2015年11月13日金曜日

【俳句時評】 等身大の文体――石田郷子私観(前編) 堀下翔


俳句という形式を自由に使ってみたい、というのは俳句を書いている人間がしばしば抱いている思いだ。定型のくびきの中にあって、闊達に言葉どうしが組み合わさり、定型を感じさせながらも、決して定型以上の類型を感じさせない、そのような作品には、嫉妬を覚えながらも、いやおうなしに心が湧きたつ。

たとえば石田郷子(1958-)の第1句集『秋の顔』(1996)などは、何度読みなおしても古びない自由な文体を有した一冊である。両親ともに波郷門という出自を持ちながら、山田みづえの「木語」で俳句を書き始めたのは1986年というから、出立は20代の終わりとやや遅い。第1句集に収められているのは、それから10年間の、もっとも初々しい作品群だ。作家のういういしさといっても、その現われ方にもいろいろあるだろうし、ともすれば単純に、俳句が下手、ということになる場合もしばしばであるが、石田の場合は、形式に対する好奇心という、作家としておよそ恵まれた形をとっていたようである。

来ることの嬉しき燕きたりけり 石田郷子 『秋の顔』

石田郷子的な書き方は、この一句を見ると分かる。形容詞「嬉し」の連体形「嬉しき」が「燕」に掛かっているので、「嬉しき」と「燕」とはそれぞれ修飾・被修飾の関係にあることになるが、この「嬉しき」の主体は、「燕」ではなく、燕を待つ人間の方だ。遠いところから飛来した燕の無事をよろこび、またそれによって春をはつらつと実感する「燕来る」という季語の本意を、「嬉しき」という言葉で、丁寧に、平明に、この作者は開陳する。かつまた、「嬉しき」が構文のうえでは「燕」に掛かっているがために、燕じたいも、無事に飛来を遂げられたことを、しんそこ嬉しく思っているような感じがある。

情感の平明さは、この場合、その純度があまりにも高いので、かえって味になっている観もあるが、そうはいってもやはり、これだけでは単純が過ぎる。凡庸を避けているのが、独特の構文である。先述の、人間と燕の両方のよろこびを匂わせる「嬉しき」の掛かり方もそうであるし、あるいは、「来る」という動詞のリフレインも、ひじょうに効果的だ。下五の「きたりけり」は上五の「来ることの」に対してダメ押しになっているわけだが、よし、下五の「きたりけり」を外して……ちょっと適切な言い換えが思いつかなかったのでこのさい定型はあきらめるが……〈来ることの嬉しき燕かな〉ぐらいの句であったとしたら、どうしたって、上五の観念を一句全体が抜け出せない。下五の「きたりけり」があって初めて、「燕来る」の実感は作者の手にするところとなったのである。上五中七の「来ることの嬉しき」はもともと、いわばその予感ともいうべき胸のたかぶりであって、下五の「きたりけり」がもたらす感動には、予感が実現したことをかみしめる性質が含まれていただろうし、かつ、〈来ることの嬉しき燕きたりけり〉と一句が完結したのちは、その成立から離れて、上五中七の「来ることの嬉しき」もまた、燕飛来の喜びに満ちた言葉として定着することになった。いささか大回りをしているかもしれないが、この構文からは、そのような消息が読み取れるような気がする。

もうひとつ、この句は「こと」が面白い。

「こと」はひじょうに難しい言葉である。それ自体が何かを意味するものではない。具象性を欠いていているので、たとえばこの句であれば、「来ることの」というふうに「こと」と接続されることによって、燕という眼前の実体をたしかにうたっていながら、しかし、一句そのものは、作者の心中に終始しているような、現実と区切られた印象をおびる。すなわち、一句が私性のうちに落とし込まれている。また、もっと簡単なこととして、「こと」自体が意味を持たないがために、十七音に組み込まれることで、一句の意味の密度が低くなる。この句の場合は、下五の「きたりけり」が平仮名表記であることとあいまって、さっぱりとした印象を読者に与え、それが、句の平明な情感を裏打ちすることにもなっている。

シンプルな言葉だけで書かれ、一見、たやすく生み出されたようにも思われる句であるが、しかし、こんなふうに、さまざまな方法が試みられているのだ。

〈来ることの嬉しき燕きたりけり〉はひじょうに石田郷子的な書き方を体現していて、以上に雑然と述べた彼女の文体の特徴は、『秋の顔』全体を通じてもたびたび立ち現れてくる。

枇杷の実を空からとつてくれしひと 
春潮を胸のたかさと思ふとき 
梅干すといふことひとつひとつかな 
思ふことかがやいてきし小鳥かな

に見られる、抽象的な名詞や、

ゆきのした早瀬となつてゐたりけり 
鹿の瞳の濡れてをりたる若葉かな

といった、Be動詞や助動詞で引き延ばした表現の多用はその最たるである。いずれも、高純度な印象で書きとめられる身辺と一致する、ライトな文体である。

もう一点、彼女の文体で心に残るのは、決して数が多いわけではないが、何度か現われる、「くる」という動詞である。

花菖蒲どんどん剪つてくれにけり 
枇杷の実を空からとつてくれしひと

「けり」「し」という文語助動詞が用いられているので、これらの句はもちろん文語で書かれた俳句ということになるが、しかし、これらの句は、決定的に文語的世界とはかけ離れた表現をしている。それが、「くる」である。現代語と文語とを分ける性質には、いろいろなものがあるが、そのうち、もっとも表現上でみぢかなのが、現代語における授受表現の発達である。「くれる」「もらう」「あげる」「やる」といった、授受に関する動詞を、われわれは日ごろ補助動詞として、複雑に組み合わせて用いている。「~してやってくれ」などの表現が持つ正確なニュアンスは、あんがい、別の言葉で説明するのが困難であったりする。現代語独特の表現なのである。この授受表現にあたるものが、文語においては、われわれが高校時代に古典の時間でたいへんお世話になった、敬語表現である。「たまふ」「申す」「はべり」といった敬語動詞の煩雑な絡み合いに泣かされた方も多い筈だ。石田の句、「けり」「し」という文語助動詞を用いるのであれば、現代語的な発想で現れる「くる」ではなく、古典的な敬語表現「たまふ」を用いたほうが、コロケーションとしては正確であった。

現代語助動詞「た」を文語助動詞「けり」に変換できた人が、動詞においてそれができなかいわけがない、というのは過言だろうか。筆者には、この「くれにけり」「くれし」が、言葉を使う上での石田の立ち位置をよくよく表明しているように見える。口語ではなく、文語を用いることで、口語的世界を見直そうとしている点では、いわゆる「擬古典派」と同じだが(石田といえば、俳句を書き始めた時期がやや遅いとはいえ、擬古典派が大きな影響力を持った昭和30年世代の作家である)、かといってぎりぎりまでストイックに古典的世界に視点を置くのではなく、口語で発想し、等身大の私性を句に髣髴とさせる、それが石田郷子の方法なのである。

それだけではない。もっとさまざまな形で、石田の作品には、単なる自然詠ではありえない、〈私〉の存在が、たんねんに書きこまれている。それについては、次号、あらためて書こう。じつをいえば今回の時評は、この9月に刊行された第3句集『草の王』(ふらんす堂/2015)について書いてみる予定だった。執筆にあたって第1、2句集を再読するうち、『草の王』にいたる石田郷子の書き方が、ある点では一貫し、またある点では変容していることに気が付いた。そのため、とりあえず第1句集をめぐるあれこれから、素直に書きはじめることにしたのである。『秋の顔』がわれわれに印象付ける自由さについても、次号、もう少し書いてみたい。




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