2020年3月13日金曜日

【緊急発言】切れ論補足(8)「切字と切れ」座談会・特集用メモ①  筑紫磐井

1.その後の仁平勝―――仁平勝「五七五のはなし」(「都市」全十二回連載)

 4月刊行予定の俳句総合誌「ウエップ俳句通信」では「切字神話よ、さようなら――「切字と切れ」座談会」(仮称)を高山れおな・岸本尚毅氏と行うことになっている(司会:筑紫)が、この座談会のために仁平勝「五七五のはなし」、川本皓嗣「新切字論」について若干のメモをまとめた。予め読んでいただけると理解の助けになると思う。もちろん座談会用メモであるから、2つの論文の概要などというものではなく、私の議事進行用の簡単な手控えであるが、なかなか読む人の少ない専門的な論考なのでこのようなものがあると便利であると考えた次第である。
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 仁平の切字論は、第一評論集『詩的ナショナリズム』(昭和61年)に始っており、俳誌「都市」の標記の連載でもその前半及び中盤まではその祖述が多い。取りあえず簡単に紹介することにしよう。頭の(番号)は連載回数を示している。

(1)「切れ」は俳句の本質である(筑紫注:「俳句」であって「発句」ではない点に注意。『詩的ナショナリズム』でそう書いているからである)。ここでいう「切れ」とは句末で切れることである。「句切れ」(句中で切れること)ではない。
句中に切れ(筑紫注:上述の入念な注意にもかかわらず、にもかかわらずここでは「句切れ」を指す)を入れることで、句末に切れを生むことがある。
(2)短歌の上句が独立した五七五という定型には、切り捨てられた下句が、いわば「幻肢として」構造的に抱えこまれている。
幻肢としての下句は、俳諧の脇句の名残りではなく、五七五という音数律そのものの不安定さである。切れとは幻肢としての下句から切れる方法意識である。
俳句は短歌に比べて相対的に短いのではなく、絶対的に不安定なのである。
(3)川柳でいえば、川柳には切れはない。前句付の付句は、題に対する答えであり、そのあとに句が続かないから切れは必要ない。
(4)~(6)は、山本健吉の「挨拶と滑稽」「俳諧についての十八章」の解釈であり、仁平の上記の理論の根拠付けであるから、ここでは省略する。
(7)切字の中の「や」は特殊であり、句切れを作って散文脈を断ち切り、そのことで五七五を安定させる。発句的(筑紫注:「俳句的」ではないことに注意)に言うと句末に切れを生む。
(8)結論として切字の機能を次のように宣言する。
①五七五という不安定な音数律を詩の定型として安定させる機能がある。すなわち発句的美学(筑紫注:「俳句的」ではないことに注意)といってよい。
②古語を盛り込むことによる異化効果を生ずる。詩的アナクロニズムという。

 以上は、仁平の『詩的ナショナリズム』に比較的沿った記述となっている。『詩的ナショナリズム』からの微妙なゆらぎは(筑紫注)で示した。しかしこれ以降の、(9)~(11)は以上の論理を変更したと思われる思想である。以下それを紹介したいと思うが、仁平の記述の順番ではなく私の整理した順番で紹介することにする。

(10)連歌師はなぜ切れにこだわったか。連歌師は連歌という形式が和歌とは別の新しい詩型として確立させようとしたのである。連歌の最初に来る発句の五七五は、和歌の上の句と異なる独自の特性がなければならない。それが七七の脇句が切れることであり、そして切れる技法を習得することが連歌師にとって必須の課題であった。切れとは発句を権威づけるための理論武装であり、当時の連歌師にはそれが切実な課題だった。
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 しかし今日の俳人たちにそういう切実さはもう存在しない。すでに五七五という定型は大きく確立されており、同じ古典詩である短歌に対して俳句の独自性を主張する必要性もない。だからいつまでも発句の遺産である切れを論じなくてもいいのではないか。「や」「かな」「けり」は発句的な美学として考えればよい。

(9)虚子は平句の形をとった。散文と変わらない文体が、五七五という定型律によって俳句になっている。切れによって、一句が独立性を保つ必要はない。平句のようにラフな形がふさわしい時もある。虚子の好んだ切れのない句を平句体と名付け、そういう句を積極的に支持している。
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 五七五という定型はもはや切れを必要としないほどに成熟している。不安定なままで発句的な詩学とは別の定型律を生み出している。発句は俳句ではない。同時に五七五という音数律による古典的な定型詩である。古典詩であるがゆえに「や」「かな」「けり」といった古語が有効なレトリックとして機能する。

(11)(現代の「や」を使った例句をあげて)作者が感動なり、詠嘆しているとは思わない。私がアイロニカルな表現というのはそのことだ。現代語と古語の意図的なミスマッチによる俳諧味といってよい。

(12)は話題を切字から転じ韻文を論じているのでここでは詳しく紹介しないが、ただ次の記述は切字に関連する話題である。
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山本健吉に批判された新興俳句は発句と別の面で五七五という音数律を維持し、むしろその効果を切字以外のところで発揮して見せた。

[筑紫の全体的注]
(7)の「や」の特殊な機能については、仁平自身によって具体的には語られておらず、後に川本皓嗣が俳諧作品を例にして係助詞の遠隔操作説で解説した。藤原マリ子は、「や」の分析をすることにより①川本説が全ての場合に当て嵌まるものではないこと、②「や」の使用の歴史的推移から配合の「や」と主格の「や」が江戸俳諧では主流になることを示した。田中道雄は、江戸時代を通じて、特に芭蕉以降、F形式(芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」に因むもので、名詞+や+下五の名詞止めの構造を持つ句)が主流となっていく過程を示した。しかし、新興俳句、及び「第二芸術」の影響を受けた戦後の現代俳句ではF形式が忌避されるようになった。例えば仁平が(11)で掲げている「や」はほとんど配合の「や」、主格の「や」、F形式の「や」ではなくなっているようだ。
(9)の「定型はもはや切れを必要としないほどに成熟して」いる原因については仁平は明確にしないが、『詩的ナショナリズム』(昭和61年)以降俳壇を大きく変更させたものに私見であるが、角川書店「俳句」編集長秋山みのるが展開した「結社の時代」キャンペーンがある。「結社の時代」キャンペーンは飯田龍太の「雲母」終刊後2年ほどで破綻し終了したが、「結社の時代」キャンペーンで始った「俳句上達法」は現在に至るまで総合誌の中心企画となっており、こうした文学ではない技術としての発想がもたらしたものが平成俳句であるから、「成熟」は「俳句上達法」と密接な関係を有しているかも知れない。
(11)の「アイロニカルな表現」については、神田秀夫や井本農一の俳句イロニカル説が先行している。

[筑紫の感想]

①『詩的ナショナリズム』及び本論前半では、「「切れ」は<俳句の本質>である」とされていたが、後半では<俳諧の本質>に変えられているようである。「切れ」(句末の切れ)は<現代俳句の本質>であるとはされていない。
②もしそうであるとすれば、「切れ」(句末の切れ)という表徴がなくなるわけであるから、現代俳句と現代川柳を区別する表徴が存在しないことになる。もちろん差別がないことは悪いことではない。
③切字を現代俳句において使う理由は、「古典詩であるがゆえに「や」「かな」「けり」といった古語が有効なレトリックとして」用いられることになるという。
④なお、本論とは別に、「豈」62号では仁平は「「切れ」よ、さらば」と述べている。

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