投稿日:2011年07月08日
●―1 近木圭之介の句/藤田踏青
心に絵の具とり散らしていた
掲句は「ケイノスケ句抄」所収、昭和39年の作であり<自画像>の1篇。画家でもある圭之介にとって、「色」とは心象風景にとても身近な存在であった。心そのものにパレットナイフで色々な色を直接に塗りたくっている様であり、白い空間と絵の具の凹凸感が心もようの起伏を描き出している。
心に一つの色彩をもち雪の純白 昭和31年作
心 黒い手袋をする 昭和49年作
同じ<自画像>の中の句であるが、こちらは陰画(ネガ)のごとく、心に印画されている。特に後句は前に述べた「黒」の意識を強く押し出した作品である。この作品については「この黒い手袋の指先に閉じ込められた楕円の闇の実体を引きずりだす行為がその創作の原点だ」と評する者もいた。ちなみに、この作品に先立って下記の圭之介の詩が存在している。
『黒のある風景』
漆黒の蝶がとんでいた
帯の様な海峡に碇泊している船も黒い
〈マストに三角の旗が音もなく上る〉
街の上の枯れつくした丘に
黒い手袋のひとがひとりいた
これは「近木圭之介詩抄」所収、昭和27年の詩である。句と詩作品にある「黒い手袋」の主体は当然、作者自身でもある。鬱屈したものは自己の心だけではなく、蝶や船やそれを取り巻く時代そのものであり、それらを押し隠すごとく「黒い手袋」が一人の人物に貼り付けられている。このモノクロの世界は愛読していた「コクトオ詩抄」(堀口大学・訳)の影響もあり、それがデッサン化したものとも考えられる。コクトウ自身、デッサンに熱中した時代があり、それを彼は<図形による詩>とも称していた。尚、この「コクトオ詩抄」は山頭火が何度も圭之介から借り出して読んでいたそうである。
自画像の顔の不機嫌をまたぬる 昭和30年作
自画像 青い絵の具で蝶は塗りこめておく 昭和41年作
私に棲む青いガラス質の一匹です 昭和57年作
自画像関連の句であるが、「塗る」行為の対象とは時間であり、異物であり、秘すべきもののようでもある。また「青い絵の具」や「青いガラス質」の喩とするところは、詩人としての純粋性と繊細さであろう。そしてその圭之介の一行詩的な傾向は、昭和51年に荻原井泉水が亡くなってから、より一層顕著になったように思われる。それは井泉水の自由律俳句論を受け継ぎつつも、それらを超えて圭之介自身の新たな自由律俳句の展開が始まった事をも意味している。
何処いくんだネ 原野に赤い三輪車 平成6年作
路地裏だ 赤い自転車一つみだら 平成10年作
赤という色にはまがまがしさが漂っているが、赤い三輪車は原野という解放的な未知の人生における端緒を示しており、赤い自転車は結果としての現実世界の帰着点を示しており、共に心象風景の中で展開してゆく圭之介ミステリーでもある。
●―2 稲垣きくのの句/土肥あき子
あぢさゐにうづまりて死も瑠璃色か
『冬濤以後』に所収されているきくの63歳の作である。広辞苑によると瑠璃色とは、紫色を帯びた紺色とある。また他の辞書では、薄青色、深い紫味の青、濃い赤味の青と一定しない。掲句では紫陽花の色としているが、この美しいけれども不安定な、どこか定まらぬ色こそが、きくのの瑠璃なのであろう。瑠璃色については他にも
色鳥の抜羽ひろひぬ瑠璃濃ければ(『冬濤以後』所収)
草の実のるり色燦と枯はじむ(『冬濤以後』所収)
と、きくのはときに手にとり、ひときわ目を留める色であった。
きくのの随筆集『古日傘』のなかに、「自分の色」というエッセイがある。そこには、自分の身につける服装の色に関して「赤色はむやみに興奮させ、黒色は大声で笑えなくなる、白色は静かに眠って胸の上に両手を組みたくもなる」とユーモアいっぱいに書かれている。続いて「この頃のように明るい色彩の中に溺れていると、何だか軽佻浮薄に流れやすいような気がする」とあり、電車で見かけた海軍士官の制服の紺色を「この紺の美しさは生涯なにかにつけおもい出す色であろう」と締めくくっている。ゆるぎない紺色を「考えても息が弾むような気がする」ほど美しいと思うきくのにとって、瑠璃色とは紺色に近い色として認識していたのだろうか、はたまた大胆で派手なあくどい彩りとして映っていたのだろうか。
きくのが参加していた「縷紅」昭和17年8月号に35歳のきくのが詠んだ掲句と対となすような句を見つけた。
紫陽花やこころ憂き日は瑠璃濃ゆく
若く美しいきくのの目に物憂げに映った瑠璃色は、先に引いた30年を経た63歳になっても繰り返し鬱蒼ときくのを責めているのだった。美しく咲き誇る大ぶりの紫陽花の毬に囲まれたとき、そのしずかな潤いのなかに立っていることに目眩のような不安がよぎる。
きくのが好んだ牡丹にも薔薇にも、その色は存在しない。紫陽花だけが見せる瑠璃色には、美しい紺色を思わせながら、払っても払っても追ってくる死の横顔が貼りついていたのかもしれない。
瑠璃かけす美し老後など欲しくなし(『冬濤以後』所収)
●―4 齋藤玄の句/飯田冬眞
青き踏むより踏みたきは川の艶
色の句を探して全句集収録句を幾度となく逍遥した。2800余の句を行きつ戻りつしているうちに、感覚が麻痺してきた。字面の色を探しているうちに、言葉の作用によって景が立ち上がり、そこに色彩がまとわり付いてくる。ことに、字面には現われないが、季節自体にも色調をあてはめて感受している自分を発見して驚いた。
中国古代の五行説では、色と季節を対応させている。日本の文人もその影響を強く受けて詩歌を残してきた。つまり、春は青、夏は朱(赤)、秋は白、冬は玄(黒)というものだ。熟語にしてみると、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」となり、いずれも季語である。現代においてもなお、色と季節を対応させて世界を認識するという枠組みは、俳句の季語に色濃く残っている。
色の代表句を選ぶということは、その作家を表す季節を選ぶということにもなる。では、われらが齋藤玄を色で表すならば、何色だろうか。真っ先に思い浮かぶのは、俳号に見える「玄」すなわち黒色だ。黒の句といえば、次のもの。
玄冬の鷹鉄片のごときかな 昭和16年作 (*1)
一読して、冬空を飛翔する鷹の姿が見えてくる。分厚い雲に覆われた厳寒の冬空は、「玄冬」の語こそふさわしい。作者のうえに重くのしかかる冬空は、戦争に突き進んでいる時代の空気と自身の生活を支配する存在を象徴していると読むことも可能だ。権威、権力、圧力を加える支配者。自己を抑圧するすべてのものの象徴が「玄冬」に託されている。そして「玄冬」に挑むかのように「鷹」は冬空の高みへと向かって飛ぶ。鷹はみるみる小さくなる。まるで鉄の破片のようだ。その小さな「鉄片」が大きな空に突き刺さっているように見えた。小さな鉄片が、凍てついた冬の空を突き破れば、光に満ち溢れた春の青空が広がるだろう。けれども冬の空はいともたやすく鉄片を跳ね返し、何事もなかったかのように作者を見下ろし続ける。
冬空を舞う鷹は、当時27歳の齋藤玄自身の投影だろう。まだ本名の三樹雄を名乗っていた頃だ。空を見上げながら三樹雄は、これまでの人生と自分をとりまく人間たちのことを考えていたに違いない。
昭和13年春、齋藤玄は早稲田大学を卒業した。満州での就職を希望していたが、祖父の強制で函館に帰郷。祖父の斡旋で北海道銀行函館支店に就職。孫の顔を見てから死にたいという祖父の願いに服して、昭和14年1月、25歳で結婚。5歳のときに父を亡くした三樹雄を経済的にも精神的にも支配していたのは、明治後年に函館の地に移り住み、一代で函館市の名士にのし上がった祖父だった。祖父の言いなりになって銀行員として暮らす三樹雄の鬱屈は想像するに難くない。そんな忸怩たる内面を抱えた三樹雄を驚かす事件がその後、相継いで起こる。
15年2月、大学時代、従兄の杉村聖林子に誘われて参加した「京大俳句」が終刊。3月、「京大俳句」で指導を受けた西東三鬼と石橋辰之助が、それぞれ句集『旗』、『家』を刊行。5月、「京大俳句」に誘ってくれた従兄の杉村聖林子と石橋辰之助が京都府警に検挙(第2次 京大俳句事件)。8月、西東三鬼が特高警察に検挙。9月、日独伊三国同盟結成。
そうした世情に呼応するかのように同年10月、26歳の三樹雄は「壺俳句会」を結成し、「壺」を創刊する。「鉄片」として「玄冬」に挑んだのだ。三樹雄は創刊号発刊の言葉として、新興俳句運動の「指導的機関建設の埋石」になると記している。
16年3月、小野蕪子から「壺」主宰を辞任するならば「鶏頭陣」に同人として迎える準備があるという主旨の脅迫めいた手紙が届く。小野は京大俳句事件の黒幕と目される人物で、前年12月に発足した「日本俳句作家協会」の常任理事である。16年6月、長女誕生。句集には「吾子出生 八句」と「赤ん坊(二十二句)」が残る。平穏な日々が続くかに見えたが、国家権力による新興俳句弾圧は、三樹雄にも及んだ。「京大俳句」「天香」で西東三鬼・石橋辰之助らの指導を受けたという理由から函館特高警察や憲兵の来訪をしばしば受け、蔵書を押収された。
「玄冬の鷹鉄片のごときかな」はこうした時代背景のなかで生まれた青年の鬱屈と自由への憧憬に満ちた頌歌である。青春俳句史の一隅に記されてよい佳句といえる。しかし、この頃の玄(三樹雄)は、いまだ五行説の枠組みから出ていない。それは、春を前提としての「玄冬」を斡旋し、眼前の鷹に自己を投影させるという作句姿勢からもあきらかだ。唯一「鷹」を「鉄片」に見立てた比喩がこの句に個性を与えている。
ここで、掲句を見ていこう。
青き踏むより踏みたきは川の艶 昭和50年作 (*2)
「青き踏む」は、三月はじめの巳の日(上巳)に青草を踏み、酒宴を催したという中国の風習「踏青」が日本に伝わったもの。墓参の後、桃の花を愛でながら逍遥するさまが唐代の詩に詠まれている。今は三月三日に限らず春の野辺を散策することをいう。
半歳の雪が消えて、蘇った青草は懐かしく美しい。川べりの散策はいつか川面の艶に見せられ、そこへ足を踏み入れたほうが余計愉しいと思った。(*3 自註)
この句の一年前(昭和49年3月)、玄は胆嚢炎を患い、滝川市立病院での入院生活を余儀なくされた。このまま死んだら病室の窓から見える春の山を瞼に焼き付けて、あの世に持っていくつもりだった。川べりの青草を踏みしめながら玄の胸中をよぎったのは、一年前のあの想いととともに、生きて歩けることの意味だったのではないか。それが「青き踏む」から読み取ることができる。だが、この句を単なる春の喜びの感懐に終わらせていないのは、季語に寄りかかるのではなく、むしろ季語の枠を乗り越えようとしているところにある。だからこそ「より踏みたきは」と、あえて句またがりにして韻律を崩しているのだ。そこに既成の季語の情趣を打ち破ろうとする意欲を感じる。「川の艶」とは、陽光に反射した川面の光沢をさす。色として知覚する前段階の「光」そのものをとらえた玄の目は、色からも季節からも自由に解き放たれたといえるのではないだろうか。
*1 第1句集『舎木』 昭和17年 北海道俳句作家連盟出版部発行 『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載
*2 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*3 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
●――5堀葦男の句/堺谷真人
蝙蝠(かわほり)や入江晩紅さめつくし
遺句集『過客』(1996年)所収。1986年から1988年、昭和の終焉を目前にして日本経済が空前の活況に沸いていた頃の作品から成る、第2章「海景」の句である。
僻陬の漁村であろうか。ぎらつく夏の太陽が水平線に没したあともしばらく、海と空は奇蹟のように荘厳な茜色に染まる。岬に黒々と抱かれた入江。とろりと凪いだ海面。きらめく残照。しかし、家々に灯りがともる頃、入江一面に揺曳していた紅は光を失い、夜の闇と溶け合いはじめている。ふと仰げば、夕映えの名残の中、蝙蝠のかそけきシルエットが幾つもひらひらと宙を舞っているのであった。
葦男は俳句における形容詞の使用に慎重であった。形象性の追求は「物のかたち」を徹底的に観る姿勢となって現れた。色彩表現も例外ではなく、筆者の参加した句会の席では、「赤き○○」「白き△△」「黒き□□」等々、色彩を表す形容詞の限定用法は説明的であるとして退けられた記憶がある。
一方、葦男の実作を見てゆくと、色彩を名詞、つまり体言として使用する例が目に付く。冒頭の句の「晩紅」がまさしくそうであるが、代表句である「ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒」をはじめとして、次のような作例には事欠かない。
死の国の黒葉桜のはしばしに 『火づくり』
ぎんなんのさみどりふたつ消さず酌む 『朝空』
川幅を天の黄金冬すすき 『朝空』
常識的見解に従えば、色彩は重さや固さ、においや温度などと同じく形ある物の属性のひとつである。しかし、色彩語の名詞的用法は、時に色そのものに独特の質感、存在感を賦与することがある。例えば、葦男が生後満3ヶ月の嬰児だった1916年9月18日に夏目漱石がものした七言律詩が参考になるかもしれない。この詩の頸聯「黄は霜に耐え来たりて籬菊乱れ、白は月従(よ)り得て野梅寒し」について、中国文学者の吉川幸次郎は以下のように評している。(*)
漢詩における色彩語の効果に敏感な先生は、この聯に至って、ついに、黄の字を、下の句の白従月得の白の字とともに、一句のとっぱじめに置くことに、成功した。
吉川によれば、このような句法は杜甫の「何将軍の山林に遊ぶ」に見える「緑は垂る風に折れし筍、紅は綻ぶ雨に肥ゆる梅」などにもとづくらしい。ここからは筆者の想像に過ぎないが、年少の頃より漢籍に親しんだ葦男が、色彩語の名詞的用法を知らず識らず我が有とし、これを俳句作品に愛用したとしても何ら不思議はない。
最後に、色彩に関連した造語という問題に触れておきたい。
生(せい)噛みしめる海辺の卓癒着いろの乾果 『火づくり』
怒るアフリカ咽喉いろの雷火立つ 『機械』
身震う牡鹿朝日溢れて楽器いろ 『残山剰水』
ではと別れのガスいろの春ゆうべ 『過客』
パステルには12色、24色、さらに120色といったプロ仕様のものがある。日本語には浅葱(あさぎ)、褐色(かちいろ)、黄檗(きはだ)、黒橡(くろつるばみ)、蘇芳(すおう)など伝統的で典雅な色彩名称がある。だが、それら多種多様な色相、彩度、明度をもってしても、葦男が「癒着いろ」「咽喉いろ」「楽器いろ」「ガスいろ」といった不安定な造語でしか表現し得なかった何ものかに迫ることは恐らく不可能であろう。
ある瞬間の直観的な対象把握とそれに随伴するユニークな情緒や気分。固有で強烈なアクチュアリティを持つ半面、再現性に乏しい何ものかを、それでも葦男はなんとか書きとめようとした。そのとき、ぎりぎりの切羽詰った状況で飛び出したのが「○○いろ」等の造語だったのではないか。それは「意味不明」の謗りと隣り合わせの禁断の裏技であり、葦男俳句の究極の色彩表現であった。
* 『漱石詩注』1978年 岩波新書
●―8 青玄系作家の句/岡村知昭
秋の暮行く牛も色減らしをり 林田紀音夫
林田紀音夫は「青玄」昭和25年(1950)から昭和32年(1957)まで同人として作品を発表しており、上掲句は昭和28年(1953)1月号発表の作品で句集には未収録。この号には代表作である「鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ」も掲載。この句も含めた1年間の作品により第4回「青玄賞」を受賞している。
農耕に励む牛か、もしくはモータリゼーション発達前の荷車を引く牛なのであろうか、牛の全身がまるで夕映えに溶け込んでいくかのような雰囲気を漂わせている様子が見て取れる。昼間は滴り落ちる汗もあって光り輝いていた牛の身体はこれでもかと言わんばかりに生命感に溢れていたのだが、夕映えの中の牛の身体はその輝きを次第に失い、風景と一体となっていくかのようである。「色減らし」との的確な措辞によって、溢れんばかりの生命の輝きから遠ざかりつつある牛の姿を鮮明捉えており、一句としての出来には十分なものがある。だが紀音夫がこの一句を句集に入れなかったのは、むしろ出来のよさが自らが求めていたものではなかったからではないだろうか。
柿の色悪しき位牌に見下ろされ
同じ号に掲載された一句。この句の「悪しき位牌」とは家族や血縁といったものへの憎悪に近い感情の表れであろうか。仏壇に供えられた柿のみずみずしさを位牌たちが吸い取ってしまっているかのようであり、そこには面々と連なり続けた血のつながりから遂に逃れられない自分自身への絶望感すら感じ取れる。
黄と青の赤の雨傘誰から死ぬ
こちらは昭和32年に発表された紀音夫の代表句のひとつ。一見カラフルな雨の日の街の情景が映し出されているのだが、それぞれの雨傘を差して歩く「誰から」死んでしまうのだろう、との認識は同時に雨傘を見下ろす、もしくは雨傘を差して歩く自分もまた「誰」のひとりとして死んで行くのだろうか、との苦い思いをもたらしてしまう。
引用した2句はどちらも「色」を描きながら、その「色」は自分自身の負の感情によって塗りつぶされてしまう存在でもある。ここには執拗に「色」を塗りつぶす行為によって、自分自身はますます今このときの存在の卑小さを高めていく、との構造が成り立っており、作品は今の卑小さを生きなくてはならない自分自身に突きつけられた刃と化す。
上掲句に戻ると、牛の「色」は確かに夕映えに失われつつある。しかしその様子はあくまでも風景の中にきちんと収められ、「減らしをり」に込めようとした自らの感情もまた牛の像を塗りつぶすまでには至らない。そこで「秋の暮」の情趣に作品が負けていると考えが浮かんだとしても決して不思議ではないだろう。だから紀音夫は第一句集「風蝕」に「柿の色」「雨傘」の句を選びながら、作品の出来としては良いはずの「秋の暮」の句は選ばなかった。選んだのは今このときを人間として、逃れられない卑小さを抱え込んだまま生きる自分自身のための一句であり、情趣と風景とが一体化する世界に生かされる自分自身のための一句ではなかったのだ。「青玄」での紀音夫はこの自らの志向を確かなものにするべく、さらなる試行錯誤を続けることになるのである。
●—9 上田五千石の句/しなだしん
火を入れてかへりのみちの螢籠 五千石
第一句集『田園』所収。昭和38年作。
この句の自註(*1)には「火を入れてよりはじめて、名実ともに螢籠となる」とある。「火を入れて」、つまり、螢を入れてはじめて「螢籠」であるという明快な句意である。「かえりのみち」からは、とっぷり暗い里の道に、籠の螢の“緑色”の明滅だけが浮かんでくる。
◆
五千石には多くの「螢」の句がある。特に 『田園』には、「老螢」というおそらく秋の螢のことと思われる句を含め、12句が収められている。『田園』300句弱の句数の割合から見ても非常に多いことが分かるだろう。以下、掲出句を除く11句である。
老螢掌よりこぼせば火を絶ちし
生き残る螢葉隠れ草隠れ
老螢末期の光凝らすなり
朝日出て螢の生死忘れられ
掌中に一殊の螢旅稼ぎ
初螢いづくより火を点じ来し
手を執つて青き螢火握らしむ
見えぬ手がのびて螢の火をさらふ
一螢火高樹に沿ひて昇天す
流水にみちびかれ行く螢狩
老螢わが見れば火を燃やしぬる
これらの螢の句は、多分に前掛かりな、つまり感情過多の傾向が強いものが多い。それでいてその感情は詩的昇華を遂げているかといえば、ある種の空周りも感じられなくもない。
ちなみに第二句集『森林』(*2)には次の句がのこる。
初めての螢水より火を生じ 昭和46年
この句について自註に、“「初螢いづくより火を点じ来し」の答えが、ようやく出来た。”と、先の11句の中の1句を挙げている。
◆
掲句にもどろう。前述のようなやや感情過多の螢の句のなかにあって、掲句はとてもシンプルで、淡々としている。
螢籠はその言葉の印象からも、それだけでさびしい存在。また、螢籠に捕えられた螢ももちろんさびしいものだが、自由に川辺を舞っていても、螢はそれだけでもの悲しい。
五千石は『田園』の後書に“省みれば、私の句は全て「さびしさ」に引き出されて成ったようである”と記している。
私には、掲句の螢火の儚い“緑色”こそが、五千石の「さびしさ」の象徴であるように思えてならない。
*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊
*2 第二句集『森林』 昭和53年 牧羊社刊
●―10 楠本憲吉の句/筑紫磐井
過去は何色冬の朝日はローズ色
第3句集『孤客』より。昭和46年の作品。
憲吉の句を取り上げるにあたって、最も有名な憲吉の代表句集である『隠花植物』は取り上げない。憲吉の本領はこの第1句集で汲み取れないからだ。現代俳句協会の主要幹事として、また「俳句」「俳句研究」の論客として、さらに俳句出版社琅かん(=玉偏に干)堂の責任者として八面六臂の活躍をしていた憲吉だが、昭和37年現代俳句協会から戦中派作家が脱退して俳人協会を設立した事件で両協会から絶縁したことにより、大きく人生が狂う。よりマスコミへの露出度を高めることにより、新しい活躍の分野を見出しながらも、伝統俳句と前衛俳句という対立を深めていった「俳壇」からは阻害されてゆくようになる。これは常に変わらぬ現象であり、最近では、松本恭子とか黛まどかがそうした道を歩いているように思える。
いずれにしろそうした時期をふくんだ句集が『孤客』(昭和26~50年)であり、ドラマティックであるだけに際立って面白い。
昭和31年(34歳)に灘萬代表取締に就任しているから経済的不如意とは関係ないが、文学的野心からの鬱屈は大きいものがあったろうと思われる。伝統俳句にしろ前衛俳句にしろいわば専門家集団として閉鎖的な共同体を形成していたわけだから、ここから脱落した憲吉のゆく道は開放的な大衆路線しかない。憲吉の俳句の醍醐味はそこにある。
短歌や詩がどのように制度化されているかは知らない(俳句の制度化は「結社」により完璧に俳人を拘束している)が、制度のあるところに対しては常に憲吉の俳句は魅力的であろうと感じている。
掲出句、これは歌謡曲調である。才能のある憲吉であるからそれと分かるよう露骨にボロを出すことはないが、こんな俳句もこんな心情も近代俳句は詠んでこなかったと思う。これは俳句でも文学でもないと思われている。しかし、酒と女のまとわりついた生活を俳句的レトリックで詠むとこのようになる。芭蕉の求道も、子規の探究心も、虚子のような陰謀もない、平凡な市民である我々そしてあなたにはぐっとくるのではないか。そして、「ローズ色」こそ、萬葉以来詠まれた最も美しい色ではないかと思ったりする。
●―12 三橋敏雄の句/北川美美
鬼赤く戦争はまだつづくなり
三橋敏雄は、戦後の句集『まぼろしの鱶』から『畳の上』まで絶対的「赤」のイメージがある。掲句は『眞神』二句目(『現代俳句全集四』では三句目)に収録されている。実際、「赤」の使用句は、『眞神』6/130(4.6%)、『鷓鴣』6/162(3.7%)と厳選と思える収録数でこの数字である。
霧しづく體内暗く赤くして 『眞神』
産みどめの母より赤く流れ出む
またの夜を東京赤く赤くなる 『鷓鴣』
めでたくもあり、恐ろしくもあり、妖艶で興奮の気配ある「赤」。ゴダール映像の中の鮮やかな「赤」、『追憶』のケイティ(B・ストライサンド)の爪の「赤」、血の色のムスタングの「赤」、鮮明な赤色が敏雄句から想起される。
いつせいに柱の燃ゆる都かな 『青の中』『まぼろしの鱶』
燃える炎も赤である。戦場へ赴いた者にとって「赤」のイメージは単なる空想の産物ではありえないだろう。復興を遂げて豊かさを取り戻しつつある目の前の現実が、どこか嘘臭く、「流れる血」「母の胎内」が二重写しのように浮んできたとしても、不思議ではない。
「鬼赤く」の掲句に、白泉と赤黄男の句を思う。
赤く靑く黄いろく黑く戦死せり 渡邊白泉
石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり 冨澤赤黄男
新興俳句は「青」や「白」にモダンな詩情を託し、「頭の中で白い夏野となってゐる」(高屋窓秋)「少年ありピカソの靑の中に病む」(敏雄)「白の秋シモオヌ・シモンと病む少女」(高篤三)など色の秀句が多い。昭和12年に、渡邊白泉が新興俳句の業績を省みて、「こういう青の俳句に対して、次に誰が赤のリアリズムをつくるか」と言っている。(*1) 青・白そして赤へ。白泉の言葉を引き継ぐように敏雄の赤へのこだわりがうかがえる。
白泉は、色の三原色を合成し黒焦げになり死に絶える人(あるいは、たましい)を句にした。アンディ・ウォーホールがだどたどしい日本語で「アカ、アオ、ミドリ、グンジョーイロ、キレイ」(*2)とテレビを抱えていたCMが戦争を忘れつつある昭和の平和を映し出していたように思えてくる。赤黄男は狂気のような鬼が火を焚くことを句にした。戦争を見たものだけが知る得体の知れない鬼がいる。そして敏雄は、地獄、邪悪、女・・・日本古来からの多様な恐さを持つ鬼が「赤く」なる、それ故に「つづく」戦争。ここでもまた使用されている係助詞「は」。断定・強調の「なり」と対置し、何かは終わったが、戦争はまだ「つづいている」という含みがある。嘘臭い平和は終っても鬼が赤くなる戦争はまだつづく。戦争とは恐いことなのだ。
「赤く」なるとは、紅潮すること、血潮の色である。不思議と三橋晩年の句集『しだらでん』(1996年76歳)に「赤」の文字が入る句が無い。
*1)アサヒグラフ(昭和63年7月増刊号・俳句入門)『昭和はどう詠まれたか』宇多喜代子・川名大対談
*2)TDKビデオテープのCM。1983年製作。プロデューサー:浅葉克己、コピーライター:眞木準(Youtubeにて閲覧)
●―13 成田千空の句/深谷義紀
雪割ると仄めくみどり鳩の胸
千空作品で最も多い季語は「雪」である。津軽の地に住み、俳句を書き続けた千空だから、その作品を語るうえで雪は大きな存在感を持つ。千空自身、次のように語っている。
「津軽の人間の表現には抜き差しならない風土の影響があります。それは雪ですねえ。津軽は雪国だという宿命があります。」(角川選書「証言・昭和の俳句」)
そして、雪といえば真っ先に思い浮かべる色は一般的には「白」だろう。だが、雪を題材(季語)とする千空の作品に、白という色彩感を前面に押し出したものはあまり多くない。例えば次のような句を読んで、白を感じるだろうか。
降る雪の舞ふ雪となり花となる 「忘年」
そもそも「雪は白い」のだろうか。馬鹿なことを言うなとお叱りを受けそうだが、なかなかどうして、雪という存在は一筋縄ではいかない代物である。
一例をあげれば、前回言及した相馬遷子に次のような句がある。
くろぐろと雪片ひと日空埋む 「山国」
ここで雪は黒いのである。
また千空にも、こんな句がある。
滾々と雪ふる夜空紅きざす 「地霊」
ここで雪は赤くなる。
果たして雪は何色というべきか。敢えて乱暴な言い方をすれば、雪は何色でもない、モノクロームな存在ではないだろうか。
闇に現れ雪に紛るる女の荷 「地霊」
では、千空作品において存在感を発揮する色は何か。最も印象に残るのは緑(「青」を含む)である。
掲句はその代表例である。句集「地霊」に所収。この緑はいわばミクロの緑である。小さな、まだ予兆というべき程度の濃さではあるが、千空はそこに確かな命の息吹あるいはその再生の兆しを発見したのであり、その歓びを率直に表わした。
これに対して、大きなスケールのマクロの緑も登場する。
青山河紙ヒコーキは手より発つ 「忘年」
千空にとってモノクロームの世界に対比すべき色彩が緑なのである。そう考えると、緑は、千空にとって死から生への転回の象徴の色だったのではないだろうか。
そして愛妻への深い愛情を示した句に、次のようなものがある。
夏柑にみどりの小星妻癒えよ 「人日」
●―14 中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】3./吉村毬子
2013年3月15日金曜日
3. 河の終りへ愛を餌食の鴉らと
「愛」という崇高な究極的な大きな曖昧に対して「餌食」にすると云う。
愛を育みながらではなく、犠牲にして生を得る鴉。貪欲に愛を貪り、狡猾に自己の空を翔び続ける鴉に象徴されたものは何であろうか。雀でも鳩でもない、そんな鴉らと一緒にいる我もまた鴉と相似しているのか、同類なのか。
一羽ではないらしい。「鴉ら」と複数である。
幾多の紫色の濡羽の鴉らと我は、河の終りへ向かっている。河の終りは此の世の果てか。いや、河口であるかも知れない。終りには始まりがある。まして、「愛を餌食の鴉ら」と我なのだから、果てしもなく「愛を餌食」にしていくことだろう。
そして、そこからは海が始まるのかも知れない。
ドラマティックな句である。
「終り」「餌食」「鴉」の語彙から、一見エキセントリックな感覚ではあるが、一句から読み取れるロマンティシズムは、やはり「愛」という語が根幹なのだろう。
私には、「鴉ら」が、重信をはじめとした俳句評論の同人達に感じられて仕方がないのだが・・・。
いづれにしても、大河と大空を背景にしたそのドラマに終りがないことを読手に感じさせながら、強固な生命力が河口より大海原へ羽ばたく可能性も垣間見えてくるのである。
4. 跫音や水底は鐘鳴りひびき
跫音がやって来る。透明で静かな場所へ、ひたひたとやって来る。帰る跫音かも知れない。けれども、「鐘」は、その跫音によって確かに鳴り響くのだ。水底とは、心象であろう。「水底の」ではなく「水底は」と言い切る。水底にある、或いは沈んだ鐘が鳴り響くのではない。自身の水底に鐘があり、水底が鳴っているのだ。
苑子は「水」が好きである。苑子に限らず、詩人、日本人、生物、皆、水から恩恵を受ける。しかしながら、苑子の詠む「水」はなぜか粘りを持つ。跫音は冴え、水は透明でさらさらと流れ、鐘の音は美しく澄む。だが、苑子の水底に捕まると、それらも清澄なものを湛えながら絡まっていくのである。
下五の「鳴りひびく」が上五の「跫音や」に返り、跫音と鐘の音は、永遠に響き、そして、絡まっていくのであろう。
5. 撃たれても愛のかたちに翅ひらく
苦笑しながら、「お若いあなたは、この句をどう思う?」と聴かれたことがある。しかし、私が答える前に「少々、面映ゆいわ。あんな句が良いなんて。」と、遠くを見ながら言った。おそらく、誰かに絶賛されたのであろう。その時の苑子は、八十歳くらいであったが、その句を作った当時を思い出しながら、私を見ずに遥かを見て、一瞬、一時、その頃に戻ったのだろう。後日、鑑賞する
人妻に春の喇叭が遠く鳴る
について聴かれた時も、そんな瞬間があった。彼女は、時折、そうゆう時間を持っていた。
この句は、非常にストレートで健気である。「愛」に勝てるものはないと断言すればするほど、「翅」の薄さが愛おしくてならなくなる。『水妖詞館』は、62歳刊行だが、編年体ではない句集の為、いつ頃の作品かは解らないが、初期の作品とも思われる。
今回の4句の鑑賞句は、見開きで1頁に2句づつ並べられているが、この4句での物語を感じながら鑑賞することもお勧めしたい。
6. 鴉いま岬を翔ちて陽の裏へ
愛を餌食にしている鴉が「いま岬を翔ちて」次は何処へ行くのか・・・。
「陽の裏」とは、日の当たらない日陰であるのか。不確かでありながら、確かな場所設定よりも「陽の裏」は詩の確信を得る。もとより鴉には「裏」が似合う。
「陽の裏」によって、陽を浴びる岬が浮かびあがり、白波や風も描かれている。そして、「裏」へ入るということは、表の陽を知り尽くし、表にはない別の陽がまた垣間見えるような余韻が残る。
苑子の句は「終り」「底」「裏」と「愛」「陽」などを、同時に直視し提示することで、プラスとマイナス、凹と凸の互いの言葉の交わいが詩を成り立たせている。相反するものを絡ませる技が彼女の身のうちに備わっていたのだろう。詩人の身体感覚は、詩的感覚に繋がっているはずである。