2014年4月11日金曜日

【芝不器男俳句新人賞】 城戸朱里奨励賞受賞・俳句に近づくために / 表健太郎

ぼくが俳句と呼びたいものは、いまでは遥か沖の彼方まで遠ざかってしまった。ときどき帆柱の煌めきが見えるのをこうしてじっと待っているのだが、あの眩しさもひょっとしたら、まばたきの刹那、目蓋の裏側に映った一瞬の幻影だったのかもしれない。瞑目のなかに揺れるかすかな光が、憧憬として、わずかに俳句の消息を伝えている。

俳句との関わりはまだ浅いとは言え、自分ではそれなりに試してきたつもりである。けれど数年前から、ぼくの俳句認識には大きな誤りがあったのではないかと思うようになった。これはたぶん思い過ごしなどではなく、いたずらな経験の蓄積がもたらしてくれた唯一信じるに足る直観だろう。だからそのころを境に、ぼくは俳句から出発することを止めた。ただ俳句に近づきたいという切望のみを俳句行為の言い訳として、ひたすら失敗作を書き継いできたに過ぎない。その意味で、ぼくの作品はそもそも俳句の未来や展望などとは無縁であることを断っておかなければならないだろう。土地のない空間に種は撒けないように、俳句を所有していない者が一体どうして明日の俳句を担えると言うのだろうか。

方法とは本来、目的の希求を含んでいるはずのものである。明確な答えが見つからない世界では己れの信念を目的に替えるしかない。たとえ逃げ水を追うごとき空しい営みであっても、眼を逸らせば、その一点と交わる日も永遠に失われてしまうのだ。方法意識を欠いた場所には、楽天的な装飾思想しか生まれないものと思っている。

俳句の行く末を占う声が明るく健康的であるほどに、ぼくは暗澹とした気持ちになる。それは議論の前提において、彼らがすでに俳句を我が物としていることへの羨望と、果たして本当にそうなのかという疑義の念が一挙に押し寄せてくるからである。しかしこうした葛藤も自身の俳句認識に対する直観から生じたものであってみれば、結局は己れの信じる道を進むしかない。俳句からの出発を止めた時点で、ぼくの俳句行為は孤独との格闘とならざるを得なかった。

この度の入賞に際しては、作品を推薦してくださった城戸朱里氏をはじめ、その他の関係者各位にこの場をお借りして心より御礼申し上げます。ありがとうございました。






※下記は全て 「芝不器男俳句新人賞公式サイト」にリンクしています。

第四回選考結果 

芝不器男俳句新人賞:曽根毅  (作品No.33)
同奨励賞 
大石悦子奨励賞:西村麒麟 (作品No.42)
城戸朱里奨励賞:表健太郎 (作品No.36)
齋藤愼爾奨励賞:庄田宏文 (作品No.52)
対馬康子奨励賞:高坂明良 (作品No.72)
坪内稔典奨励賞:原田浩佑 (作品No.48)
同特別賞:稲田進一 (作品No.10)


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