2014年4月18日金曜日

「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」⑩ / 筑紫磐井

⑩この時代の青年作家への期待への批判

54年5月号は「青年作家特集」である。どういうわけか能村登四郎が「青年作家に望む」という文章を冒頭に掲げている。初めてにして最後のことである。憶測される理由は前号に述べた通りである。


「毎年五月青年作家特集を行なってからもう七、八回になる。乏しい頁を割いての企画がそれだけの効果はあっただろうかと、いつもそのあとで反省するが、こうした効果はたちどころに現れるのではなく、気長く待たなければならない。
その効果の一つかどうかわからないが、最近とみに若い男性の作家の活動が目立ってきたことは喜ぶべきことと思っている。」

「・・・俳句の世界はそのように年齢の層が厚いので、普通なら中心的存在であるべき三四十代は殆ど無名時代で子供扱いである。ジャーナリズムでは時々特集号を出して売り出しに努めてはいるものの、もう一つ盛り上がって来ない。この原因を考えてみると、高齢者によって道がふさがれていることと、それを打ち破るほどの努力が欠けているところに起因しているようである。とにかく俳句の世界は普通の社会とは大変違っていることを知らなければならない。 
そうしたことが起因して、昨今俳壇が著しく老化してきたことも憂うべきことである。曾て今の六十代の作家が三四十代のころ、社会性俳句が擡頭して威勢のいい論争が行われたりしてなーなリズムを賑わわしたが、その社会性派と行動を同じくしなかった飯田龍太とか森澄雄などは、寡黙ながら地味な実作で独自の俳句の世界を作って今日に至っている。その頃の三四十代は今のように先輩に対して萎縮したりしない一種の気概と自信を持っていたようである。それやこれやを考えると、今の三四十代の作家は若いということを力にして、もっと自身をもって行動してもよいのではあるまいか。」

冒頭の「若い男性の作家の活動が目立ってきた」と言いながら、「昨今俳壇が著しく老化してきたこと」、すなわち三四十代の作家が萎縮したり、気概と自信を喪失しているという事態が同時に起こっていると認識していたことになる。これはなかなか当時にあっては真相をついている発言ではあった。その原因を登四郎なりに分析している。

「それに比較すると現在の若い人が目指す作家は皆あまりに若さを失っている。いま流行の軽みとか俳諧性だとかいう事がはたして若い人の心を惹くであろうか。軽みも俳諧性も俳句を何十年もやって来た人がようやく行きつく微妙な味で、二三十代の若者にわかる筈もないし、わかって作ったとしても所詮物真似にすぎない。だから骨を折って若い人を俳句に参加させても、いざ何を作ろうかという時、目標になるものがあまりに年齢から遠すぎる。」

「現在の若い人が目指す作家は皆あまりに若さを失っている。」は不正確であったように思う。そもそも、「現在の若い人が目指す作家」とはいった誰だったのか。鷹羽狩行や阿部完市は多くの分別ある俳人たちから排斥されていたから(意外なことに当時鷹羽狩行は伝統俳句作家から正統派ではないと言って排斥されていた、古館曹人など)、その世代で我々が目指す作家とはほとんどいなかった筈だ。何のことはない、登四郎がいう「現在の若い人が目指す作家」は能村登四郎をはじめとした戦後派世代の作家たちであったのだ。

登四郎の言葉をこう解釈すると、矛盾していることが二つあることに気づく。

①軽みや俳諧性を代表すると思われる作家が、前段で賞賛した飯田龍太とか森澄雄と思われることだ。すると、登四郎がここで言っていることは、気概と自信を持っていた龍太や澄雄を目指すのはいいが、けっして龍太や澄雄のような俳句を作るべきではないということになる。

②また、この文章の直前で、登四郎は自分たちが俳句を始める時には、五十代の秋桜子・誓子、四十代の草田男・楸邨・波郷がいて、みずみずしい青春の俳句にあふれていたというが、もし「現在の若い人が目指す作家」が戦後派世代の作家たち(許容できる範囲で狩行と完市を加える)であったとすれば、軽みや俳諧性を代表する龍太や澄雄か、難解な兜太や完市ら、そして人気があるが正統派ではないとされていた狩行しかおらず、「みずみずしい青春の俳句」は存在しなかったことになる筈だ。

私も能村登四郎の雑誌「沖」に参加したが、登四郎に「みずみずしい青春の俳句」を期待する筈もなかった。むしろ、鬱屈した現代性を詠む心象的な作風に共感していたからだ。指導者としての登四郎と心ある一部の「沖」の青年作家(つまり登四郎に単に迎合していた作家は除く)は相当の乖離をもっていたことになる。

     *      *

以上のように述べた上で、沖の若い作家の句業として上谷昌憲の「都市ぐらし」という都市生活を詠んだ特別作品と、大橋俊彦の「チャップリンの死」という文字通りチャップリンの死という時事的作品をとりあげ、「若い人のもつ可能性というものは果てしないもので、それをもって灰色にくすみかかった俳句の壁を思い切りひらいてほしいものである」と絶賛し、以下「沖」に発表された都会風の作品を列挙している。上谷昌憲の「都市ぐらし」は忘れられて久しいし、大橋俊彦の「チャップリンの死」は前回の阿部完市により完膚なきまでに否定されている。その後の経過からいっても、どちらかと言えば能村登四郎よりは阿部完市の方が正しかったことになるだろう。

そして、都会風の作品の列挙の中で鎌倉佐弓だけを取り上げ二十代であることを指摘している。正木ゆう子がいるのに。

言っておくがこの時列挙された作家は、鎌倉以外みな中年ないし高齢者がほとんどであった。だから登四郎の文章は次のように締めくくられている。

「俳句の若さというものは作者の年齢とはあまり関係はないもので、俳句が老人向きの文芸だなどと思っていたら二十代でも老人のような俳句になるし、又老人であっても俳句というものが常に心に新しさを与える詩だと考えれば、おどろくほど若い俳句が生まれてくるものである。だから年齢が若いからといって恃むことはできない。そして老人だからといっても作品の上でりっぱに若さをとり戻せるのである。
若いという特権は世にある種々な楽しみの中に入っていくことができるが、その若いという特権を何よりも精神的な豊かさに向けてほしい。俳句に浸ることによって必ず人生の意義あるものをつかむことができると信じて進んでいってほしい。」

これは部分的には全く正しい。しかし全体的にみると支離滅裂である。

「部分的には正しい」というのは、この言葉は青年作家などもう眼中になく、自分自身のことを述べていると思えば、まさに能村登四郎の行動原理そのものだからである。登四郎は自分に刺激を与える人々に関心は持ったが、それ以上のものではなかった。血を吸いつくした抜け殻にドラキュラには興味がないのである。しかし、これを登四郎批判として受け取らないで欲しい、こういう行動原理を示せる人こそ立派な人生の教師であるからだ。虚子と秋桜子・誓子の関係はこうしたところがあったと思っている。文字を教える教師と違って、行動を教えられる教師は数少ない。

「全体的にみると支離滅裂」というのは言うまでもなく、これは「青年作家に望む」というタイトルであるからだ。ちっとも青年作家に望んでいない。特に冒頭の、青年作家に期待し、アジテーションしている内容からすると、まさに支離滅裂であった。


【まとめ】

今回は能村登四郎の発言だけで終了しそうだ。

さて、こうした考え方に基づく「沖」の若手の抜擢はどのように評価すべきであろうか。整理するとこのようになる。

①青年作家に期待していた。

②期待がちっとも論理的でなく、情緒的であった。指導原理もなければ(あっても、以上のような矛盾的な内容であり、かつこの指導は何の効果も持っていなかった)、批判もなかった。

③自己責任における実験がある程度許容され、そうした場が比較的豊富にあった。

おそらくこれが、「沖」が成功したとされる要因だろうと思われる。特に、②と③は他の結社では期待できない特色であった。






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