷たい風のことである。木を吹き枯らすものの意味がある。東京・大阪限定として「木枯らし一号」「木枯らし二号」などの冬型の気圧配置になったことを示す気象用語でもあり、風速8m/s以上の北寄りの風であるらしい。枯葉を吹き散らし擂粉木のように木を丸裸にしてしまう風。
初めてこの句に接したとき、その発想、その創意に驚いた。時を経て、東日本大震災を契機とし、それは幻想ではなく、実景ではないかと思い始めた。北関東地区には蔵を多く持つ家が残存し、多くは土壁が剥がれ落ちる被災状態を目の当たりにする。剥落後の壁の中に確かに藁が埋め込まれている。考察するに江戸時代の藁だろうか。ドライハーブを越え植物のミイラである。壁の剥落を見ているうちに、同じような風景を敏雄も見たのではと思えてきた。句の制作年は終戦直後の昭和21年であり戦争の爪痕が激しく残っていた時代である。
土壁は、木舞(こまい)と呼ばれる竹と藁で編んだ格子状の枠組に粘土質の土と藁スサを混ぜたものを塗り込んでいく日本の伝統工法である。竹、土、そして藁という自然の素材は製品完成後も呼吸をしている。掲句の「壁」という一見無機質な言葉に隠れているのは、「土」という粘り気のある天然素材である。「土着」「土地」というように土の上に人が暮しているのである。掲句は、家、家族の崩壊とも読めなくない。以下の句もある。
しづかなり一家の壁の剥落は 『長濤』
前回でも触れた、昭和21年頃の敏雄の作品には古俳句の風格漂う句をみる(*1)。敏雄26歳の枯れぶりには驚くばかりである。新興俳句弾圧の二次的な傷が古俳諧に向かわせたのだろう。同年、敏雄は渡邊白泉、阿部青鞋との再会を喜び合い、歌仙(*2)を巻いている。白泉が檜年、青鞋が木庵、そして敏雄が雉尾という俳号である。句そのものも古俳諧の趣があり、江戸の華やかさに通じる終戦の解放感がある。同じ頃、三鬼との師弟関係、今後の俳句創作について混沌とした時を過ごしていた時期とも一致する。後の昭和23-26年の4年間、敏雄は作句を中断する。
冬の到来を告げる「こがらし」は淋しく凄まじい。山々が唸り、バケツが飛び梯子が倒れる音も、荒々しい命がそこにあるようだ。疾風とともに藁が飛びゆく音を壁の内側でひっそりと聞く人の吐息をも想像する。冬の眠りにつくものも何処かで息をしている。作句中断が敏雄における「冬の時代」ならば、その間も波の間で息をする敏雄がいる。
*1)昭和21-22年の終戦直後の作品は、三冊目の句集『青の中』に「先の鴉」と題し42句収録。上掲句は巻頭に置かれている。
*2)歌仙『谷目の巻』とし、「俳句研究」昭和22年4月号に発表。弾圧によりほぼ消滅していた句を収集し敏雄が編纂に尽力した『渡邊白泉全句集(沖積舎)』に収録。
●―13成田千空の句/深谷義紀
仰向けに冬川流れ無一物
第1句集「地霊」所収。
一読、冬の津軽野の景が目に浮かんでくる。平野に川が走るが、冬涸れで水量は乏しい。そのどことなくうらぶれた様子が、当時の千空の生活状況あるいは心境と重なり合ったのだろうか。自らの姿を投影した作品とも言える。
眼目は「仰向けに」という措辞だろう。無論、直接的には冬川の様子を上空から鳥瞰しての描写であるが、謂わば無防備に己をさらけ出した、あるいはあっけらかんと開き直ったような川の姿に、千空は、ある意味での潔さを感じ共感を覚えたのだろう。
千空は、若き日に肺を病み、4年にわたる療養生活を送った。折りしも太平洋戦争の時期と重なる。戦後も開墾地での帰農生活を五年ほど送り、その後五所川原に小さな書店を開いた。作句当時の経済状況の詳細は不明であるが、過ぎし日に「無一物」の生活を送った自分の姿を、冬涸れの川の景に重ねても不思議はなかろう。
その後も、決して豊かとは言えない生活が続いていた筈だが、徒にそれを哀しむわけではない。千空には、後年、次のような作品もある。
びんばふが苦にならぬ莫迦十二月 「百光」
こうした骨太の向日性が千空の人柄あるいは作品の魅力である。
技法的には典型的な擬人法ということになろうが、決して安易な見立てに陥ってはいない。それは、上述のような深い共感に裏打ちされているからだと考える。
実は、津軽でこうした光景が見られるのはそう長い期間ではない。冬が来れば、やがて雪が降り、一度降った雪は根雪になる。津軽平野は何もかも雪に覆われてしまうのである。千空が見た川の姿は、その直前の一瞬の光景でもある。
●―14中村苑子の句 【『水妖詞館』― あの世とこの世の近代女性精神詩】29.30.31.32/吉村毬子
29 まさぐる終焉手に残りしは苦蓬
「終焉」それは死に臨むこと、今際(いまわ)ということでもあるが、あの世とこの世を行き来する女流俳人の異名を遺す苑子のその一端を掲句からも伺うことができよう。
「まさぐる終焉」とは、死を了解し、死を探しあて弄ぶということである。私が頂いた『水妖詞館』の感動を、拙い言葉で述べた四半世紀前、それは苑子の晩年であるが、「この句集を出した頃はある病気で死ぬと思っていたのよ。」と語っていたことを思えば、自身の人生の終わりに接し、思い残すことを詠んだ句なのだと納得できるのだ。けれども、前回からの流れから察するに、恋への葛藤が描かれているような気がしてならない。
この死は、肉体的な死にまでも至る恋の「終焉」と呼べるのではないか。しかし、それは放っておけばなるがままになり、そう苦しまなくとも済む筈であるのに、自らの手でまさぐり、終末を引き込んでいるのだ。その「まさぐる」行為が自虐を極めた後、「手に残りしは苦蓬」である。真夏の激昂する陽射しの下、強烈な臭気を放つ「苦蓬」が恋の残骸の如く己が手に残る。もはやその苦蓬は苑子にとって生薬としての効きめも失い、薄い掌の上で、無音無風の真夏の妖気にも似た臭気が立ち込めるだけである。
30 愛重たし死して開かぬ蝶の翅
前章〈遠景〉に次句がある。
撃たれても愛のかたちに翅ひらく
前句に蝶の翅の指摘はないけれども、此の句を意識して、念頭に置いて書かれたように思われる。
かつて、どんなに「撃たれても」「翅ひらく」ことを念じていた「蝶」は、「愛」という名の元に「死して開かぬ」蝶であったのである。撃たれることには耐えられても、「愛」の重さに撃ちのめされ「死して」しまったのだと告げる。愛とは永遠には、見つめられない、叶えられないものなのだからと、薄い翅に支えられるほどに一刻だけの春風に舞う蝶も多いであろう。苑子の苑に棲む蝶は、その一刻にも一生命を掛けて翅がちぎれる程、舞い狂う。それは、死を招くことと解ってはいてもそうせざるを得ない性なのである。
この両句について、苑子と話をしたことがあるが、「若い頃の句で恥ずかしい」と笑っていた。決してナルシズムの範疇を出る句ではないが、詩人は若書きにこういった句を幾つかは残しているものである。恥ずかしいとは言いながらも厳選した25年間の俳句苦業のなかの139句に入れているということは、作者にとって何がしかの思い入れがある句なのであろう。〈撃たれても愛のかたちに翅ひらく〉は、苑子がある日旅先で、此の句の短冊を見つけたと言い、「今度皆で一緒に是非観に行きましょう」とお誘いすると、「恥ずかしいわ」と、また言った。果たして、それが何処にあるのか、聴きそびれたのか、聴いたはずが忘れてしまったのか、解らず了いである。遠い遥かな処で「愛のかたちに翅ひらく」蝶が、今も確かに存在しているのである。
31 逢へばいま口中の棘疼き出す
死まで思い至る恋愛の傷が癒えぬ内に、忘れたいのに忘れられないその顔を偶然目にすることがある。またこちらの悲哀など感じていない相手は、何の悪気もなく連絡して来たりするものである。絶望に打ちひしがれた思いを、やっと喉元へ押し込めようとしていた矢先の再会の言葉は、「口中の棘」となって「疼き出す」。言葉にならず自身を刺すどころか、目の前の相手へも口中から零れ落ち刺してしまいそうな予感さえ持つ。
「逢へばいま」は、〝今逢ってしまったならば〟という仮定に置き換えて読んでいたのだが、何度も読み重ねるうちに〝逢ってしまった今〟という現実感として捉えた方が、緊張を伴う臨場感が伝わり、句が鮮明になってくるように思われる。
しかし、掲句の口語体の調べに流れる一句一章は、俳句というかたちを成すが、詩や短歌の部分的な句とも差がないように思われる。むしろ、「疼き出し」と続けた七七の下の句の転換を望むのは私だけであろうか。前句からの流れの展開からすると致し方ないのであったか……。七七への欲求不満を抱えて次句への転換を見てみよう。
32 狂ひ泣きして熟練の鸚鵡をくびる
毎回見開き2頁4句を観賞しているため、(昭和50年俳句評論社刊、初版『水妖詞館』)今回の一句目「まさぐる終焉手に残りしは苦蓬」からの流れを物語風に追えば、自虐的ではあるが、重たい恋への窶れを抱えながら、家に帰り着くと、常日頃は楽しみや慰めにもなる愛玩の鸚鵡のおしゃべりが煩わしくて、ついには殺めそうなことにもなってしまったということになる。「狂ひ泣きして」「くびる」のである。
「熟練の鸚鵡」とは誰であろうか。前掲の句、
鈍(のろ)き詩人(うたびと)青梅あをきまま醸す
の「鈍き詩人」ではなさそうに思われるが、先にも述べたように〈鈍き=女に甘い、色におぼれやすい〉とも言える。言葉に熟練した饒舌な「鸚鵡」は無垢に見えたあの詩人ではないだろうか。
死のまなざしの
はにかみに
首をかしげる
黒髪格子 重信「蒙塵」所収
苑子と「俳句評論」を立ち上げ、後半生をともにした高柳重信の多行形式の一句である。俳人同志の家庭であるから(自宅が発行所でもあった)、俳句のことで議論になることも多々あった。
この多行形式の俳句の四行目「黒髪格子」は、苑子が秘かにあたためていた造語であり、掲句は、それを重信が無断で使用してしまったため、喧嘩となったと聞く。そして、重信はお詫びにと
中洲にて
叢葦そよぎ
そよぎの闇の
残り香そよぎ 重信「蒙塵」所収
と、頭韻に〈中・叢・そ・残〉(なかむらそのこ)と名前を詠み込んだ句を作ったのだと、半ば、のろけるように笑いながら語ったことがある。
また、重信の此の句について、随筆集『俳句礼賛』にて綴っている。
松島(まつしま)を
逃(に)げる
重(おも)たい
鸚鵡(あうむ)かな 重信『日本海軍』所収
海防艦の「松島」は、草間(時彦)氏の鑑賞文(「俳句研究」昭和五十九年七月「高柳重信特集号」)のとおりに、わずか四千七百噸の小艦にもかかわらず、三十二サ((ママ))ンチの巨砲を積むという無謀を敢行したために、砲撃のたびごとに艦首が反動で回転し、照準が逸れてしまうというお粗末さだったが、涙ぐましいまでのその健気さを愛して巻頭に挙げた、と高柳は言っていた。しかし、おそらくそれだけではなかったであろう。折りにふれては僕は現代の芭蕉だなどと冗談めかして言うこともあったから、芭蕉が、待ち焦がれた松島の、想像を絶する造化の妙に魂をうばわれながら「いづれの人か、筆をふるひ、詞を尽さむ」などと言って、一句も残さなかったことに対して、自分の新歌枕を以て挨拶をしたのではあるまいか。さらに、そこに鸚鵡をしつらえたのも、わが身の、晩年、肥えてきてお腹がせり出してきたのを「高柳重信らしからぬ」といって嘆いていたから、あるいは、自画像だったか、とも思われる。(括弧内補筆は引用者。)
俳句にその生涯を懸けた連合いへの、同志としてのあたたかな眼差しが感じられる文章だが、やはり、「鈍き詩人」「熟練の鸚鵡」は重信がモデルなのである。
二人は男女間についての痴話喧嘩も公然としていたと聞く。
人前で、喧嘩を締めくくってしまうことで尾を引かないようにしていたらしいとも――。
句作の動機や舞台裏はどうであれ、この句における醍醐味は、「狂ひ」「熟練」「くびる」のク音、ジ・ビの濁音が「鸚鵡」の繰り返す甲高い声と反響し合い、女の感情が昂揚し狂っていくことで、驚異の結末に至るという演出効果に読み手が引き込まれていくということにある。
掲句は句集出版の62歳(昭和50年)以前に書かれた句であり、女としての「狂ひ泣き」が生々しいが、三橋鷹女は、56歳(昭和30年)で次の二句に狂を詠んでいる。
狂ひても女 茅花を髪に挿し 鷹女『羊歯地獄』所収
祭太鼓鳴り狂ひつつ自滅せり 〃
二句とも、自身を詠ってはいないようであるが、明治女の気骨の術が、狂ふことを自我へと埋没させる鷹女の悲哀が滲み出ている。
更に二人の晩年の狂の句を比較してみよう。鷹女73歳(昭和47年)、苑子80歳(平成5年『吟遊』以後、平成8年『花隠れ』所収)。
千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き 鷹女『橅』以後
炉火爆ぜて一会狂ひし夜なりけり 苑子『花隠れ』所収
鷹女の死を意識した(没年の作)とも思われる壮絶な生への「狂ひ鳴き」に比べると、鷹女よりも10年の歳月を経た苑子句(没年の5年以前の作)は、鷹女と比べても壮健な苑子の、女であることの証しを書き留めておきたいという思いが描かれているようだ。これもまた生への壮絶さの表出なのだろう。