2025年9月26日金曜日

【連載】現代評論研究:第15回各論―テーマ:「花」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(2011年11月25日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 汽船が灯る 菜畑受胎

 第5回にも既出の昭和28年の作品(注①)である。「下関港と周辺」と題した一連の作品中にあるので、港に停泊している船に灯がともったのであろう。その灯火の黄色にポッツと点った瞬間に照応する如く、菜の花の受胎を感応したのであろうか。まるでカンバスに浮び上る様に描かれた海峡をはさんだ船と菜畑のような趣のある作品であり、その取合せも絶妙である。更に七・七の快い短律のリズムである事も詩的共鳴として見逃せないものがある。又、この句に先立って昭和27年に下記の詩(注②)が発表されており、それがこの句の基材ともなっているようである。。

<丘にて>

菜の花は靴の中で受胎する

菜の花はズボンの折目で受胎する

菜の花は耳のそばで受胎する

菜の花はデパートの屋上で受胎する

遠く沖を走る船のマストで受胎する如きは

何の不思議もないことだ

 菜の花の原種は、西アジアから北ヨーロッパの大麦畑に生えていた雑草で、日本では弥生時代以降から利用されたとみられており、江戸時代になって植物油の採油目的として栽培されたそうである。また菜の花は自然交雑して雑種が生まれ易く、同種だけでなく他種の花粉によっても結実してしまうそうだが、果たして圭之介がそこまで考慮してこの詩を書いたかどうかは疑問である。しかし、菜の花という対象への視点の位置を変える事によって様々な受胎の様相が現れてくる事は確かである。

 菜の花は圭之介が特に好んだものらしく、他にも多くの作品がある。

 海峡の向こうで菜の花が咲いている     昭和40年作

 豪華な菜の花ばたけの角を曲がる      昭和41年作

 砂丘へ誰が菜の花をすてたのか       昭和42年作

 思想喪失 菜の花が咲いた         昭和54年作

 菜の花ばたけ黄に 絶望の人は通らぬ    昭和57年作

 かなり散文的な句調のものもあるが、常に菜の花という存在を自己に引きつけては、その実存を確認しているがごときである。そしてその折には菜の花の向光的性格を積極的に意識しつつ。そういえば与謝野蕪村にも菜の花の句が多くあった。

 菜の花や月は東に日は西に        蕪村

 菜の花や鯨もよらず海暮ぬ

 菜の花や摩耶を下れば日の暮るる

 菜の花を墓に手向けん金福寺

 これ等の句の菜の花と月、海、夕日、墓との配合は同じ画家としての視線を通じての印象鮮明な構成となっている。尚、摩耶は私が住む近くの六甲山系の摩耶山であり、金福寺は京都左京区にあり、蕪村の墓や蕪村等によって再興された芭蕉庵がある寺である。


 また、圭之介には受胎関連の句も多い。

 花が受胎する夜のインクと壺        昭和28年作

 旅をもどり花の受胎おわり         昭和32年作

 受胎とはある種の非日常的な詩の誕生への入口でもあり、その行為の結果としての日常への回帰でもあろうか。

 「花」とくれば女性がつきもの。

 それだけの夜だった バラを手にもたせ   昭和20年作

 真相は言わず白く咲く所存         昭和51年作

 女の闇に辛夷ちる覗いてはならぬ      昭和62年作

 お互いに何も言わずに別れ、秘めた思いは秘めたまま、そして散る辛夷は女の闇の中で怪しくほの白く浮び上る。年代によってドラマは少しずつ濃厚になってゆくようである。


注① 「ケイノスケ句抄」 層雲社  昭和61年刊

注② 「近木圭之介詩抄」 私家版  昭和60年刊


●―2稲垣きくのの句 / 土肥あき子

 こころの喪あくる日のなし花散れり

 きくのにとって、しばらく桜は悲しい思い出を引き連れてくる花だった。

 第一句集『榧の実』に収められた掲句は昭和33年(1958)の作で、前書に「急逝せし弟の三回忌を迎ふ」とある。きくのにはふたりの弟があり、上の弟を昭和30年(1955)の春に亡くしている。作品は40代の若さで亡くなった弟の三回忌に宛てたものだ。集中には並んで

 ゆく春やかけがへのなきひと失くし

がある。

  きくののエッセイ「古日傘」によると「南方の島々で全うした命を、彼は松林の家で自ら絶った」とある。自死の理由はさだかではないが、彼の嫁となった女性はきくのが紹介したといういきさつもあって、家庭の事情が関係してくればなおのこと後悔も嘆きも深いものであったと思われる。昭和35年(1960)作の

 花散れりこころの呪縛まだとけず

も弟の一件に関わるものだろう。

 姉弟はたいへん仲がよかったようで、戦地の弟へ「火焔樹の花を知りたいからもしあったら写生して送ってほしい」ときくのが書き送れば、烈しい戦いのひまを見つけスケッチと押花が返ってくる。同封の手紙には

道路に並木を作って咲きそろう頃はその名のとおり火焔のようで(中略)相当どぎつい花だが親しみが持てる

と記されており、きくのは長旅を経てしなびた南国らしいおおまかな花片を愛おしく弟の、その手に触れる思いでそっと手に取る。

 先日、きくのの姪の野口さんから、叔母であるきくのの話しをうかがう機会を得た。野口さんはきくのの下の弟のお嬢さんで、戦後しばらく赤坂の屋敷の敷地内に住んでいた。広大な屋敷の思い出のなかで、ことのほか印象に残っているのが紅蜀葵だったという。紅蜀葵は独立した花弁が特徴のハイビスカスのような花で、その目に沁みるような赤と5片の花弁の独立した姿は火焔樹の花にも似る。

 きくのは毎年咲く紅蜀葵を見ながら、戦地にいても、姉を慕い南国の花の姿を描き送ってきた弟の姿を重ねていたのではないか。

 句集には収められていないが、昭和12年(1937)の俳句手帳の10月1日にただ一句紅蜀葵の句を見つけることができた。

 紅蜀葵一輪なれば痛々し

 当時住んでいた家の庭に咲いていたものか、あるいはどこかで見かけたものかもしれない。しかし、一輪だけ咲いている原色の花を、きくのは痛々しいと見た。日本の風土にどこか合わない花だからこそ、群れ咲いてほしいと願ったのだろう。

 その後、野口さんから紅蜀葵の種を頂戴した。乾いた花房から小さな種がころころと手のひらにこぼれる。この無愛想な種から深紅の花が開くのだ。

 愛するものを秘めるきくのの胸のうちのように。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 花散るや飢も睡りも身を曲げて

 昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 花と言えば桜。今も多くの俳人たちが桜を詠んでいる。「桜巡礼」と称して日本中の桜の名所に足を運んだ俳人もいる。しかし、齋藤玄という俳人は、桜の句をそれほど残してはいない。ことに後半生(昭和46年から昭和55年)に限って言うと13句しか桜の句を残していない。(*2)

 第4句集『狩眼』で4句、第5句集『雁道』で8句、遺句集『無畔』で1句を数えるのみである。3句集の合計収録句数が938句であることから考えると全体の1パーセント弱に過ぎない。

 そのうち10句が「落花」すなわち、散る桜を詠んでいる。

 散るさくら昼の淡きにさしかかり  昭和48年作 『狩眼』

 桜が散り始めると、桜の木のあたりは淡い色に包まれる。淡い紅色は見つめていると眠気を誘う。昼にさしかかろうとする春の日の倦怠感を〈散るさくら〉の淡い色あいに重ねて描いている。

 癒ゆる身はかりそめのもの朝桜  昭和49年作 『狩眼』

 胆嚢炎を患い入院していた頃の句。〈癒ゆる身はかりそめのもの〉という独白と、昼には散ることを連想させる〈朝桜〉の取合せ。回復に向かっている肉体を〈かりそめのもの〉と突き放して見せているところに、死の予感に包まれている玄の心理状態を読み取ることができる。だが、絶句の〈死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒〉ほどの迫力はない。

 生くるをも試されゐるか花吹雪 昭和50年作 『雁道』

 桜は独白を誘うのかもしれない。饒舌な独白は観念に堕しやすく、俳句を陳腐化させる。〈花吹雪〉でかろうじて人生訓俳句から脱しているが、病に執している心が見える。

 花びらの掃かるる音は知られけり 昭和50年作 『雁道』

 聞こえるはずのない〈花びらの掃かるる音〉を病室内のベッドの上で聴いている病者の心理状態を想像して欲しい。幻聴といえばそれまでだが、花屑を掃く音を探す病者は狂気と生への執着との葛藤のなかで、自身が花屑となって誰かに掃かれている音を聴いていたに違いない。現実と非現実の音が耳の奥で交差する。壮絶な無音の病室が見えてこないか。

 花散るや飢も睡りも身を曲げて 昭和50年作 『雁道』

 掲句は〈生くるをも試されゐるか花吹雪〉〈花びらの掃かるる音は知られけり〉と同時期の作。〈飢も睡りも身を曲げて〉が句の眼目。ひもじさに耐えて眠った終戦後の日本人の共有体験が〈花散るや〉の上五から浮かび上がる。病中吟として読むこともできるが、戦後の一風景として記憶にとどめておきたい。

 惜しげもなく散る桜の姿に多くの日本人が美を感じ取るなか、齋藤玄は故郷函館の桜を一度として詠むことはなかった。死後、生家にほど近い函館公園の桜の木の下には、玄の〈ひるがへる遊戯を尽す秋の鯉〉の句碑が建てられているというのに。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 参考までに『狩眼』『雁道』『無畔』に収録されている桜および桜の関連季語を詠み込んだ13句をあげておく。


配列は句集における掲載順である。遺漏・過誤があればご教示願いたい。

 花屑の険しさほどに狼藉す 昭和47年作 『狩眼』

 散るさくら昼の淡きにさしかかり 昭和48年作 『狩眼』

 悪しき世の坂は細りつ花吹雪 昭和48年作 『狩眼』

 癒ゆる身はかりそめのもの朝桜 昭和49年作 『狩眼』

 花散るや飢も睡りも身を曲げて 昭和50年作 『雁道』

 生くるをも試されゐるか花吹雪 昭和50年作 『雁道』

 花びらの掃かるる音は知られけり 昭和50年作 『雁道』

 花の屑うすゆき鳩も忘らるる 昭和50年作 『雁道』

 鯉守のやがてさびしき初櫻 昭和53年作 『雁道』

 鯉の身のまた浮きやすし花吹雪 昭和53年作 『雁道』

 野施行の心は空に花の雲 昭和53年作 『雁道』

 花散るをすぐ立つまでの杉木立 昭和53年作 『雁道』

 散りかかるばかり花びらめざましき 昭和54年作 『無畔』


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 落花いま紺青の空ゆく途中

 『山姿水情』(1981年)所収の句。

 颯々と吹き渡る一陣の風。その刹那、満開の桜の花がどっと薙ぎ払われ、夥しい花びらが紺青の空に溢れ出す。1秒、2秒、3秒・・・。少しずつ密度を落としながらなおひとしきり虚空を流れゆく花びらを、作者はたまゆらの旅人に見立てているのだ。

 落花とは本来「落ちる花」「落ちた花」である。高きより低きに移動する花弁を、いわば本意本情とする言葉だ。しかし、葦男の落花は容易に落ちない。それどころか上昇気流に乗って旅に出ようとするかのような気勢さえある。

 この句を初めて読んだとき、筆者は初唐の詩人・劉希夷の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代はりて)」の劈頭の聯を想い起こした。

洛陽城東桃李花   洛陽城東 桃李の花

飛来飛去落誰家   飛び来り飛び去りて 誰が家にか落つる

洛陽女児惜顔色   洛陽の女児は顔色を惜しみ

行逢落花長歎息   行くゆく落花に逢ひて長歎息す

 描写力に優れる唐詩は、「飛び来り飛び去る」花びらは一体誰に落ちかかるのだろうかというところまで書ききってしまう。これに対して葦男の落花は、30数年前のある春の日に彼の視界をよぎった瞬間から今に至るまで、ずっと地上に落ちることなく紺青の空に止まっているのである。

 葦男の句集『朝空』(1984年)の解説文の中で、大串章が述べている。 

堀葦男氏は、みずからを極小の旅人と自覚する。しかし、そこからニヒリズムや  受身の無常感に堕ちてゆくことはしない。極小の旅人は極小の旅人として、自らの命をいつくしみ、自らの生を充実させていこうとするのである。

 『朝空』の最終部は「過客」という章名である。歿後刊行された遺句集が関係者の熟議の末、同じく『過客』と名づけられたのは偶然ではない。百代の過客である光陰=悠久の時間にしばし随行をゆるされた極小の旅人という葦男の自己認識を尊重した結果であった。

 この集名を撰した際、葦男の忌日である4月21日を今後「紺青忌」と呼ぼうではないかという提言をした門弟がいた。冒頭の句にこめられた過客の思いが葦男の人柄を何よりもよく表しているという理由からではなかったかと思う。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 このまま眠れば多摩川心中いぬふぐり   諧弘子 

 掲出句は著者の第一句集『牧神』に収録。表記は初出においては分かち書きがされていると思われるのだが、「青玄」誌上での初出が確認できていないため、楠本憲吉編集による『俳句現代作品集』(1982年、広論社)及び作者の追悼特集が組まれた「野の会」2011年9月号での表記に従った(『牧神』での表記がすでに分かち書きから改めているのかもしれない)。作者は1963年(昭和38)11月号の「青玄」誌上に初出句にして初巻頭でデビュー、1965年(昭和40)には青玄新人賞を受賞。その後に楠本憲吉の「野の会」に所属、2011年3月に亡くなられた。句集に『牧神』『兎の靴』がある。

  「春うらら」という言葉がふさわしいある真昼の多摩川の河原で、1組の男女が土手の草の上に腰を下ろして佇んでいる。いぬふぐりの花が咲き誇る土手、草の上の二人はとりとめのない会話を繰り広げているではあるが、その中には確かな充実感が漲っているので、さまざまに話題を変えながらもお互いのやりとりが途切れることはない。そんな中、じっと見つめていた彼の顔から少しだけ目を離し、眩しい春の光に照らされながら流れ続ける多摩川の水へ視線を移した彼女の心にふとこんな思いがよぎる、「いまここでふたりが死んでしまったら、のちの人から曽根崎心中みたいに『多摩川心中』なんて言ってもらえるのかな」。自分のふとした思いつきがおかしくて、思わずかすかな笑みを浮かべる彼女。一方いきなりの彼女のほほえみに彼は「川を見ているだけのに何がおかしいんだろう」と思いながらも、彼女に向かって「何がおかしいの」と問いかける野暮な真似は決してせずに、眩しい春の光に輝く彼女のほほえみを改めて見つめ直す。そんなふたりを、いぬふぐりをはじめとした春の草の匂いはぼんやりと包み込むのである。

 「心中」という言葉からもたらされるイメージは、「曽根崎心中」や「ロミオとジュリエット」(少し違うか)のように家族や世間、または自分たちの過ちといった要因によって追い詰められてしまったふたりが、相思相愛を貫こうとする欲望と、現世からの脱出を求めてお互いの手で命を断つというものなのだが、掲出句においては、ふたりの関係が十分に満ち足りたものであるのを確認している今このときに「心中」という言葉がふいに露わになる。だからといってお互いの関係に何かしら不吉な兆候が現れたとか、実は相思相愛のふたりが世間や社会にとっては到底許されない関係性を持っている、などといったいらぬ邪推はいらない。今このときを心中物のクライマックスである「道行」のはじまりとする把握は、あくまでも満ち足りたふたりの関係がもたらした彼女の悪戯心の賜物なのである。いぬふぐりはそんなかりそめの「心中」の舞台を飾るにはもってこいの花、「多摩川」は大都会の生活から醸し出されるさまざまな匂いを両岸で漂わせている空間であるだけに、ふたりのかりそめの「道行」の場の舞台としてはこれほどふさわしい場所はないだろう。

 「青玄」誌上で活躍した若手作家たちの軌跡をたどった『青春俳句の60人』(1988年、土佐出版社)の著者森武司氏は掲出句について、 

愛の極限の女心をこんなに見事に詠んだ句を私は知らない。多摩川原に燦燦と原始よりの太陽は降り注ぎ、相抱く男女。これは万葉人の直情的な相聞歌にも似て、さらに詩的であり、そして俳句そのものの骨法に支えられて深い感動を伝えてくる。怖しい作品である。

と賛辞を惜しまないのだが、読んだ後の深い感動を書いたあとで「怖しい作品である」との一言が加わったことで、評者がこの1句に対して感じた凄みがさらに伝わったのではないかと思われてならないのは、満ち足りた春の空間、満ち足りたふたりの関係への喜びを全身で深く味わい尽くそうとするさなか思いついた「心中」への想念が、誰の心にも一瞬訪れることがあるだろう「死」へと通じる「魔」への誘いのようにも見えるからだろうか。もっともこの春のひとときのこの瞬間、彼女は「魔」への誘いなどどこ吹く風とばかりに振り払って、何事もなかったかのように彼の顔へ満面のほほえみを向けるのであろう、その事のほうが実は「怖しい」のかもしれないが。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 まぼろしの花湧く花のさかりかな   五千石

 第四句集『琥珀』所収。昭和五十八年作。

 今回の「花」というテーマではたと気づいた。五千石に「花の句」が少ないのだ。五千石の代表句を多く収める第一句集『田園』には、「花」「桜」の作品は一句も残っていない。第二句集『森林』になって、〈ぽつとりと金星一顆初ざくら〉〈側溝を疾走の水山櫻〉の二句が登場し、第三句集『風景』には、〈土くれに鍬の峰打ち山ざくら〉〈花さびし真言秘密寺の奥〉〈うち泣かむばかりに花のしだれけり〉の三句がある。

 第四句集『琥珀』には掲出句を含め、六句が収められ、徐々に「花」の句が多くなっているが、『田園』のゼロ、というのはやはり意外というほかない。

 ちなみに『上田五千石全集』(*2)の『田園』補遺には「氷海」の発表作として、以下が残る。

 さくら降りとめどなく降り基地殖ゆる  30年6月

 午後の懈怠さくら花翳濃くなりて     〃

 夜桜に耀りし木椅子の釘ゆるぶ     31年8月

 朝ざくら悪夢に慣れて漱ぐ       35年5月

 『田園』刊行までの十四年間にして、四句の発表というのはごく少ないと云っていいだろう。この「花」の句の少なさの理由を知るすべはないが、当然名句といわれる作品も多い「花」「桜」の作句を五千石はやや敬遠していたのではないか、というのは深読みし過ぎだろうか。

     *

 著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*3)の「自作を語る」の中で、掲句について、“伊豆の韮山での作”とし、“満開の桜に出会ってこの句が生まれた”と記す。“「花のさかり」を前にすると誰しも絶句してしまうもの”、“私も「花」のむこうから「花」が「湧」いてくるのを眼前の景にしばし沈黙を強いられた”と書き、さらに“我慢して「よく見」ていれば何かが発見できる”、“「まぼろしの花」が見えてきたのはそのお陰”、“現実の「花」も「湧」きつぎ「まぼろしの花」も「湧」きついで咲き加わっているのが見えた”、“「花のさかり」は虚実の「花」の混交だった”としている。ここに書かれた通り、花に対峙したとき五千石でさえ絶句し、沈黙を強いられた。「花」を敬遠していたのではないかというものまんざら絵空事ではないかもしれないが、それを越えて詠もうとすれば、残せる作品ができるということだろう。

     *

 「まぼろしの花湧く花のさかり」というのはやや分かりにくようにも感じるが、「まぼろしのような花」をうち出したことにより、現実の「花」との遠近が鮮明になり、いわゆる「花の雲」の情景が読み手に伝わってくる。「かな」止めもよく働いている。

 掲句は、五千石の数少ない「花」の句の中での代表句と言っていい。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊

*2『上田五千石全集』 富士見書房刊

*3 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 乳房のごと辛夷盛りあぐ画家羨し

 椿落ちて万緑叢中一朱脣

 『孤客』45年、46年より。

 花といえば普通は桜だが、ここでは花一般を取り上げてみた。第1句は、油絵である。絵の具を盛り上げて描いた辛夷の花に、乳房の立体感を感じたものだ。「羨し」は「ともし」と読む。第2句は、緑の山の中で落ちた椿の上向きの花弁が女性の唇に似ているというものである。乳房より一層エロチックに見える。何を見ても女に見えてしまう困った性癖であるが今回注目したいのはそれではない。この句の背景に中村草田男の句があるからだ。

 冬空を今青く塗る画家羨し 『長子』

 万緑の中や吾子の歯生え初むる 『火の島』

 万緑は、王安石の詩の「万緑叢中紅一点」からとったものであるから、憲吉はその出典に遡って、「紅一点」を「一朱脣」に似ているだろうと示しただけのものである。憲吉の師日野草城は昭和初期に新婚の一夜を描いた「ミヤコホテル」一連で物議を醸し、とりわけ中村草田男と激しい論戦をした経緯がある。そうしたことを忘れたかのごとく、平気で草田男のフレーズを借用しているのである。

 こうした部分借用は枚挙の暇がないほどであり、さらにそれは自己模倣にまで陥っているのである。

 春は名のみと書き出す手紙ペン涸れ勝ち

 春は名のみの風がもたらす一つの訃

 ぼうおぼうと喚ぶは汽笛か鰊群来

 無惨やなわが句誤植を読む寒夜

 埃吹く街黄落の激しきに (『埃吹く街』近藤芳美の代表歌集名)

 私は船お前はカモメ海玄冬

 見よ東海の岬にたてばひそかに春

 夕立のほしいままなり言うままなり

 我耐えるゆえに我あり梅びっしり

 我愛しむ故に我在り裾冷ゆ春

 君はいまどのあたりの星友の忌更け

(仙台侯に愛された遊女高尾の詠んだ句に「君はいま駒形あたりほととぎす」がある)

 詩であろうが、俗謡であろうがそんなことに構わず、耳に快いフレーズを使う。誠に危険な作句法だが、実はこれが俳句の本質を突いているから厄介である。


●―12三橋敏雄の句 / 北川美美

 切花は死花にして夏ゆふべ

 花に「生」と「死」を見るのは、ジョージア・オキーフ、アラーキーが思い浮ぶが、敏雄に共通の審美眼をみる。

 野に咲く花には生命臭があり、自然界から切り離された切花は既に屍である。夏は特に水が腐り易く、異臭甚だしく花は水の中で腐っていく。掲句は「切花」を通し、今生の儚さと死後の世界の美しさを秘めているように思える。それが「夏ゆふべ」のおどろおどろしさと重なり彼岸をも暗喩している。掲句は『疊の上』収録。

 日本人の美の根底にある「幽玄」を「花」に見ることが多々あるが、あえて「死花」として表記しているところにタロットカードの死神に近いものを感じるのである。

 活花や家居を永くせざりしよ 『鷓鴣』

 「いけばな」もしかり、「幽玄」の美意識から発展してきた。ここにある「活花」が立華に代表される定型、あるいは茶花のような非定型なのか、はたまた中川幸夫のような血のような前衛いけばな芸術なのかは見えてこないが、すでに半屍となった植物が、造形・装花として屋内にあることがわかる。切花に残る匂い、その存在が敏雄を屋外へと押し出していたのである。「いけばな」の起源はアミ二ズムにあると考えられており、切り落としてもまだ生命を維持できる植物の神秘性が根源らしい。ゆえに、その美しさは一瞬のものである。敏雄は、活花に生死の淡いを見ていたのだろう。

 曼珠沙華何本消えてしまひしや 『疊の上』

 つぎつぎに死ぬ人近し稲の花 『鷓鴣』

 我とわが舌を舐むるにあやめ咲く 『〃』

 白百合を臭し臭しと獨り嗅ぐ 『巡禮』

 「エロス」と「タナトス」が見える。花は敏雄にとって、淡く悲しく匂う淫靡な生命として映っていたと読む。アラーキー語で言うならば、「エロトス」。まさに敏雄の花は「エロトス」である。


●―13成田千空の句/深谷義紀 

 藁の家田打桜は満開に

 第6句集「十方吟」所収。

 田打桜。桜の文字が入っているが、実は桜ではなく、辛夷の別称である。辛夷の開花をみて田打ちに取り掛かったことに由来するという。

 菅江真澄が文化年間(1804~18)に記した随筆「たねまきざくら」(随筆集「しののはぐさ」)に「辛夷の花の咲くのを出羽では田打桜といい、その頃に田を打ち、苗代の種蒔の頃の彼岸桜を種蒔桜という」という内容のくだりがある。(講談社刊・新日本代歳時記「種蒔」・解説執筆:多喜代子)

 自然事象を農作業の目処にすることは日本全国各地に見られ、他にも雪形に「種蒔爺」「代掻き馬」などの名を付け、それぞれの作業の目安にしていたことはつとに知られるところである。

 東北の春は遅い。その春の到来を告げるのが、白い辛夷の花である。千昌夫が唄った「北国の春」にも次のようなフレーズが登場する。

 こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春   (作詞:いではく)

 青く澄み切った空を背景に、眩しいほどの白さを放つ辛夷の花。それは、長かった冬を乗り越えられた安堵の象徴であると同時に、これから一年の農作業が始まる謂わば開幕ベルである。冒頭の千空の作品にも、そうした喜びと期待が満ちている。

 弘前城をはじめとして、北東北にも桜の名所は多い。確かに、あでやかに咲き、はかなげに散っていく桜の雅な美しさもいい。だが、「田打桜」という名を持ち、この地に生きた農民たちの思いを伝える辛夷こそ、津軽の「花」に相応しいと思う。


●―14中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】37.38.39.40/吉村毬子

2014年9月5日金曜

37 無体に来る四季赤き眼に目薬あふれ

 先にも述べたように、苑子は『水妖詞館』を出版する理由として、死をも予告する病名を告げられたからだと語っていた。「無体」がその現実を如実に描いていることからも頷けよう。

 余命の無い己が肉体に、四季の移ろいが歯痒く、眩しく、愛しい。未だ到達できぬ俳句への至願を抱えつつ、自身の眼に映る季節の色彩は、永遠に瞼を閉じるその時まで苑子を捕える。まさに実体の無きがごとく浮遊する「無体」、また、その心の動揺や諦念から自身をないがしろにする「無体」は、有体の浮世と接することなどより自然を視つめ、自然に視つめられることを望んだのではないだろうか。しかし、「来る」という表現に、自然という有体も自らを拒むことができぬように、迫りくる時の経過を迎える日々。

 死期を思う焦燥や疲れ、不眠から「赤き眼」の表現が伺えるが、「四季赤き眼」とも取れよう。年中、眼底出血のような赤い眼に目薬を注している状態であるということである。前者の解釈では、中七が句跨りになり、〈無体に来る四季/赤き眼に/目薬あふれ〉になるが、後者は〈無体に来る/四季赤き眼に/目薬あふれ〉である。どちらにしても「四季」は、「無体に来る」と「赤き眼」の両域に掛かり関係を結ぶのである。〝四季が無体に来る〟、そして、〝四季、即ちいつも赤い眼に目薬があふれる〟ということである。

 文学に携わる者は、多く読書家でもあり、疲れ眼の状態が続く。況して苑子は、夜から明け方に及び原稿を書くタイプであり、闇夜の灯で眼を酷使しては目薬を常用していた。それは又、限られた残りの時間に貪りつく読み書きの結果であるのかも知れない。

 晩年の苑子に、眼に良いからと贈ったブルーベリーを、少女のように喜んでいたことを思い出す。

 

38 野の貌へしたたか反吐(もど)す水ぐるま

 前句の「眼」から「口」へと身体を材料にした句が並ぶ。

 「水ぐるま」は、土地を潤すために田畑に水を注ぎ入れ、例えば刈り終えた稲の精米や、小麦粉を製粉する。この句は、春夏秋冬の陽射しを受けながら「水ぐるま」のカタンカタンという音を発するのどかな田園、あるいは、山里の風景画であるはずの様相が、グロテスクな幻想画として読み手に呈示されるのである。

 それは、「野の貌」「したたか反吐(もど)す」の表現によるものであるが、「野の貌」とは、壮大な自然の実態を単なる風光明媚なものではなくもっと厳しく、生々しくとらえたリアルな表現であると言えよう。自然の織りなす、造っては生滅を繰り返す野の時間に「水ぐるま」も「したたか反吐す」ことを繰り返す。

 昨今の減反や農業の機械化が進む以前の日本において、たとえば宮沢賢治の作品にも見受けられるように、農耕という長い歴史と自然との葛藤、忍耐は想像を絶するものがあるだろう。

鳥が食ひ虫が食ひ雨にくさり落つるあまりの李(すもも)が人間のもの

                       石川不二子『さくら食ふ』

旱天の雷に面あげ一滴の雨うけしわれや巫女のごとかる

                       同  『水晶花』

 1933年生まれの歌人、石川不二子の短歌である。不二子は、温暖な神奈川県藤沢市出身の農業家であり、農業生活の辛苦の歌を必ずしも多く残しているわけではない。農業に携わる身の、自然との交歓の景が多く歌われている。しかし、昭和生まれの彼女の歌にも、自然の中に生きる厳しさが垣間見えてくる。

 「野」には、開墾に血と汗を流しながらも、貧苦に朽ち果ててしまった貌もあるだろう。幾多の戦の歴史の犠牲に倒れた無念の貌も、この世では遂げることのできなかった絡まり縺れ合う男女の悲愴な貌も――。それらを受容し、眠らせる「野の貌」へ「水ぐるま」は「したたか」水を与えるのである。自然からの恵みの水を頂いては、自らの力で自然へ「反吐す」ことを繰り返す「水ぐるま」は、渇きゆく「野の貌へ」魂の救済のごとく、永遠に回り続けているかのようである。


39 流木を渉るものみな燭を持ち

 「燭を持ち」て渉る時刻は、夜、または夜明け前、夕暮れ時であろう。昼間、山から伐り落とし、水の流れに運ばれた「流木」か、嵐の海に割れ砕けて流れてきた「流木」か、薄闇の中、凪いだ海上の流木を渉り、沖に向かって行く者たちのひとつひとつの灯りが仄かに揺れ動いている。風も止み、潮騒だけが幽かに聞こえ、月光が海面を静かに照らしている。この果て無く幽玄な美しき光景は、この世の風景とは思われない。

 かぐや姫は、満月の夜、光彩を放ちながら、艶(あで)やかに空を渡り、故郷へ帰って行ったのだが、ここに描かれる者たちも、また、魂の故郷へ旅発つところなのである。

 十七文字の中には、〝死者〟とも〝あの世かの世〟、〝彼岸〟とも表記されてはいないのであるが、とぎれのない一句一章を読み下した後に残る静けさと崇高さは、読んだ者をもその中有のような世界へ誘い込む。生者が死者へとゆっくり変容する姿を見送っているような心持ちになる。

 随筆集『私の風景』の「原始は水」の文中に、『水妖詞館』という題名について語っているが、 

人間の生死の時刻も潮の干満とおおむね符合することなどを思うと、「人間とは、何と玄妙な生き物か」とそぞろ虚しさを覚え、……

というくだりがある。また、俳句の講義の中でも〈潮の干満の時刻は、明け方や夕暮れ以降に多く、人の生死と深く関係している〉と度々話していたことを思えば、「燭を持ち」にその意識が表現されているのだ。これまでに登場して来た直接〝死〟に纏わる句。

  1. 喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子

 15.喪の衣の裏はあけぼの噴きあげて

 16.祭笛のさなか死にゆく沼明かり

 24.落鳥やのちの思ひに手が見えて

 30.愛重たし死して開かぬ蝶の翅

 これらの句のように、〝死〟に関連する語は使われていないのだが、より〝死〟が感じられる。そして、これらの句と比べると、静寂さのみが極まる作品と思われるのだが、愛唱者が多いのは、一句に漂う〈人間とは、何と玄妙な生き物か〉と言う苑子の思いの丈ゆえに尽きるのであろう。

 

40 死は柔らか搗かれる臼で擂られる臼で

 前句39.の文中で取り上げたこれまでの直接的な語、〝死〟を扱った句の中でも、特異な薄気味悪さが感じられる句である。

 臼の中で搗かれ、擂られる、真白い餅の様子が想像される。搗かれるままに、擂られるままに、餅は柔らかにされるままにある。水を含みながら、艶を持ち、上下左右様々に変容されながら、より一層柔らかく滑らかになる。そして、繰り返し動く臼の中の餅が、いつしか人の肉のように思われてきたのではないだろうか。

 しかし、その妄想は、怖しい情景を目の当たりにしているという描写ではなく、むしろその状態に見入り、恍惚としている風にも思えてくるのである。

 「死は柔らか」の表現は、死の持つ美的情緒へ吸い込まれて行きそうな感覚であり、「搗かれる臼で擂られる臼で」の畳み掛けは、さらに死への陶酔にのめり込んでゆく様が感じられる。この6音、7音、7音の構成は、定型を超えた不安定な詩的世界へと消えて行きながら、「柔らか」のか、「臼で」ので、の余韻を残す。また「柔らか」という語と、「死」「臼」「擂られる」のシとサとスのサ行のしめやかな音感が奏でる、あくまで淡々とした静かな流れの印象なのである。

 恍惚として見蕩れながら、苛虐的視点を持ち、柔らかい女体のごとく撓る白い餅を、自らの肉体と感受している被虐的要素も見受けられる。死を客感的、主観的に、精神的な観点から炙り出しながら、ひたひたと呪文のごとく唱えられる稀有な作品として耳に残る一句である。