草色の蜘蛛
竹皮も太き蚯蚓も乾ききる
夏帽子草色の蜘蛛乗せてくる
縞馬の尻の縞見て白日傘
ざりがにを踏んで行きたる蹄かな
どこからか煙草の臭ひ熱帯夜
・・・
今年の暑さも尋常ではないが、昨年の今頃も残暑が厳しかった。その暑い中を伊丹市立ミュージアムへ出かけた。
「虫」展が開催されていたのである。
『病葉草紙』(京極夏彦著・文藝春秋社刊)の書評を読み、ちょっと興味を持ったタイミングで、この「虫」展の図録を頂いた故でもあった。
頂いた「虫」展の図録、それが何とも楽しいものだった。
古来の虫達を題材にした作品が次から次へと。これは図録でもこうなのだから、実際の展示を見なければ、なのであった。
虫は良きにつけ悪しきにつけ人の暮らしにとても近いものだったのだと、改めて思いながら会場を巡った。一つ一つの虫の描写も細密あり、豪放あり、絵師・画家の個性が現れていて多種多様であった。
そして、圧巻はやはり絵巻物である。玉むし物語や大名行列、虫歌合せ、合戦の図等々。
『玉虫草子』を題材にした絵巻は、玉虫の姫をめぐる殿ばらの歌の数々、平安貴族を模した装束。嫁入り行列の従者達の装束も然り。流石に馬に乗る者はなくて、蛙に乗せているところなどは可笑しくも納得できる。調度品も丁寧に美しく描かれていて、見飽きない。
これは人の姿や暮らしに擬えて描かれているが、酒井抱一の『虫之大名行列図』になると蜂は蜂、飛蝗は飛蝗の姿で毛槍等ではなく野の花や稲穂などを持たせて行進させている。一番気に入ったのが、長持の代わりに足長蜂の巣を担がせていることだった。この蜂の巣の部分だけでも欲しいな~、本当にそう思った。
ここでつまらぬことを考えるのが私で、四本足の動物なら人の姿に似せて描くのもある意味容易かもしれないが、六本足(脚)の昆虫の類なら中の一対は邪魔ではないのだろうか、といらぬことを思うのである。
目を凝らして見たけれど、この胸の一対の脚はどう扱われているのかよく分からなかった。胸元に畳んでいるのか、前脚に物を持たせているから、それを補佐しているものか……。
それはともかく、どちらの絵も人気を博したことだろう。
虫も美しいもの、愛らしいもの、声の綺麗なものばかりではない。見た目で嫌われるもの、毒針などをもって怖れられるもの等々さまざまである。蛇や蜥蜴、百足や蝸牛や蛞蝓も虫の仲間に入れてあるが、分類上はどうなるのだろう?
そして、ここから京極夏彦の小説『病葉草紙』と重なるところに至るのだが、つまりこの場合の虫は人体内部に巣喰う虫のことを指し、この虫に取り付かれることで病が起きるという考え方である。この展覧会に加えられていたことにも驚いたが、確かに虫に違いはない。俗に腹の虫とか疳の虫などともいうことだし。
この展覧会にも出展されていた九州博物館所蔵の『針聞書(ハリキキガキ)』収載の物から発想を得たということであろう。
結局小説『病葉草紙』を買ってしまった。
江戸時代(田沼意次が失脚した頃)の八丁堀近くの長屋が舞台でそこの差配、正しくはその差配の倅と、店子であり友人でもある学者とが織りなす物語である。
死人、病人、事件、事故諸々、この本草学者という若者にかかると全てが「虫」の為す技だということになる。
虫といっても想像上の物。『針聞書』に記載の多くの虫の中から八種を選んで書かれた短編を纏めたものである。
「馬癇(ウマカン)」「気積(キシャク)」「脾臓虫(ヒゾウノムシ)」「蟯虫(ギョウチュウ)」「鬼胎(キタイ)」「脹満(チョウマン)」「肺積(ハイシャク)」「頓死肝虫(トンシノカンムシ)」という虫が引き起こす騒動の顛末を描く八章からなるのだが。注釈が無ければ私などは一つとして解らない。
そもそも『針聞書』なる書物は東洋医学の鍼の指南書であるとのことだが、素人が見ても愉快なのがその疾患を引き起こすという虫共を絵に現わしているところだ。
よくこんな形を思いついたものだと、感心し、納得し、不思議がり、主人公達の遣り取りもあって、気が付けば最後まで読んでいた。京極夏彦は名前は知っていたが、読んだのはこれが初めてだった。
そして、小説『病葉草紙』に登場する虫たちの図も全部があった。
(2025・8)