(14)シベリア抑留体験者の体験談をまとめて
シベリア抑留体験者の話を伺い体験談を関連する文献で補い紹介する中で、まず感じたのは、シベリア抑留に至るまでの、日露戦争、ロシア革命時代の日本のソ連出兵と干渉戦争、1941(昭和16)年の日ソ中立条約があるにも関わらず、ドイツの勝利を見込んで行われた、「関東軍特殊演習」(関特演)(かんとくえん)。ソ連と日本の間に生まれた数々の負の遺産を背負わされたこと及び独ソ戦でたくさんのソ連の男性が死んだことから、労働力の穴埋めとして、第2次世界大戦が終結しても、極寒のシベリアへ連行され、過酷な労働に使役された約57万5000人の日本人捕虜がいたこと。それは、ポツダム宣言の第9条に明らかに反する国際法違反であったこと。寒さと飢えによる栄養失調や発疹チフスの蔓延などにより、約5万5000人の人が命をおとされたことなどを知り、国と国との諍いは、戦争・支配・暴力(性暴力)などを生み出すということを改めて感じた。
シベリア抑留の生活については、左官級以上の軍人とそのほかの兵士によって、労働や生活の質が違うこと。また抑留地が旧ソ連、外蒙古、欧露と広域にわたることから、それらのすべてを網羅することはできないが、基本的な事項を伝えることはできたと思う。
シベリア抑留の生活では、政治教育から生まれた、「アクチブ」によって「反動」と見なされると「吊し上げ」にあう。戦友も信用できない、そして常に付きまとう「死の恐怖」。外からの暴力による圧力と内面に起こる葛藤や疑心暗鬼との闘いでもあったと思われる。
その真実を筆者が確かめる術はないが、ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」p.2~5にこのような記述がある。
カポーたちはすくなくとも栄養状態は悪くないどころか、中にはそれまでの人生で一番いい目を見ていた者たちもいた。この人びとは、その心理も人格も、ナチス親衛隊員や収容所監視兵の同類と見なされる。彼らは、今、罪を問われているこれらの人びとと心理的にも社会的にも同化し、彼らに加担した。カポーが収容所監視兵よりいっそう意地悪く痛めつけたことはざらだった。(略) 一般の被収容者の中から、そのような適性のある者がカポーになり、はかばかしく「協力」をしなければすぐさま解任された。(『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 新版 みすず書房2002年11月5日)※カポーとは、囚人を監視する囚人のことである。
なぜ、ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」の例をあげたかというと、カポーを収容者の中から選び出し「密告」させ「暴力」により支配する構造と、シベリア抑留に於ける政治教育によって養成された「アクチブ」の活動が、旧日本軍の慣習を保持した労働大隊の組織を破壊し、抑留者同士が互いに監視しあい、密告する構造が似ていると考えたからである。
「アクチブ」になると食物や労働面で優遇され、「反動」と見なされれば、シベリアの奥地に送られることから疑心暗鬼に陥り、自分より優遇される人への妬ましさ等から「密告」「吊し上げ」が激化してゆく。シベリアの奥地に送られることや独房に入れられることは、ユダヤ人がアウシュビッツ収容所のガス室へ送られることと同じくらい、死を意味したのではないだろうか。
極寒の地で重労働と飢えに苛まれ、極限状態にさらされたとしたら、どこの国にもどこの民族にもこのようなことは起きたのだろうと筆者は受け止めた。
しかし、このような逆境にあっても自らの尊厳を保ちえた人達も多くいただろうと思う。
抑留体験者の中には、自己を喪失するような辛い体験を一言も語らずこの世を去ったたくさんの方がいる。それは苦しい体験を語ることで、その時の記憶が呼び戻されてしまうからである。
それを乗り越え、語り部の方たちは93歳になる現在も、平和を守ることの意味を問いかけ、再び戦争に巻き込まれないためには、戦争が引き起こす悲惨さを知ること、政治の上では知恵を絞ることが大切であると呼びかけている。
シベリア抑留体験談を伺う中で、「満州からの引揚げ」についても知らなければならないと思ったのは言うまでもない。
シベリア抑留体験者のお話は、「新宿平和祈念展示資料館」や「戦場体験放映保存の会」の〝戦争体験者と出会える茶話会”などで聞くことができる。語り部の皆さんは現在93歳と御高齢なので、関心のある方は、是非体験談を聞いて欲しい。
さて、8回にわたりお伝えしてきた、「シベリア抑留への歴史」及び「抑留体験語り部の体験談」を踏まえて、次回からは、シベリア抑留俳句を読み解いていこうと思う。
参考文献
『夜と霧』新版 ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房 2002年11月5日
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