2020年2月28日金曜日

【俳句評論講座】テクストと鑑賞② 上野テクスト

【テクスト本文】
「乳房」と「おつぱい」への一考察 ―西東三鬼と松本てふこのひそやかさ―
               上野犀行(うえのさいごう)  田俳句会


 仮に、自分が俳句をやり始めの頃に戻ってみよう。俳句について何もわからず、どんな有名な句があるかも知らない状態である。勉強しなければと、本を漁り、芭蕉あたりからいろいろな句を読んでみたとしよう。すると、かなりの確率の人が、次の二句に突き当たるのではないだろうか。

  おそるべき君等の乳房夏来る  西東三鬼
  おつぱいを三百並べ卒業式   松本てふこ


 明らかに浮いた存在の二句である。花鳥草木についてのおそらくは格調の高い句が並んでいる中、「乳房」「おつぱい」という言葉が目に飛び込んでくる。そもそも俳句に、そのような語を使っていいのだろうかと、倫理的に思ったりする。作者の反逆的精神が込められた作品なのではと一瞬考えたりする。が、両句からは、何か奇抜なことを詠んでやろうという気負いは漂ってこない。ユーモラスでありつつ、どこか穏やかでしみじみとしている。ああ、こういうのが(あるいは、「こういうのも」)俳句と言うのだろうな、と思うはずである。
 別の角度から、このことを検証する。俳句史を追ってみると、戦前から始まる新興俳句という括りがあり、平畑静塔、秋元不死男とともに、三鬼の名を目にすることになる。その後、現代までたどり着くと、新撰21と呼ばれる世代があり、てふこという俳人を知ることになる。丁寧に俳句史を歩めば、二人の俳人を見落とすことはない。そして、てふこの「おつぱい」句を読むことで、もう一度「乳房」の三鬼を思い返すことになる。
 時を超えて、二人の俳人がひとつに重なる。この両句の不思議な魅力の本髄に迫るべく、鑑賞を進めていく。
 三鬼句は、句集『夜の桃』(昭和二三年刊)に所収。戦後間もない昭和二一年の作である。
 衣服から白い胸が見え隠れする。そこに、初夏の陽光が差し込む。女性のまばゆい笑顔までが見えてきそうだ。男はひとり、けしからんと呟く。何に対してか。放漫な身体に。その色香に自身で気づいているかいないかわからない女性に。それでいてちらちらと見せてくる行為に。そして、そういうことを許す社会に。しかし、男はその実、けしからんなどとは毛頭思っていない。決して表には出さず、ひそやかな悦びにひたる。多少の破廉恥さまでも受け入れる新しい時代を、「夏来る」という季語で以って、噛みしめているのである。
 五木寛之はこの句を「外国人女性のイメージを秘めたフィクショナルな発想がうかがえる」と評した。そして、例えばロシア女兵士の揺れうごく巨大な乳房のような、島国の乙女らのそれではないのではないか述べている。しかし、三鬼が覗き見た「乳房」が外国産であるか日本産であるかに関わらず、新しい季節そして時代の訪れを、すがすがしく安堵のうちに詠み上げたことには変わりない。
なお、三鬼自身はこの句を次のように自解している。
 薄いブラウスに盛り上がつた豊かな乳房は、見まいと思つても見ないで居られない。彼女らはそれを知つてゐて誇示する。彼女等は知らなくても万物の創造者が誇示せしめる。
てふこ句は、俳句アンソロジー集『俳コレ』(平成二二年刊)に所収。当時、若手俳人に活躍の場を与えることを企図した『新撰21』『超新撰21』とともに出版されたものである。
 女子高の卒業式であろう。ずらりと講堂に女生徒が並ぶ。同じ制服で、同じような静粛な顔をしている。その数、百五十人。ふと考えれば、ひとり当たり「おつぱい」が二つ。ゆえに「おつぱい」はトータル三百個だ。それぞれの生徒は、それぞれの「おつぱい」を持ちながら、新しい社会へ旅立つ。
 真剣に鑑賞すればするだけ、馬鹿馬鹿しくなり、思わず吹き出しそうになる。しかし、俳句とは本来、そういうものではないか。じっと見つめる、その結果、自分だけの視点で把握できたものを素直に描く。それが、笑わせようとは少しも思っていないのに、笑いを誘う。生真面目に詠まれたものを、生真面目に読んだときに、そういう幸運に預かることができる。
 同じような力強い表現を、村上春樹『ノルウェイの森』の一節にかつて味わったことがある。
 あの煙なんだかわかる?(中略)あれ生理ナプキンを焼いているのよ。(中略)みんなトイレの汚物入れにそういうの捨てるでしょ、女子高だから。それを用務員のおじいさんが集めてまわって焼却炉で焼くの。それがあの煙なの。(中略)うん、私も教室の窓からあの煙を見るたびにそう思ったわよ。凄いなあって。うちの学校は中学・高校あわせると千人近く女の子がいるでしょ。まあまだ始まっていない子もいるから九百人として、そのうちの五分の一が生理中として、だいたい百八十人よね。で、一日に百八十ぶんの生理ナプキンが汚物入れに捨てられるわけよね。(中略)そういうの集めてまわって焼くのってどういう気分のものなのかしら。
女性のバストを詠み上げた両句には、それぞれにそこはかとないおかしみがある。しかし、読後に受ける味わいには、どこかしら異なるものがある。
 三鬼句は、男性が男性の視点で詠んだものである。三鬼の「乳房」は、躍動的で柔らかで大きく弾けそうである。そのことに「君等」は自覚的であるのか、無自覚的であるのかわからない。どうであれ、この「乳房」は、既に何人かの男に愛でられたことがありそうである。表現はやや観念的であるが、一句は季語の力を媒介に、これからの時代の訪れを感じさせる。
 三鬼は、戦争直前に京大俳句事件で検挙され、しばらく句作を中断していた。その時の暮らしぶりは自伝的小説『神戸』『続神戸』に詳しい。金持ちにも貧乏人にも、日本人にも外国人にも、国籍不詳の人物にも、男にも女にも娼婦にも、すべての人に等しく分け隔てなく応対し、お節介であった。戦時の厳しい統制下においても、あくまでおおらかに人間らしく生きていた。そんな三鬼に平和の世が訪れ、誰に咎められるでもなく、自由に何でも表現できることの喜びが伝わってくる。
 一方のてふこ句は、女性が女性の視点で詠んでいる。てふこの「おつぱい」は即物的。おそらくは小ぶりで固めで、自己主張なるものは全くない。持ち主の女生徒がそれに自覚的か無自覚的かという分析は、無意味であろう。勝手にてふこが「おつぱい」に着目しているだけだからである。よってこの「おつぱい」にはまだドラマがなく、発展途上であり、男の手の感触は未だ知らないものと思われる。
 すべてに対し、てふこは一歩引き、他人事のように俯瞰している。百五十人が同じ服で同じ顔で畏まっているという事実。「卒業式」に季語性は薄く、別れも涙も感じさせない。管理教育の最終儀式という意味合いしかなさそうである。それでいて、教育というものに異議を唱えるわけでもない。ひたすらクールに、女性であるてふこは、女性の「おつぱい」のことを、誰に言うでもなくひとり感じ取っている。しかし、そういうことを考える自由が与えられていることが、今の時代でもある。
 終戦直後、現代と違える時代に生まれた両句は、「乳房」「おつぱい」という措辞を足掛かりに、奇跡的に読み手の頭の片隅に出逢うことができた。それぞれがそれぞれの時代性を反映しているため、受け取る印象は些か異なる。しかし、三鬼句にせよ、てふこ句にせよ、自由を希求する心持ちを原動力にしていることは、同じである。三鬼は希望に溢れる時代、てふこはしらけた時代の中で、おのおのが自分なりの生き抜き方を十七音に込め、詩として昇華させている。世の中への反発を意図する作品以上に、読み手がどんな時代に生きていようとも、力を以って訴えかけてくる。
 昨今、多様性、LGBTといった言葉がよく聞かれるようになった。近い将来、例えば、元男性の女性の「乳房」「おつぱい」を、男性の心を持った女性が詠むということがあるかもしれない。そういった作品に出逢えることを楽しみに待ちたく思う。いやらしいことをひそかに考えたいという気持ちは、罪深くも人間にとってごく自然なことだ。三鬼の「乳房」とてふこの「おつぱい」は、来るべき混沌の時代を迎えるにあたり、大きな示唆を与えてくれる。

〈参考文献〉
『現代俳句の世界9 西東三鬼集』(朝日文庫)
『西東三鬼の世界 俳句四季一月号増刊』(東京四季出版)
『神戸 続神戸 俳愚伝』西東三鬼著(講談社文芸文庫)
『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』現代俳句協会青年部編(ふらんす堂)
『新撰21』筑紫磐井・対馬康子・高山れおな編(邑書林)
『超新撰21』筑紫磐井・対馬康子・高山れおな編(邑書林)
『俳コレ』週刊俳句編(邑書林)
『ノルウェイの森(上)』村上春樹著(講談社文庫)
『俳句の変革者たち 正岡子規から俳句甲子園まで』青木亮人著(NHK出版)
『いやらしさは美しさ』早川義夫著(アイノア)


【角谷昌子・鑑賞と批評】
 テーマが俳人ばかりでなく、一般読者の興味をひくところが手柄でしょうか。戦中の言論統制から解き放たれた当時の三鬼の解放感(京大俳句事件で投獄されています)や時代背景を盛り込めば、もっと立体的になるでしょう。ほかにも「乳房」「おっぱい」俳句は詠まれているので、三鬼とてふこだけでなく、例句として挙げてもよかったかと。「女性が女性」「男性が男性」の視点、との指摘は、ステレオタイプの一般論になってしまうので、一歩踏み出したかった。また鑑賞が、「感想」になりがちなので、文章表現に工夫を要すると思います。

【筑紫磐井・鑑賞と批評】
 「おっぱい」をテーマに、西東三鬼と松本てふこの句を比較することは、多くの人の興味を呼ぶ論となっており成功していると思います。
 ただ結論の部分で、西東三鬼は男の視点から、松本てふこは女の視点からと分析しているのはやや常識的な感じがしました。
 私の感じからすれば、このテーマが成功していると感じたのは、西東三鬼の句の背景には戦後のデカダンが、松本てふこの句の背景には現在の若い作家を囲む価値崩壊のようなものがあり、それが団塊の世代の高度成長社会や五五年体制などを飛び越えて結びつくような気がしたからです。西東三鬼は松本てふこであると言うことが出来るような気がしました。
 その意味では、西東三鬼の周辺として坂口安吾の世界を配してみると面白いと思います。松本てふこは、ご承知の通り、「おっぱい」の句は「俳句って楽しい」という「童子」の中の句として作られてはいるのでしょうが、注目を受けたのは「俳コレ」の中で「不健全図書」という特別作品であり、松本が勤めているボーイズラブ系のコミック雑誌の編集者として、しょっちゅう(青少年教育を担当する)東京都から呼び出しを受けて厳重注意されていた中でできたと言うことが知られています。もちろんこうしたことに触れる必要はありませんが、男の視点・女の視点よりははるかに面白い話題が彼らの周辺にはあふれており、すこし残念な気がするのです。
 なお余計なことになりますが、私は全く問題ないと思いますが、受賞などを狙うときは「おっぱい」に絞る話題は一部の審査委員の顰蹙を買うかもしれません。この論が狙っているのが、私の推測したように飛び離れた二つの時代の共通性を示すのであれば、「おっぱい」以外の話題も入れて受賞しやすくした方がいいかもしれません。

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