2025年4月11日金曜日

【新連載】新現代評論研究(第2回):仲寒蟬、杉美春、佐藤りえ

 ★赤尾兜子を読む2/仲寒蟬

 2. 蜘蛛とわれと背き一日を秋雨(あめ)降れり

 蜘蛛と言えば『蛇』の「鉄階にいる蜘蛛智慧をかがやかす」を思い出す。この『飈』からは数年後の作ということになろうか。鉄階の蜘蛛は下等生物ではなく智恵を持ったものとして描かれている。そう言えば岸の蛇も音楽を解しはしまいがどこか知能を持った雰囲気がある。

 それではこの句の蜘蛛はどうか。「われと背き」という表現からは作者と対等であるかのような印象を受ける。背くは心情の上のそれではなく単なる位置関係であろう。つまり作者が右を向いているとすれば蜘蛛は左、この蜘蛛は室内にいるものだとすれば小虫を捕獲するためにひねもす蜘蛛の囲に張り付いていることであろう。作者は作者でやることがあろうから蜘蛛を凝と見ている訳にはいかない。だから「背き」なのである。つまりてんでに別々のことをしている。だが作者はふとそこに蜘蛛がいることに気付いた。蜘蛛の方も作者を認識したかもしれない。

外では一日中雨が降り続いている。わざわざ「秋雨」と書いて秋の長雨を思わせる。ただの雨ならば季語は「蜘蛛」で季節は夏ということになるが、こう断わることで季語は「秋雨」、季節は秋ということになる。『蛇』以降は無季の句を量産する兜子にしては季節や季語に対して実に細かい配慮である。

 3. 承書必謹日本ハ朝顔の如き國か

 「承書必謹」とは難しい、戦前の大日本帝国を引きずっているような語彙である。字が違うが「承詔必謹」であれば聖徳太子の十七条憲法の第三条にあり「詔を承けては必ず謹め」と読み下す。恐らくこれのことだろう。十七条のうちでは第一条の「和を以って貴しと爲し・・・」が有名であるが、憲法と言っても現在のそれとは異なり当時の宮廷人や官僚の心得、道徳を説いたもの。

 「承詔必謹」とは「天皇の命を受けたら必ず従え」という意味である。この憲法は長らく忘れられていたが明治の尊王思想で復活し軍部もこれを利用した。そのお蔭で国は滅び国民は酷い目に遭った。兜子は陸軍機甲整備学校の特別甲種幹部候補生として入隊し、東京空襲の際に救出トラックで出動した体験を持つ。空襲の惨状を間近に見ていたのである。何という愚かな戦争をしたのだろうという国への怒りと自分もその軍の一員であったという後ろめたさが心の中で葛藤する。

 この句で朝顔が出てくるのは、朝顔は朝になると一斉に花開いて太陽の方を向く、このことが「承詔必謹」に通じるというのであろう。だから日本は古来「承詔必謹」の国であってお上の命令に忠実に従う、そういう国柄であるから先の戦争のようなことが起こったのだという省察と一種の諦めか。


★ー4藤木清子を読む1 「白い昼」/杉美春 

はじめに

 新興俳句運動の中で、数少ない女性俳人として頭角を現わし、優れた作品を発表しながら、忽然と姿を消してしまった藤木清子。「ひとときの光芒」(宇多喜代子)ではあったが、その残像は今も俳句史に残る。戦前・戦中の困難な時代を病弱な夫を支える妻として、後に寄食する寡婦として生きた俳人。その足跡を俳句で辿ることは、新たな戦前を生きる私たちにとって何らかの意味があると思われる。

 以下の点に注目しつつ、藤木清子の俳句を読み解いていきたいと思う。

1. 伝統俳句から新興俳句運動へ

 水南女から藤木清子へ~「京大俳句」を中心に

2.新興俳句運動の中で。「旗艦」を中心に

3.戦争と清子

4.「しろい昼」を中心に~断筆まで

  キーワードとしての「白」と「昼」が象徴するもの


1. ノラとならめ

 火を埋むノラとならめと思ひしころ 藤木水南女(昭和11年「京大俳句」1月号)

 近代演劇確立の礎石ともなった、と言われるイプセンの『人形の家』は、1879年の作。イプセンにおける女性解放の思想は、この作品に初めて色濃く現れてくる。平穏な生活を送っていた弁護士の妻ノラはかつての不正が露見し、夫から叱責を受ける。問題は解決するが、籠の鳥や人形のように生きることより、人間として生きたいと願ったノラは夫も子どもも捨てて家を出る。イプセンが本作を書いたきっかけは、1878年、ローマのスカンジナビア協会に対し、協会内の仕事に女性を採用し発言権を与えるように提案したところ、その定義が否決されたことだという。日本では、1911年に初めて上演された。当時の日本でも女性解放運動は徐々に発展しており、1900年には津田梅子が女子英語塾(前津田塾大学)を設立していた。また1911年には平塚らいてうが『青踏』を創刊、与謝野晶子も女性の教育や解放について論じるようになっていた。そして『人形の家』は日本で上演され、話題となった。このような状況を背景に、杉田久女の〈足袋つぐやノラともならず教師妻〉や藤木清子の〈火を埋むノラとならめと思ひしころ〉などの俳句が生まれたのであろう。

 藤木清子は、草城の「旗艦」で活躍した女流俳人である。昭和六年頃から夫とともに俳誌「廬火」や「天の川」に藤木水南女の名前で投句していた。「旗艦」が創刊されると2号から投句を初め昭和15年まで作品を発表し活躍したが、

 ひとすじに生きて目標うしなへり   藤木清子(昭和15年10月「旗艦」70号)

の俳句を最後に忽然と姿を消した。病身の夫を亡くした後、寄食した家で寡婦として片身の狭い暮らしをしていた。「ノラとならめ」という思いはあっても、時代的な背景を考えれば経済的な自立は困難であっただろう。やがて再婚話が持ち上がるが、再婚の条件は「俳句を捨てる」というものだった。

 久女と清子、この二人の女流俳人は才能を持ちながら「ノラ」にはなれず、ひとりは破門によって、ひとりは再婚によって、俳句への道を閉ざされたのである。

 藤木清子については、断筆後の情報は残っていない。そのため境涯から俳句を読み解くことは難しいので、作品そのものと作品を取り巻く状況を中心に読み解いていきたいと思う。


(1) 水南女から藤木清子へ

伝統俳句の時代

 (「蘆火」1931年(昭和6年)~1935年(昭和10年)「旗艦」入会まで)

 「蘆火」は、後藤夜半が昭和6年11月に創刊した俳誌で、「ホトトギス」の衛星誌。昭和9年10月、夜半の病気療養のため終刊。おもに関西の俳人が集っており、広島・安芸に住んでいた藤木清子も水南女の俳号で、夫の藤木北青とともに参加していた。表紙は東郷青児画伯のヌード画で「俳誌とヌードという取り合わせが、当時としては仰天するようなことだった・・・高屋窓秋の〈頭の中で白い夏野となってゐる〉に好意を寄せた文章が掲載されるなど、ここに新興俳句系の青年たちが集まりはじめた・・・」(『ひとときの光芒』藤木清子全句集 宇多喜代子解説「藤木清子とその周辺」より)

 曼珠沙華抱へて溝を飛びにけり (昭和6年12月「蘆火」2号)

 むき合ふてすわる母子や障子貼り(同)

 私たちが知ることのできる初出の俳句である。

 同じ「蘆火」2号には、夫の北青の俳句も一句、掲載されている。

 お手植えの松のかくれて祭店 (藤木北青)

 水南女も北青も「ホトトギス」系の写生句の域を出ていないが、「蘆火」を通して伝統的な俳句を学びつつ、新興俳句系の俳句と出会っていったのだろう。

 まち針を数へて夜なべ仕舞せり (昭和7年3月「蘆火」5号)

 藤木清子全句集には「蘆火」2号~5号までの7句が収録されている。

  昭和10年からは新興俳句誌「旗艦」「京大俳句」「天の川」に投句している。

 昭和12年後半からは「旗艦」がもっぱら創作発表の場となっていくが、まずは「京大俳句」を中心に清子俳句を見ていきたいと思う。


「京大俳句」への出句

 「京大俳句」は昭和8年(1933年)1月、三高・京大俳句会の平畑静塔、井上白文地、藤後左右、長谷川素逝らによって創刊された。編集人は静塔。昭和10年(1935年)から学外に門戸を開き、西東三鬼、高屋窓秋、石橋辰仁助、渡辺白泉、三橋敏雄らが参加している。新興俳句運動の中心誌として無季俳句や戦争俳句を多く取り上げたが、そのため1940年2月から8月にかけて多くのメンバーが特高警察によって検挙され、終刊を余儀なくされる。

 水南女は「蘆火」終刊後、「天の川」「京大俳句」「旗艦」の3誌を中心に作品を発表している。「京大俳句」に投句を始めたのは昭和10年8月から。それに先立ち同年2月から創刊まもない「旗艦」にも投句している。

   冬夜断想(京大俳句 昭和11年1月)

 冬を生く妻てふ名にぞあらがひて

 人こひし炭火は美しくはしくてれ

 火を埋むノラとならめと思ひしころ

 さびしさに湯気這ひのぼる吾が肋

 病弱な夫との生活は経済的にも精神的にも決して楽なものではなかっだろう。「妻てふ名にぞあらがひて」生きたいという思い、「ノラとならめ」という思いを埋火のように抱えながら、寂しさを募らせていったのではないだろうか。「湯気這ひのぼる吾が肋」という身体表現には、女性としての充たされない思いが溢れている。

  手記(京大俳句 昭和11年5月)

 不楽(さぶ)し妻荒びたる部屋がある

 ひしがれし涙が針にきらめくよ

 昭和11年9月から「旗艦」にも「京大俳句」にも、水南女改め藤木清子として出句している。9月7日に夫藤木北青が病死。その前後の心情が清子への改名のきっかけとなったのだろうか。

 あつき夜が四角な壁となりて責む (京大俳句 昭和11年9月、水南女改め 藤木清子)

 空は青磁ましろき蝶の孵りたる

 真っ青な空へ飛び立つ羽化したばかりの白い蝶。その蝶は清子の化身である。寡婦となった心細さ、寂しさと同時にある種の清々しさも湛えている。

 「旗艦」昭和12年2月(26号)後記に、安芸から神戸市への転居が報じられている。歯科の開業医だった兄を頼って寄宿したのである。以降、藤木清子として「京大俳句」への出句は昭和13年8月号まで続く。


★ー5清水径子を読む1/佐藤りえ

 風ときて寒柝消ゆる鏡かな

 清水径子は明治44年生まれ、義兄秋元不死男の「氷海」で俳句を始めたのが昭和24年、径子38歳の折のことである。中年の山に差し掛かるこの頃までに、径子は両親・祖母・弟と既に多くの肉親を失っていた。二十代のはじめには短期間の結婚、離婚を経験している。俳句という言葉の杖を操るまでに、ここまで多くの別離を経てきたことは、ウェットな意味だけでなく、径子のものを見る眼の下地として息づいているように思う。

 掲句は第一句集『鶸』の巻頭句。寒柝=冬の夜に打ち鳴らされる拍子木の音が風に乗って届き、消えた。窓辺に置かれた鏡台か、手鏡を覗いていたのか。いずれにせよ、書かれてはいないが喚起されるイメージとして、ひとりの情景が浮かぶ。ひとり居る部屋で、ひとりしか映らない鏡を、ひとりで見つめている。チョーン、チョーン、と乾いた音が窓外にあり、その音は遠く、室内の間近までは入ってこない。径子の俳句に色濃く漂うのはこうした「ひとりきり」の静けさである。

 序文に師・秋元不死男が「嘆きの詩性」と綴るように、径子の句には而して立つ身のかなしみ、嘆きがつよく漂っている。

 満月の下を下をとわがひとり

 降る雪の中に薄給わたさるる

 除夜の灯を金魚や草や木と領つ

 子を生(な)さず活けるそばから散るさくら

 しかし嘆きつつ、読む人をかなしませるものではなく、誰を責めるでもなく、痛いほどに屹立し、すうっと此の世を掬い取ってみせている。

 第一句集『鶸』は昭和48年刊行、句集題は不死男がつけてくれたものである。昭和40年以前の表記がある「鏡」から昭和47年の「蓬」まで九章428句を収める。この頃すでに俳歴は24年、径子は62歳になっている。

 序文に不死男が綴る「勝手な作り方」という見方は、不死男自身の作風に重ねたものでもあろうし、径子の作品についていえば肯定的な評言であると思う。心象をあらわす書きぶり、自然な音感の句跨がりの多用、印象的な直喩の多さ、後年師事する永田耕衣にも通じる、万物の位相が自己と一直線上にあるかのような捉え方など、『鶸』にはすでに径子の特徴と呼べる萌芽が散見する。

 あとがきに径子自身が魅力を感じたと挙げているのは、以下の三句。

 ピストルがプールの硬き面にひびき 山口誓子

 山鳩よみればまはりに雪がふる 高屋窓秋

 クリスマス地に来ちちはは舟を漕ぐ 秋元不死男

 硬質なスケッチ、リリシズム、来歴を語る言葉のわざ、径子の指向したものが見える選句である。また、この三句の選句だけからみても、強引に言ってしまえば、径子の試行がきわめて意識的に「現代俳句」を標榜していたように思う。すなわち自由な書きぶりでありつつ、散文化を周到に避けること。嘆きが感じられるのは句材、心情表現からのもので、切れ字による詠嘆が極めて少ないこと。伝統的な詠嘆を以てすれば、嘆いてみせることは、もっと容易いことだろう。径子はそうした手順を避け、きりっと、しゃんとしていることを選んだ。そのように見えて仕方がない。

〈俳句は「十七音の短詩」という考えを深めました〉と綴る、径子の考えを探っていきたいと思う。