2025年8月22日金曜日

新現代評論研究:『天狼』つれづれ (4):創刊号「実作者の言葉」…「定型」「現実」/米田恵子

 『天狼』の「実作者の言葉」は、主宰である山口誓子の「言葉」である。昭和23年1月の創刊号から昭和25年12月まで続いて中断した。「実作者の言葉」の内容は多岐にわたる。随筆のようなものから、そのときどきに誓子が関心を持っていたこと、あるいは『天狼』に発表した俳句やもっと前に詠んだ俳句についての誓子の言い訳のようなものなどが掲載されている。

 例えば、創刊号には、「定型」という題で、一回では納得がいかなかったのか、同じ号に「定型 ふたたび」と書き、同じように「現実」という題で「現実 ふたたび」と繰り返す。

 「定型」では、『ロチの結婚』(1872年、フランス海軍士官としてタヒチを訪れ、島の女王の寵遇を得たピエール・ロチが書いた実際の体験のような小説)の挿話の引用である。タヒチの王女が小鳥を放つという場面で小鳥たちは戸を開いても出てこず、一羽一羽手で出して森に放したという。「定型 ふたたび」では、内田百閒の『新方丈記』から、飼っていた目白の餌やりをするとき、戸を開けていても目白は出て行かないという。目白は籠の外へ出ると生存競争に負けてしまうと知っているから出て行かないと内田百閒は書く。

 そもそも「定型」とは、俳句では五・七・五である。俳句を俳句たらしめている文学形式と言っていいだろう。誓子はただロチと内田百閒の文を引用するだけである。あとの解釈は、読者に任せられているのだろう。というわけではないが、私なりに解釈してみる。

 「第二芸術論」で俳句がレベルの低い芸術だとされ、さらに新しい俳句を模索する俳人でもある誓子は、自由律ではなく、江戸時代以来の「定型」にこだわる姿をタヒチの王女の小鳥や百閒の目白に見たのだろう。悪い意味にとれば、「定型」という籠から出て新しい俳句を求めればいい、求めたいがそこから抜け出せないという意味にとれる。一方、いい意味にとると、「俳句」は五・七・五「定型」が基本である。これは破ることはできない、これを守り抜くのだという意味にもとれる。誓子は、後者のほうであるが、敗戦により新しい時代を迎えたのだから、俳句も五・七・五という殻を破って新しい方向を目指してもいいのではないかという誓子の迷いともとれる。明確な答えを出していない「定型」「定型 ふたたび」である。

 次に「現実」「現実 ふたたび」についてふれる。「現実」では、ゲーテの「現実から詩の動機と材料を得なくてはならぬ。私の詩はすべて、現実に暗示され、現実を基礎としている。捏造した詩を私は尊敬しない」を引用し、誓子は「現実尊重」を言う。「現実 ふたたび」では、芭蕉の「俳諧の益は俗語を正す也。つねに物をおろそかにすべからず」(くろさうし)を引用して、ゲーテの言との共通性を見いだす。誓子によると、「正す」は、俗語を詩語の高さにまで高めることであり、これは言語だけでなく、詩の対象である現実についても言い得るとし、「つねに物をおろそかにすべからず」は「現実を大切にする」つまり「現実尊重」ということになる。ゲーテと芭蕉の言葉における共通性を見いだす誓子である。

 誓子の「現実尊重」という作句姿勢は、例えば、スポーツを詠んだ俳句において、誓子が実際に行ったスポーツの俳句しか作っていないことがいい例であろう。誓子が親しんだスポーツは、樺太でのスキー・スケートであり、樺太から転校してきた京都一中でのラグビーとの出合いである。スポーツに関してはこの3つのスポーツの俳句を作っていて、誓子は他のスポーツの俳句は作っていない。ただし、野球については、『天狼』の会員にも阪神ファンが多いと推察するが、ナイターを見に行ったり、高校野球のゲストとして甲子園に行ったりしているため、ナイターや甲子園球児の句を作っている。

 今回も、前々回「(2)『天狼』創刊号の「こほろぎ」」と同様創刊号の「実作者の言葉」について書いてみたが、月一回と継続して書くことの難しさを痛感する。よく雑誌などに毎月連載している作家がいるが、私にはできないと反省している。あせらないで、『天狼』と向き合っていきたいと思う。