2021年4月23日金曜日

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】11 『眠たい羊』の笑い  小西昭夫

 ふけとしこさんの『眠たい羊』はさまざまな読み方ができる楽しい句集だが、今回ぼくが注目したのはふけさんの滑稽句、ユーモアにあふれた句の多さである。『眠たい羊』は笑いの宝庫なのだ。

指先で穴開けてゆく春の土

 指先で春の土に穴を開けて何をするのだろう。普通に考えれば、花の種や作物の種を蒔くのだろう。しかし、穴を開けるだけで何もしないことだってありうる。純粋に穴を開けることを楽しんでいるのだ。しかし、そんな人はいないかと思うと急に可笑しくなる。

六月を風のきれいな須磨にゐる

 明治二十八年、日清戦争に従軍して帰路喀血した子規は、神戸病院に入院後須磨で療養した。ふけさんのこの句は「須磨」という前書きのある子規の「六月を奇麗な風の吹くことよ」を踏まえた句である。子規の回復を促した須磨と六月のきれいな風へのふけさんからのオマージュであるが、子規とふけさんが同化しているところが可笑しい。

播磨国一宮より蟻の列

黒光りとはこの蟻の尻のこと

 蟻の列は一宮からどこまで続くのだろう。例えば前句の須磨であってもいいだろうが、一宮よりとあるのだから、かなり長い列である。つまりはあり得ない話なのだがそれが面白い。

 黒光りが蟻の尻だという断定もいいな。尻という言葉に少しエロティックに反応する自分にも笑ってしまう。

箱庭の二人心中でもしさう

 この句も可笑しい。箱庭に置かれた二つの人形。男と女なのだろう。その人形にどこか幸薄い印象を持ったのだろうか。その人形が「心中しそう」と言われても、ではご勝手にと笑うしかない。

山近く暮らし秋刀魚を焦がしけり

 ただ、秋刀魚を焦がしたというだけの俳句だが、その人が山近く暮らす人だというだけで笑いが生まれる。事実に基づくのかもしれないが秋刀魚がいい効果を出している。これがふけさんの笑いのセンスだ。

蛤になる気の失せて浜雀

 この句は可笑しくしすぎたかもしれない。「雀蛤となる」という荒唐無稽な季語を逆手にとって季語で遊んだ句であるが、浜雀はもう蛤になる気はないのだ。雀は雀なのだ。そこにふけさんのリアリズムをみることもできる。

白鳥が進む私も歩き出す

 白鳥と私を対比させた対句表現であり、私も前へ進もうというのだ。こんな真面目な句が何でこんなに可笑しいんだろう。私は白鳥だと言っているように感じるからだろうか。そうなのだ、ふけさんは白鳥なのだ。

義士の日の混み合うてゐる足湯かな

 赤穂浪士の討ち入りの日は十二月十四日。そんな討ち入りの日も足湯は込み合っているのだ。もちろん、足湯の人たちに誰かの仇討ちをしようなどという思いはない。それをさりげなく表現して笑いを誘うのである。


この他『眠たい羊』はユーモアのある句に溢れている。それが意図的に感じらっれるものには触れなかったが、『眠たい羊』は笑いの宝庫である。

0 件のコメント:

コメントを投稿