2025年8月22日金曜日

【新連載】新現代評論研究(第10回)各論:仲寒蟬、後藤よしみ

 ★―1 赤尾兜子を読む4 /仲寒蟬

 7. 滄桑の夢ならなくに師走かな

 「山梨宮戦争犯罪容疑者と指定さるに二句」と前書のあるうちの二句目。

 山梨宮を調べても山梨縣護国神社の摂社としてしかヒットしない。山階宮と梨本宮はいる。うち戦犯となったのは梨本宮守正王、久邇宮朝彦親王の第四王子。元帥陸軍大将でもあったが戦犯とされたのは伊勢神宮祭主、つまりは国家神道の親玉であるという理由らしい。皇族唯一のA級戦犯として巣鴨プリズンに拘留されたが半年後に不起訴で釈放された。

この句の前書にある「山梨宮」は恐らくこの梨本宮の誤記であろう。この人自体、別に表立って活躍した形跡はなく閑院宮、伏見宮、東久邇宮、朝香宮ほど戦意高揚に努めた訳でもなかったようだ。連合軍による一種の見せしめとも言われる。

 兜子からすれば軍部、政府、皇族などはみな結託して国を滅亡へ追い込んだ連中であるから梨本宮であろうが伏見宮であろうが意味合いは同じであったろう。ざま見ろとまでは言わないが当然の報いとは思ったかもしれない。この人を含めてA級戦犯容疑での逮捕者は計126名(5名は逮捕・出頭前に自殺)、うち28名が裁判にかけられ7名が死刑となった。

 戦前ならば国民(臣民)の尊敬を得て羽振りもよかった宮様が今やブタ箱入りだ。滄桑の夢とは滄桑之変と同義であろう。『唐詩選』にある劉希夷(劉廷芝)の有名な詩「代白頭翁」に

  已見松柏摧為薪  已に見る松柏の摧かれて薪となるを

  更聞桑田変成海  更に聞く桑田の変じて海となるを

とあるように桑畑が海になるくらい時世の変遷の激しいことを言う。当時「桑田滄海」または「滄海桑田」という成語があったようだ。

 こうして連合軍による戦犯摘発の嵐が吹き荒れる中、敗戦の年は暮れてゆく。

 

8. 思慕金と恋の卍や炭火消ゆ

 兜子にしてこんな俗っぽい句を作るとは、と驚いてしまう。まあ、この句集というか草稿は他人に見せるつもりはなかったようなので、一種の日記として記されたのであろう。それにしても「金と恋の卍」って何なんだ?下世話な、週刊誌的興味からすればその中身を知りたい気もする。兜子の評伝を本気で書くつもりならば色々と調べて事実関係を明らかに出来るかもしれないが、筆者はそこまで彼の私生活に興味はない。俳句の鑑賞ができれば充分である。

 当時金と恋のことで大いに悩むところがあったのだろう。「炭火消ゆ」というのは、炭火も消えるくらいまで長く悩んでいたということか。古典的に火は恋のメタファーなので金が絡んで恋の火が消えてしまったということかもしれぬ。

 

9. 萩桔梗また幻の行方かな

 「旧知の女失恋したるを聞くに一句」の前書がある。この旧知の女と兜子の関係は?いわゆる元カノなのか、単なる知り合いなのか。いずれにせよその女が兜子とは別の男と恋をしていてそれが破れたということだ。自分を振った女であればいい気味と思うだろうか、それとも気の毒に思うだろうか。

 同人誌の編集長が伝統芸能に造詣深く、小唄と端唄の違いも判らぬ筆者に色々と指南してくれる。端唄は広辞苑によると「江戸で、文化・文政期に円熟し大成した小品の三味線歌曲。(中略)これから、歌沢と小唄が派生した」ということだ。端唄は撥弾き、小唄は爪弾き。

 岩波文庫に『江戸端唄集』(倉田喜弘編)というのがあってその「端唄百番」29に「萩桔梗」というのがある。

  萩桔梗 なかに玉章しのばせて 月に野末に 草の露

君を松虫 夜毎にすだく 更ゆくかねに 雁の声

こひはこうした(ママ) 物かいな

 この句がどこまでこの端唄を踏まえていたのか否かは知らない。萩も桔梗も秋の七草のひとつであるし古来和歌や物語に多く登場してきた。もちろん恋との関係も深い。破局を迎えた他人の恋を「幻の行方」と表現したのだ。


★―3「高柳重信の風景 6」  後藤よしみ

 3 多行形式の行方

 一九四七年の「群」四・五月号に初めて多行形式による作品と多行形式への「提議」を他の同人とともに発表し、「空白圧力を効用した有機的構成によっての漂泊内容の拡張」を試みを試み、象徴主義の形式と空白を利用する志向をあらわした。これ以降、重信は多行形式に取り組み、その可能性を追求していく。


 身をそらす虹の     船焼き捨てし 

  絶巓      *  船長は

     處刑台  

             泳ぐかな     『蕗子』 


 そして、第二句集『伯爵領』では、、多行に視覚的な表記上の配置(「カリグラム」)の工夫を凝らしている。


   森                         森 の 奥    の

   の   夜                         夜    の

     更 け   の        *    雪 の お く の

          拝                  眞    紅

  火 の   彌 撒           の    ま ん じ 

     に 

  身 を   焼  

  く   彩

  蛾                           『伯爵領』 

  

 重信は、『蕗子』『伯爵領』の実験を進め、自身の多行形式をさらに深めていく。  

  

軍鼓鳴り     かの日         電柱の  

荒涼と   *  炎天       *  キの字の  

秋の       マーチがすぎし     平野  

痣となる     死のマーチ       灯ともし頃   『罪囚植民地』 


 この『罪囚植民地』という句集名は、『伯爵領』の「あとがき」に「遂に、罪囚植民地に流されてしまつた」という記述から、長期の構想のなかの作品群ということがわかる。そして、一字下げなどの様式は、しだいに影を潜めていく。

 ここで、課題が少しずつ浮上してくる。多行形式の表記の工夫を重ねてきた重信に対し、「一行形式で書けるのでは」という根強い批判を受けるようになったのだ。当時の俳壇の無理解による批判とも見えるが、澤好摩は『罪囚植民地』の次の句を挙げ、下段のように一行に書きあらわした。

 

月明の       *     月明の冬の砂塵の行方かな

冬の

砂塵の

行方かな

 

 そして、一行形式にしても「あまり違和感はない」としている(『高柳重信の一〇〇句を読む』)。一行形式の本来の姿でそのまま読み取れるのであれば、多行形式にする必要はないとも言える。つまり、多行形式の必然性が見えてこなければ一行形式がふさわしいものとなるのだ。ここに多行形式の困難さがあらわれている。このような課題も抱えたことで、重信は多行形式の今後の新たな展望をなかなか見出せなくなっていくのである。

  

 4 「風景の発見」と日本的なるもの

 重信の停滞脱出の変化の切っ掛けは、またしても宿痾の悪化からであったと言えよう。一九六五年一月元旦から発熱し、熱が収まったものの初めての喀血をしために自宅安静となっていた。そして、栃木の宇都宮病院長をしていた平畑静塔のもとに二月、入院することになった。 

 これが一つの転機となる。重信は歩けるようになると病床から散歩に出かけ、北西の日光の山々、東に筑波山を眺めていたという。そして、これまでの半生を振り返り生と死を考えている。志賀直哉の「城崎にて」の主人公のようにである。 

 〈ここでは、晴れているかぎり、眼前に日光の連山がくっきりと見え、たまさか快晴に少し高いところに立つと、うち続く家並みのはるか遠くに、うっすらと筑波山を眺めることが出来る。(略)だが、その昔、この日光や筑波の山々は、もっと直接に人間の日常生活につながり、その精神にも生き生きとしたかかわりを持っていたにちがいない。そこでは、人間がそれを眺めると同時に、山々もまた人間を強く見つめていたであろうし、季節に応じ天候に応じ、そして時々刻々に微妙に変化する山容は、人間とのさまざまな対話をもたらしたであろう。それは、いま、想像も出来ない澄みきった空気と、驚くべき荒涼とした見はらしの中のことである。おそらく、俳句が俳句であって、なおかつ同時代の多くの人間の心の中に、ある普遍的な感情を共通に喚起することが出来たのは、このような人間と自然との豊かな対話が、常に可能であったからであろう〉。(「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』) 

 そこには、原風景の喪失を埋めるような風景の発見ともいうべきものが見られたと言えないだろうか。自然の風景に身を置き風景に触れることで自己の内省が促され、過去の時代へと思いを馳せることは、多くの人が経験する現象である。言葉をかえれば、内省と遡行が行われていたと言えよう。この入院での風景体験が重信の内面を深く掘り下げる作用をもたらし、重信の後半の句業へと導いてゆく転機となったと見ることができるであろう。 

 この時期以降、重信の精神は遡行により次第に言霊・呪術と古代へと向かっていったとみられるが、重信には小学校時代に富士を眺めることで育てた風景との連想力による交換もあった。風景との対話のうちに自身の思いを煮詰めてゆくのだが、少年時代にはすでに重信の周りに霊魂に充ちた存在があったと言える。それが、入院中の生活で「自然から語りつづけられる体験」として甦ったのであろう。

 また、入院中の読書体験では、以前から関心のあった古代の呪術や原始宗教に関する本にあたっているが、それらにより、重信は言霊や呪力というものに強い関心を寄せるようになったと考えられる。

 言霊については「言語自身に精霊があつて、意味通りの効果を発揮する」とする折口信夫(「言霊信仰」)の説明が一般的であるが、その言霊は、言葉に内包されている創造力を信じる表現上の思想として考えられている。重信は国学者の富士谷御杖の言霊倒語論に親近感をもっていたようである。倒語とは直言をするのを避け、所思と異なる表現をすることであり、「其言の外にいかし置たる所のわが所思」が御杖の言う言霊にほかならないと言う(河田和子『戦時下の文学と〈日本的なもの〉』)。これは、日本的なる暗喩の象徴として言霊がとらえられよう。言霊を求めることは、言葉ではどのようにしても表現することができないものがあるということにほかならない。その意味では、重信は言霊や先の風景の認識においてこれまでの西欧の概念や思潮に回収しきれずこぼれ落ちるものを顧みたと言えよう。これまでの象徴主義をくぐり抜け、御杖の言う象徴としての言霊を用い、新たな日本的なるものを創出しようとした。

 一九六七年には、呪術について「俳句形式とは対抗呪術である。古代、呪術にかからないために必要とされたのが対抗呪術で、俳句形式によって、言葉は力あるものとして存在し、季題、切字、定型などは、人間が生み出した巧妙な対抗呪術ではないか」(「俳句形式の思想」『高柳重信散文集成第十冊』)と述べるようになっている。さらに、一九七一年には「呪術的なものに対するあこがれと好奇心があり、この頃、少し迷信深いくらいに神がかってきた」と山口誓子らとの対談で語っている(「現代俳句の原型」『高柳重信対談座談会集第五冊』)。これらの重信の言葉は、言霊と同様に呪術の力にふれることで創造性の回復を希求したものと読みとることができよう。重信は俳句形式を書こうとしながら「神話的象徴」を書き、俳人から呪術師に変身してゆく。

 一九七一年に「俳句評論」の全国大会が名古屋であり、その時に飛騨高山へ重信は三橋敏雄らと足を運んでいるが、そこで飛騨の自然の奥の神々の存在と隅々にまします言霊を見てとった作品は、「飛驒」十句として一九七二年に「俳句研究」二月号に発表されている。

  

飛驒(ひだ)の         飛驒(ひだ)の         飛驒(ひだ)

(うま)朝霧(あさぎり)     *  山門(やまと)の      *  闇速(やみはや)()水車(すゐしや)   

朴葉焦(ほほばこ)がしの      (かんが)(すぎ)の        ()(ひめ)

みことかな       みことかな       みことかな                                   「飛驒」『山海集』   

  

 これらの作品は、「はるかなる祖霊や地霊の密かな語りかけ」に耳を澄ましえたものであった(「後記」山海集』)。澤好摩は、「よくよくこの土地、風土の本質を見抜いた作品である」としている(『高柳重信の一〇〇句を読む』)。これまでの風景との対面が、飛驒において開花し、言霊・地霊の声を受けとめることにつながったと言ってよいだろう。このことは、風景感覚の覚醒が心の奥深くに作用して、感情や記憶と結びつき、新しいインスピレーションから生まれたものと言えるのではないだろうか。その風景のもたらすさまざまな働きが指摘されているが、そのなかでアイデンティティの拠り所、想像力としての連想力の強化、神話空間と創造の磁場の提供などと呼ばれるものの影響があったのではと思われる(柴田陽弘『風景の研究』)。これにより、重信にとって風景は言霊を含むものとなり、過去と現在をつなぐ歴史の世界に立つことになる。


 5 父母と「私性」

 一九六四年に「俳句評論」同人の橋閒石の句集『風景』が出されると、次のような句を引いて論じている。 

  

  階段をのぼる亡父の瞳の豪雨 

  くさむらに幹沈みゆく娼婦を母 

  水底に父母のむつごと虹負うとき   橋 閒石 

  

 〈橋さんが示した「父」と「母」への思いの、深刻な相違を考えたりすると、その興味はいっそうふかまってくるであろう。 

 遠い少年の日から、いまや還暦をむかえた老年の日まで、長く、消えずに引きつがれてきた心の翳りであり、おそらくは、青年期以後の橋さんにとっては、もはや、ひとつの思想のようなものとなっていたにちがいない、いわば精神の底流ともいうべきものであったろう〉。(「父と子と、そのほか」『高柳重信散文集成第八冊』) 

 ここでは「父母に関する一筋の青白い光線を照射すると、それぞれに、襞のふかい、翳りの多い、不思議な交換」を感じとっている。重信においては、その後の『遠耳父母』の諸作品につながるものがあった。

 一九六六年から、次の『遠耳父母』の句を「俳句評論」へ発表しはじめている。 

  

   耳の五月よ    沈丁花       沖に

   嗚呼     *         * 父あり

   嗚呼と      殺されてきて    日に一度      

   耳鐘は鳴り    母が佇つ闇     沖に日は落ち   『遠耳父母』  

 

 二句目の〈沈丁花〉の作品について、次のような文章がある。「その少年の頃の僕は、なぜか、くりかえし殺される『母』のイメージを育てていた。(略)そして、僕は、殺された『母』にあうために、夜ごと、庭の片隅の沈丁の繁みへ出てゆくのであった」(「母が佇つ闇」『高柳重信散文集成第十一冊』)。これは、母についてのネガティブな側面をあらわすものであり、重信が敗戦後からの「心理的に受け止める」という側面をうけついだものとなっている。 

 その一方で、三句目は、「自らの来歴に関わるイメージの集中的な展開が試みられる」作品となっている(澤好摩『高柳重信の一〇〇句を読む』)。この句集では、橋閒石の『風景』でも取り上げられた父母らが登場してくる。これまでの傾向を変え、自己の内面、そして深層に転回してゆくと受け取れるものになっていると言えよう。その傾向が明瞭となるには、『山海集』を待たねばならない。 

 なお、『蒙塵』は句集としての設計図を持ちながら完成せず、『遠耳父母』は「別個に制作され、別個に発表された四つの作品群によつて成立し、しかも微妙な共鳴を伴つている」として新たな創作意欲を再びかき立てるものとなったと言える(「覚書」『高柳重信全句集』)。 

 そして、『蒙塵』『遠耳父母』の時期の俳句形式は徐々に変化を見せ、一字下げ、一字空白、一行空白がなくなり、四行形式へと収斂する時期にあたっている。入院生活での風景体験が、いわば風景発見というべきものが内面化をもたらし、新たな重信を促してきたと取れるであろう。このようにして、『遠耳父母』では橋閒石の『風景』に触発されてか父母について集中的な展開が見られている。肉親や象徴的な父母を含めて自己の内面を掘り下げ、井戸に降りてゆくような作業と言いあらわせるだろう。 第六句集『山海集』(七六年)以降、一行空白が姿を消す。そして、漢字には総ルビ(ここではカッコ内)がふられている。

 さらに、形式面のみだけではなく内容面から時期ごとの特徴をとらえると次のことがわかる。それは、「私」(わが・われなどの一人称)の消失と復活である。具体的に見ると、初期『蕗子』において


   わが来し満月    わが誇

   わが見し満月  * われを欺け

   わが失脚      獄のうち

   城と飾り


 このように〈わが・われ〉など「私」を用いるものが八句ある。『伯爵領』では二句。その後に消え、後期『山海集』から私性が復活する。


   天に代りて     目醒め

   死にに行く  *  がちなる

   わが名       わが尽忠は

   橘周太かな     俳句かな


 この「日本軍歌集」十句すべてが〈わが〉をふくむ。これは、次の『日本海軍』においても


 いま

 われは

 遊ぶ鱶にて

 逆さ富士


と一句、あらわれている。

 重信が影響を受けたマラルメは、「純粋な作品においては詩人は発語するものとしての姿を消してしまう。彼は語にその主導権をゆずりわたすのだ」(「詩の危機」『マラルメ全集Ⅱ』)としている。つまり、作者たる「私」が姿を消していく。そして、そのマラルメの影響たる象徴主義が弱まることで「私」が浮上してきたと言えるのではないだろうか。