2020年3月27日金曜日

英国Haiku便り(7)  小野裕三


アンソロポシーンへの静かな異議

 幾人かの外国人の前で自作の俳句を朗読する機会があった。最初は日本語、次に英語で読む。日本語がわからないはずの彼らの反応は意外で、日本語の朗読は「異文化への扉」のようで刺激的だったと語る。そんな議論の後、あるイギリス人女性が話題を変えた。例えば環境問題などのポリティカルな取り組みにも俳句は可能性があるんじゃないかしら、と彼女は言う。僕はためらいがちに、俳句は短いから政治的な抗議を詠み込むと詩としては成立しにくい、と説明する。すると彼女はこんなことを言った。そんな形じゃなくても、全体としての俳句のあり方自体がそのままで環境問題への抗議になりうるわ、と。それはまさに僕自身がこの数年考えてきたことでもあった。
 地球環境をめぐる問題は、アートの世界でもホットなテーマだ。アーティストたちの口からもアンソロポシーン(Anthropocene)という新語をよく耳にする。人間の活動が地球という惑星の地質学的なレベルにまで影響を与えるようになったことを意味するもので、つまりは人間がもたらした気候変動や環境破壊などの深刻さを示す言葉でもある。現代のアーティストたちも真摯に取り組むこのテーマに、自然と深く関わり続けてきた俳句のあり方自体が「静かな抗議」になるというのはありうることと思う。
 マーカス・コーツというアーティストがいる。日本で主催された現在美術の賞を受賞し、滞日経験もあるなど日本との縁も深い。彼の活動テーマはまさに自然との関わりで、シャーマンのように動物の物真似をするパフォーマンス作品が代表作だ。そんな彼と少し会話する機会があった。彼は日本人の自然観を称えてこう語った。西洋人は自然を風景という全体として捉えるが、日本人は例えば一本一本の木を独立したものとして捉える、と。そのような感覚が、季語で自然をくまなく網羅しようとする俳句の原理とも繋がっているのだろう。
 しかし半面で、日本人の自然観は課題も孕む。日本文化を特集したBBCの番組での、こんな指摘が印象に残る。日本人は太古から自然災害を受け止めてきた経験があるため、例えば戦争といった人災(原発事故なども入るか)による惨禍ですらその延長で捉えてしまいがちだ、と。結果としてそれに対する異議や抗議よりは、受け止めて「嘆く」ことが主になりかねない。
 しかし今のアンソロポシーンの時代には、人間はもはや受け身ではなく、自然を人間自身が不可逆的に変えてしまった。俳句と自然、という手垢のついたテーマも、そのように前提条件が大きく変わった中では、新しい視点から捉え直すべきだろう。
(『海原』2019年7‐8月号より転載)

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