「天狼をよむ会」というのが2021年1月に発足し、現在も不定期ではあるが続いている。山口誓子記念館の私としては、本当に有意義な会になっている。戦後すぐの雑誌なので、まだまだ旧漢字や旧仮名遣いがあり、また、内容的にも何が書いてあるのか、正直言ってわからない評論があったりする。そんなとき、理解できた人の意見や説明を聞くと、ああそうかと納得できたりする。本当に貴重な会である。
私は山口誓子記念館で誓子の資料や蔵書の管理・整理の仕事をしているが、たまに、誓子について問い合わせが来ることがある。完全に忘れていたことを思い出させてくれたりするが、それにしても誓子について知らないことが多い。しかし、速度は遅いけれど、ずっと謎だったことが解決することもある。今回は、「実作者の言葉」とは直接関係ないかもしれないが、何年も謎だったことが解決したということを紹介したい。
『天狼』昭和26年4月号の「選後獨断」(誓子選の読者の投句欄「遠星集」の誓子の評)に述べられていることである。特選に入った八田木枯の句「夫婦となり空につめたき日が一つ」の評に、誓子は万葉集の「敷島の日本(やまと)の国に人二人ありとし念(おも)はば何か嗟(なげ)かむ」の和歌をあげている。八田木枯の句は、新婚の夫婦を詠んでいるが、誓子はこの「つめたき日」が「夫婦生活を規定し、夫婦の間の震撼たる雰囲気を傳へて来る。夫婦にはなったが、二人とも燃え立つこともなく、しづかで素っ気ない」と述べる。確かに、誓子と波津女の新婚時代からすると、考えられないような冷たさである。
ところで、和歌のほうであるが、現在の解釈は、この国にあなたが二人いるのだと思えるなら、どうしてこれほど嘆くであろうか、という解釈のようである。しかし、以前は「人二人」を「私とあなた」ととり、「この国に私とあなたの二人しかいないと思えば、嘆くことなどあるはずがない」と「二人のために世界はあるの~」という熱い二人という解釈であったそうだ。だから、誓子もアツアツの二人と解釈し、新婚夫婦の冷たさはこの和歌と正反対だと述べる。(参考:『山の辺の歌碑をたずねて』犬養孝監修、タイムス、昭和48年)
さて、和歌の解釈はおいて、この和歌は、誓子が揮毫した歌碑として、奈良の「山の辺の道」にある志(し)貴(き)御県座(みあがたにます)神社という小さな神社に建立されている。この神社は数仁天皇の磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)跡だそうである。誓子とこの神社とは関係がないようであるし、数仁天皇とこの和歌も関係がないようである。だから、なぜ誓子はこの和歌を揮毫したのか、ずっと疑問であった。当時の桜井市が桜井市長と桜井市出身の文芸評論家、保田與重郎氏を中心に心ある人々に記紀歌謡を楽しんでもらおうという意図から山の辺の道に有名な文人によって揮毫された歌碑を建立したということである。
しかし、誓子はどうしてこの和歌を選んだのか、わからなかった。すでに揮毫の和歌は桜井市のほうで決まっていて書いたのかと想像するほかなかった。しかし、その和歌が『天狼』昭和26年4月号の「選後獨断」に載っていたのである。どうやらどんな和歌を揮毫するかは文人に任せられていたようだ。きっと、誓子もどんな和歌を選んだらいいか、悩んだことだろう。そこで、思い出したのが以前『天狼』に紹介した「磯城島の」和歌だったのだ。
実に10年以上経ってやっとわかった。桜井市の担当者から言われるがままに揮毫したのではなく、以前興味を持っていたこの和歌を選び、揮毫したのである。長年の疑問が解けて嬉しくもあり、学芸員的な仕事もしている私にとって、ほっとしたものである。
しかし、「天狼を読む会」の出席者の前でこのことを言うと、何が嬉しいの?という反応であった。俳句の揮毫ならまだしも歌碑の揮毫など、俳人や研究者には関心のないことであろうし、俳句や誓子に興味があっても、記紀歌謡には関心がないといえるかもしれない。八田木枯の夫婦の句のように「つめたき日が一つ」あることを感じてしまった。
【発行人補足】
現在、山口誓子記念講演会として「誓子と三鬼」が開かれています。小林恭二氏『三鬼』(講談社)が話題となっています。ご参加ください。

