2025年4月25日金曜日

【連載】現代評論研究:第6回総論・戦後俳句史を読む(私性)

吉澤・筑紫・堀本鼎談

吉澤:川柳ではもともと私性というものは追求されていなかった。発生的に自分の思いを相手に伝える手段として発達してきた和歌と違って、古川柳は作者個人の名前が必要ではなかった。「母親はもつたいないがだましよい」という古川柳の書き方と、現在のサラリーマン川柳の書き方とは、読者が作者名を気にしなくてよいという点で同じである。サラリーマン川柳だけでなく、大結社の句の多くもそうである。新聞の見出しレベルのものとか、道徳的な教訓とか、そういう句が多い。

筑紫:俳句では、客観写生句と主観句がかなり早くから分化していた(大正初期)。難聴の村上鬼城、吉野に隠棲していた原石鼎、絵師の渡辺水巴などは後者の代表であるし、療養俳句や生活苦を詠み続けた石田波郷系統の作家もこれに次ぐ作家たちである。私小説の影響を受けていた波郷系統の作家は境涯俳句と呼ばれており、たぶん川柳で言う「私性」が強いと思われる。しかし、戦後の俳句はこうした傾向はほとんど無くなっている。私俳句というと、古い境涯俳句と誤解される可能性がある。

 春寒やぶつかり歩く盲犬       村上鬼城

 生きかはり死にかはりして打つ田かな

 冬蜂の死にどころなく歩きけり

 桔梗や男も汚れてはならず      石田波郷

 綿虫やそこは屍の出で行く門

 現代ではこういう境涯性を詠む作家は極めて少ないのではないか。今の関心は、うまさやテクニックである。

 秋の淡海かすみ誰にもたよりせず 森澄雄

 寒晴やあはれ舞妓の背の高き 飯島晴子

 うつくしきあぎととあへり能登時雨 飴山実

 ほとんどそこに私性がないであろう。

吉澤:川柳では古川柳や狂句から脱して近代的個を獲得するために、明治以降多くの努力がなされてきた。現在でも川柳人は「自分の思いを吐け」と教えられている場合が多いようだ。他の誰でもない、かけがえのない自分自身を確立するためである。しかし、そのことは《作中主体=作者》という構図を強固なものにした。川柳人の読みでは、書かれているのは作者自身の経験であり、思いであると理解されることがほとんどである。句は、その背後の作者の実体験や思いによって保証される。だから、何が書かれているかが関心の大きな部分を占める。その意味で、時実新子は私性川柳として読まれたと想像している(もちろん、新子の評価はそれ以外の面を含めてなされるべきだが)。境涯句ももちろん私性川柳である。

 悲しみは遠く遠くに桃をむく   時実新子

 別れねばならない人と象を見る

 一束の手紙を焼いて軽くなる   

 灯台の届かぬ海に置く心

 あかつきの梟よりも深く泣く

 真夜中の玩具の猿が止まらない

 これらの句を、多くの読者は時実新子の体験に裏付けられた時実新子自身の心理と読み、その個人的な悲しみに共感したのだろうと想像している。

筑紫:読者を意識した女性俳句を私は劇場型俳句と呼んでみた(「俳句」7月号大特集<女性俳句のこれから>より「劇場型から深慮まで」)。短歌で言えば与謝野晶子のような初期型の女性俳句に多い。これらは、時実に匹敵する女としての私性(境涯性)があると言ってよいだろうか。

 短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてちまおか) 竹下しづの女

 汗臭き鈍(のろ)の男の群れに伍す

 足袋つぐやノラともならず教師妻         杉田久女

 たてとほす男嫌ひの単帯

 月光にいのち死にゆく人と寝る          橋本多佳子

 雄鹿の前吾もあらあらしき息す

 雪はげし抱かれて息のつまりしこと

 体内に君が血流る星座に耐ふ           鈴木しづ子

 まぐはひのしづかなるあめ居とりまく

 コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ

吉澤:印象としては前掲の時実の句と同じと感じる。

 社会性や女性性という主題主義は、川柳の質の変化というより、《大きな物語の崩壊》という時代の変化によって有効性を失っていった。主題主義が有効性を失ったからといって、川柳では技巧万能主義にはなっていない。大きな主題の代わりに、個々の思いに共感してもらいたい、あるいは共感したいということをポイントにして、書かれたり読まれたりしているからだろう。

筑紫:俳句も、社会性俳句、風土俳句、前衛俳句と主題性をもった俳句が続いたが、昭和年代を持って終焉した。俳句は角川書店の秋山実の戦略により、「結社の時代」(実際は、俳句上達法の時代)に突入し、ほとんどの結社主宰者がこれを受け入れたため、川柳とは違い、技巧・技法万能主義に陥っている(つまり文学性の忌避)。ただし、俳句の本質が実は技巧・技法ではないかという気も多少はしなくはないのである。最も目先の利く俳人楠本健吉は俳句はレトリックであるとも言っている。これは俳句本質論として、慎重に考察してみないといけない問題である。

吉澤:実は、戦後川柳を牽引した中村富二も「川柳に残されたものは技術だけだ」という意味のことを言っている。短詩にとって興味深い問題だと思う。

 話を共感に戻すと、この共感というものが曲者である。共感しにくい句(例えば、イメージの句、虚構の句、コトバ自体のつながりや連想などによる句)は、受け入れられにくい。実生活のどこの部分に落とし込めばいいか、わからないからである。多くの場合、難解句として無視される。実生活のどこかに基盤を持たない(あるいは基盤が見つけにくい)、非日常の感覚を題材にした句は共感を得にくい。

筑紫:ここではあえて深く触れないが、季語を入れてしまうとなんとか共感が成り立ってしまうという効果が俳句にあるのは事実だ。全詩歌分野で、最も激しく喧嘩している割には、もっともお互いの共感が近いところにいるのが俳人たちである。季語を使う使わないを問わず、伝統派であっても前衛派であっても芭蕉をはじめとする作家の名句についてはほとんど共感し合っている。

吉澤:さらに、川柳が句会大会を中心として回ってきたという事情がある。選者に取り上げられることを「抜ける」というが、抜けるか抜けないかというオールオアナシングの世界である(選評を言う句会大会はごく一部である。ほとんどは句を読み上げるだけである)。選者の共感を得られない句は日の目を見ることがない。となると、選者にわかってもらえることが優先されるだろう。俳句と比較して、川柳では読者論がより必要ではないかと思われる。句会大会中心主義には一長一短があるが、短所を挙げると、川柳評の発達を促さなかったことと、句集を出すという発想を育てなかったことである。

筑紫:俳句は、結社雑誌の雑詠俳句欄を中心に回っている。句会は、雑詠を補完する修練のための場であり、ここで提出した句も雑詠の主宰選を経ないと認知されない。更に雑詠に投句された句をまとめて最終的に主宰の最終選を経て、句集名を頂いて、序文を賜って、角川の何とかシリーズに入れてもらって、はじめて句集が出来上がる。およそ句集に収録されない名句は存在しない。「戦後俳句を読む」でも必ず句集名が載っているのはこうした理由である。

 主宰は1回の句会で句の価値を決定するのではなくて、雑詠欄の長い投句傾向の中で人格的評価も含めて行うので吉澤のいう(大会で)「選者に分かって貰える」という感覚はわかりにくい。選者に(自分の人格を含めて)分かってもらえるから弟子になるのである。あるいは、選者に人格的に没入してその価値観に所属するから所属結社が決まるのである。その意味で結社内でしかわからない句もしばしばある。

吉澤:俳句の句集がそういう経緯でできるとは驚きだった。主宰ということの意味が川柳とは全然違うようだ。先輩に聞くと、30年ほど前は主宰にかなりの力があったようだが、現在では、川柳の結社の主宰にはそういう力はない。自分の句集を出すのに誰かの許可が要るという発想は、川柳にはない。評価にしても、川柳誌で同人作品の選評を外部の人に依頼するということはよくある。「雑詠欄の長い投句傾向の中で人格的評価も含めて行う」ということは、優れた評者を抱えている一部の誌では可能だが、多くの川柳誌では難しくなっているのではないか。また、大会で「抜ける」ことが一つの評価になるが、投句は無記名であり、選は作者名がわからない状態で行なわれるので、一句一句の単独の評価になる。

筑紫:話をもどして女性作家の私性を論ずる際に、時実と対比したく思うのは、「戦後俳句を読む」の中で土肥あき子が取り上げている稲垣きくのである。女優として、20代には東亜キネマ、松竹映画に出演。1937年、大場白水郎の下で投句を開始、戦争で一時中断後、戦後久保田万太郎を師としたという経歴自身、戦後の劇場型女性俳人の代表と言えるかもしれない。土肥あき子の力作鑑賞のおかげで、鈴木真砂女よりはるかに面白い作家として浮かび上がってきている。今まで取り上げられて来た句を見ても、

 夏帯やをんなの盛りいつか過ぎ

 つひに子を生まざりし月仰ぐかな

 バレンタインデーか中年は傷だらけ

 まゆ玉やときにをんなの軽はづみ

 牡丹もをんなも玉のいのち張る

 先立たる唇きりきりと噛みて寒

 噴水涸れをんなの欠片そこに佇つ

 かなかなや生れ直して濃き血欲し

 私性(境涯性)は濃厚に現れていると思うが、やはり俳句としての特性ゆえか、季語との配合を配慮し、それによるぎりぎりの抑制を図っていることであろう。俳句にあっては、私性(境涯性)はBGMであり、本質は表現の巧緻さを競っているのである。

 例えば、冒頭句の「をんなの盛りいつか過ぎ」では全く昼のメロドラマに堕してしまう内容を、「夏帯や」という季語と切字を配することで芸として昇華させていると見るべきだろう。多くの俳人であれば「をんなの盛りいつか過ぎ」の手柄を20点、「夏帯や」という配合を80点と評価するのではなかろうか。

吉澤:川柳人は「夏帯や」にあまり点を配分しない。ほとんどの川柳人にとっては、どんな思いが書かれているかが関心事であるため、「をんなの盛りいつか過ぎ」という作中主体の感慨に焦点をあてて鑑賞し、評価するだろう。「夏帯や」は、「夏帯をした時の」ぐらいの情況背景と理解する。「夏帯や」の80点がないわけであるから、この句は川柳では平凡な感慨の句となり、評価は高くないだろう。さらに、現代の生活で帯をする女性、しかもそれをただの帯ではなく「夏帯」と感じられるほど和服を着ている女性がどれほどいるだろうかと、一句を鑑賞する前に思ってしまう。私個人に「夏帯」というものの実感がない。それも「夏帯や」を評価の対象にできない理由だろう。

 あるいは、前掲の「真夜中の玩具の猿が止まらない」の句で、止まらない玩具の猿を心理状態の喩と読むように、「夏帯」とは何の喩であり、何を象徴しているのだろうと考える川柳人は多いかもしれない。

 「俳句としての特性ゆえか、季語との配合を配慮し、それによるぎりぎりの抑制を図っていることであろう」という季語による抑制は、もちろん川柳では不可能である。ではどうなるかというと、「一束の手紙を焼いて軽くなる」「灯台の届かぬ海に置く心」「あかつきの梟よりも深く泣く」などのように、一句を私性でストレートに充満させるか、「悲しみは遠く遠くに桃をむく」「別れねばならない人と象を見る」などのように、「桃をむく」「象を見る」のように落としどころを作るか、ということになる。この落としどころとは、問答体の書き方での答えに当たる。こう考えてみると、あまりに当たり前すぎる感想だが、季語の機能の違いだなと改めて感じる。

筑紫:20点、80点の話は私の誇張もあるが、私の言いたいことを典型的に言うとこのようになるのではないかということで書いた。

 例えば俳句においては100年も前にこんな議論が行われたことがある。正岡子規の唱道した写生法は、その結果、印象明瞭の句を多く生むようになった。あたかも眼前に実物・実景を見るように感じさせるもので、これを「直叙法」の句と名づけた。直接叙述する、いきいきと表現すると言うことだ。一方、直叙法の反対の描写法を「暗示法」と名づけたが、これは本体を彷彿とさせ、輪廓を描かずして色を出そうとする方法と言えた。暗示法の句は余情余韻に富むと言う。

 「直叙法」の句はすでに(子規没後10年ほどで)複雜・精緻に進んで俳句表現において限界にきているが、「暗示法」はまだ複雜にも精緻にも進む余地がある。「暗示法」は特性を指示して本体を彷彿させるから、連想の範囲が広くかつ自由である。我々の心動かされる性格美を直接に叙述しようとすれば多くは「暗示法」になるのである。

これは大須賀乙字という俳人の主張であり、彼は、

 赤い椿白い椿と落ちにけり   碧梧桐

 若鮎の二手になりて上りけり  子規

の二句を「直叙法」の代表とし、この傾向はもう限界に来ていると判断した。そして

 思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇 碧梧桐

を「暗示法」とした。ヒヨコと冬薔薇は直接関係ないが、あえかに生まれるヒヨコの可憐さは冬薔薇と対比するとひときわよく浮かび上がる。少なくとも何が何したという「活現法」とは句のふくらみが全く違う。

 一読して分かるように、これは必ずしも新しい文学運動の提唱ではなく、正岡子規以降の俳句の変質に関する観察だったが、同時代の人はこれを新傾向運動とよんだのである。

 前述のきくのの句で言えば「夏帯や」は季語夏帯の暗示法的利用である。夏帯が何々であるからとは言っていないから「直叙法」ではない。ただ、一句全体をある雰囲気で盛り上げているだろう。

 吉澤の議論の中で特に面白いと思ったのは、<現代の生活で帯をする女性、しかもそれをただの帯ではなく「夏帯」と感じられるほど和服を着ている女性がどれほどいるだろうかと、一句を鑑賞する前に思ってしまう。私個人に「夏帯」というものの実感がない。>といっているところである。俳人の大半も「夏帯」に川柳作家と同じ実感のなさを感じている(「戦後俳句を読む」を読んでいる人は夏帯を締めたことのない人ばかりだ)が、だからこそ頭の中の幻想として(あるいは歳時記の中の知識として)季感や過去の伝統を感じてしまうのだ。

堀本:筑紫&吉澤の両者の議論に触れて、触発されるものがあった。

 川柳で言う「喩」とは、俳句が季語を詩語としてみようとする方法の開拓とはすこし違うようだ。

 全般に、現代俳句は一句全体の喩的効果(詩語化)をもとめて現代詩に近づいている。川柳の「喩」はそう言う意味で現代詩に近くなるのかどうか、そこは未だよくわからない。

 上の両者の応答に即して言うなら、季語論の進み方を見ると、たとえば「夏帯」、この言葉それ自体を独立した言語空間(共感の場)として定式化しようとする志向がある。「季感」もある意味では実感そのものではない、さらに季語の共同性を土台にして「喩性」「象徴性」を季語の概念に加え、そこに架空の関係を想定して行くのである。「夏帯」を季感で見るか、喩的に読むか、どちらに重点を置くか、など、一つの言葉に様々な喩の広がりの機能を与えようとする。その季語空間に取り合わせる(関係づける)別の世界がまた取り合わされてゆく。・・「季語」の言葉として生かし切るならば、季節感を越えた詩的空間を作る方向が出てくる。「季語」という言い方がすでにふさわしくないのかも知れないが、季感のみの概念ではない。筑紫もいうように、このことは昔から反省もされ新しい試みもなされていることである。今では。詩語としての季語という考え方は一般的に受け入れられており。随分柔軟になっている。

 川柳では、「喩」と言う場合、それ以外の言葉や情景に直接的に結びつける用いかたなのだろうか?それとも独自な「川柳喩」というべき詩的言語空間を構想するのだろうか?

 川柳の読み方からして、季語の配分を重くしないという理由は分かる。しかし。逆に、夏に用いる絽とか紗の「帯」だけだと即物的指示性の強いものから引き出す「夏の帯」の日常的イメージばかりでは、色っぽいとか、涼しい、から転じて、例えばエロス性という形にしかおさまらない。でもこれではかえって「夏の帯」が存在感、イメージや意味が固定されてしまう。俳句が「季語」の呪縛を逆手にとって想像世界をふくらませようと試行錯誤しているところを、ともに楽しむ必然性がないのだから、面白くないのは当然である、(もっとも、俳人の中にも、そこまでは季語に固執しない傾向もでてきている。)。俳句では、一物仕立ての俳句にあっても、二句一章の場合ほどは極端にあらわれないが、それでも。「夏帯」が句の中にあるとないとでは、ちがうなあ、というところがあるはずだ。筑紫の例を再見すれが、「暗示法」の発見は俳句の技法に大きな影響があるのではないだろうか?

 吉澤が言うような「川柳の喩」をこれから注意して見てみたいが、他の言葉との喩的な結びつき方、はまだわたしには上手く見えてこない。何かを喩えていたとしても、俳句からというより「詩」としては物足りないと感じることが多い 一応のまとめをしてみると、川柳が「夏帯」を「喩」として考えるあり方と、俳句で季語「夏帯」を「喩」であると概念化する考え方とでは、微妙な違いが出てくるようだ。

 これは、逆に、俳人が川柳の「うがち」とか「滑稽」を、川柳固有の味わいとして取りるときに、川柳固有の歴史性がなかなか摑みにくいゆえに、誉めていても相手は誉められた気がしないらしいことと、よく似てくる。双方の、隣の芝生を誉めたり批評したりする場合に、詩形の性格についての無知無理解が多少とも克服される必要がある。歴史的に積み重ねられてきた川柳の良さを損ねないで。より深遠な世界を表現する技巧の開発をいまなそうとしている、ということなのだろう、と思いたい。

筑紫:俳句が求めているのは明らかに「俳句らしさ」である。俳句が何であるかを決めないで「俳句らしさ」と定義するのもひどいものだが、俳句はそうしたメタ的な定義しかできないものである。季語とか切字はそうした「俳句らしさ」を保証するものであり、無季俳人は季語を使わないで「俳句らしさ」を獲得しようとする特殊な(お茶目な)一派である。堀本説に関連して言えば、何れにしても「季語」は西洋詩学的な「喩」ではなくて、俳句らしくする道具であるのだろう。「亀鳴く」は絶対比喩にはならない(もちろん、妻の横暴に夫が泣くのは「喩」であるが)。昔からの俳句の道具なのだ。単なる道具だからこそ、その自由さから「暗示法」が成り立つのだろう。

 そうすると、川柳は非俳句であるとすれば、「俳句らしさ」を求めない575詩型と定義されることになるだろうか。つまり、詩、短歌と同様詩的論理に従って解釈されるべきものではなかろうか。

 だから俳句から川柳を考えるより、詩→川柳→俳句と遠心方的に考えたほうが間違いが少ないように思う。虚子は俳句を「後方文学」としている。俳句はあらゆる文学の中で最も後ろから出てゆく文学なのである。詩、川柳、短歌のように前方にあってはならないという戒めである。

吉澤:堀本の「言葉それ自体を独立した言語空間(共同観念)として定式化への志向があるという気がする」という発言は同感である。俳句には季語という共有財産があって、俳句を書くということは、言い方は悪いが、季語とどう付き合うかということであるような気がする。それは筑紫の「季語とか切字はそうした「俳句らしさ」を保証するものであり」という意見と通底していると感じる。

 季語という共有財産を巡って、肯定であれ、否定であれ(無季自由律がそうなのかと思うが)、それに何を付け加えていくか、という発想が俳句にはあるのではないかという気がする。季語という伝統装置を典型的に象徴するのが歳時記ではないだろうか。一つの季語に対してどう爪跡をつけてきたかという集積が一冊の書物になっている。個々の俳人にとって壁でもあり、スプリングボードでもあったのが季語ではないかと思われる。壁であっても、スプリングボードであっても、俳人は季語と対峙することで多くの佳句を産み出してきたのではないかと思う。自明の壁(もしくはスプリングボード)を持たない川柳人からすると、それが川柳と俳句の違いの最も大きな点の一つかなと思う。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ    定家

 定家は「花」も「紅葉」も書かないことで、逆に鮮烈に「花」と「紅葉」を書いた。「花」と「紅葉」の不在は、読者に強烈に「花」と「紅葉」についての想像を刺激することがわかっていたからだ。どのような「活現法」もこのような効果を持つことはできないだろう。ただし、その前提として、「花」と「紅葉」の重要性とイメージが読者に共有されていることが必要である。定家のその仕掛けと、筑紫の「俳人の大半も「夏帯」に川柳作家と同じ実感のなさを感じている(これを読んでいる人は夏帯を占めたことのない人ばかりだ)が、だからこそ頭の中の幻想として(あるいは歳時記の中の知識として)季感や過去の伝統を感じてしまうのだ。」という意見とは、同じ心理構造を言っているのではないか。和歌では季語とは言わないが、季語のような伝統装置が作句の際に働いているのは同じである。そうであれば、その俳句と和歌(短歌といえるかどうか)との類縁性から、川柳は少し離れている。