2019年1月25日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】3 軽やかな感性に寄せて 長谷川隆子


 『子音』の上梓おめでとうございます。瑞々しい感覚でとてもさわやか、素晴らしいです。俳句の鑑賞は門外漢ですが、集中、特に好きな句をあげてみます。

  もう一度抱つこしてパパ桜貝
 春あられレゴブロックの街に住み
 かけてこい浜の春雷かけてこい


 懐かしい優しい句です。幼い日への憧憬、田中さんはお父さんっこでいらしたのでしょうか。レゴブロックの句、私も以前「ひとつかみの積み木寄り合うわが街」と詠ってみたことがあります。カラフルで無機的は言い過ぎだけれど、昔のなつかしい風情とは違う新しい街、そんな感覚が表されているように思います。春雷の句、浜辺の散歩でしょうか。春の雷はどこか季節の喜びと重なって暗くない。「かけてこい」と呼び掛けている対象は春雷、そして浜辺の子どもたち等と想像しました。

 白れんや空の付箋を剥すがしつつ
 鞦韆やうしろの余白したがへて
 啓蟄やゆるり起き出す兵馬俑
 冬の虹からめてとりぬ牛の舌


 木蓮の花びらはぽっかりと白く、ゴッホのアーモンドの花の絵など想起するのですが、蒼穹をバックにくっきりと白い。鮮やかなイメージがあります。「付箋を剥す」とは巧くいい得ていると感動しました。そしてブランコ、「うしろの余白」がいいです。ブランコを漕ぐとうしろの空間も一緒に動く気配、それが「余白」という固い語句で表現されてちょっと知的な感じがして、とてもいい。特別に好きな一句です。
 ずらりと並ぶ兵馬俑も、いつか動き出しそうで、面白い。これを短歌にするとやはり新鮮な感覚がうすれそうです。やはり俳句の世界ですね。「牛の舌がからめて」が如何にもという感じです。

 遠足のメザシぞくぞくやつて来る
 春光をあつめて片足フラミンゴ
 竿竹の光長閑し筑後川


 子供たちはざわめきと一緒に繋がってやってきます。端的な表現で、ずばり言い得ています。動物園のフラミンゴ、あの桃色の片足立ちの姿はなかなか印象的です。そして筑後川の一句。いかにものどかです。
 筑後川そのままののどかな風景が目前に広がります。「光」があることで、作者のこの情景への愛情が偲ばれます。
 
 朧月ちよこと高きが好きな猫
 花茣蓙のうたた寝跡のピタゴラス
 風薫る男は凡そ直列で
 冷ざうこ全裸の卵ならびをり


 塀の上の猫、群れない猫、ひょっとしたら作者も「ちよこと高い」ところがお好きなのかも。心地いい場所をよく知っている猫が捉えられていて面白い。面白いと言えば昼寝後の頬っぺたに三角形が…でしょうか。それから男たちが直列というのも面白い。女は連れ立って歩きますよね。冷蔵庫の卵が裸と言われればなるほどと思ってしまいます。着眼の独創性が生きています。「全裸」を生かすために冷蔵庫がひらがなになったのですね。

 虹生まるわが体内の自由席
 娘の去りし今年の天井高くなる
 風花す銀紙ほどのやさしさに


 「わが体内の自由席」はどんなにか豊かに広がってゆくのでしょう。これからの句作がもっと楽しみになってきます。田中さんの独自の感覚が捉える世界を味わうことが出来ました。
 お嬢さんが嫁がれて、家が広くなったような寂しさを「天井が高く」なったという表現は巧い。
 平凡な主婦という括り方があるけれど、それぞれの世界をもっているわけで、舞う雪を「銀紙ほどのやさしさ」と言えるのは田中さんだけ。素晴らしいことだと思います。
 感覚が若くって、ユーモアがあって、葉月ワールドのフアンになりました。ことばが光っています。私も短歌を細々詠んではいますが、理屈っぽくて説明癖があってわれながらつまんない、うんざりと思うこの頃、とても刺激になりました。

 ありふれた時間でありぬ蝉の穴
 万緑や消した未来の立つてをり


 新鮮な個性的な感覚に感動していましたら、ちょっと思索的、哲学的な句も。蝉の儚い命に人間の一生が重ねられて。「消した未来」とは選ばなかった未来のことでしょうか。そういえばあの鞦韆の句の余白も哲学ぽいかもと思いました。
 
 いい句集を読ませて頂き心より感謝申し上げます。これからもご健詠を。楽しみに致しております。

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