堀本: 私性と言うことに関連して、想い出すことがある。
川柳と俳句など短詩型超ジャンルの「北の句会」をはじめたころ、連句に長けた人が来ていて、全く無知の段階から手ほどきを受けたことがある。
その時、一緒に連句を巻いた川柳人が怒ってしまった。自分の句を勝手になおした、と言うのだ。でも私には怒る理由が解る気がした。自分のかつての俳句の結社への反発によく似ていたからだ。初心者だから、連句のルールをまだ知らぬこともあったが、同時に、その人の川柳の作り方が自分一個の内面の表現をめざしたもの、共同製作するとか、付ける付けられるというルールを受け入れにくいのであった。連句ではその場に合わぬ「私性」は捨てられるのである。川柳人の立場では、いな、俳句にあっても、自分のモチーフを大事にする作者が消されることは認めがたい。これは、今でも根強く残っている。
しかし、私は、先ず連句での捌きの権限がひじょうに強いことに驚いた。それはルールであること、と納得したので私の場合はそのまますすんでいるが、自由詩を書いていたころは「下手でもいいから自分の思いを自分の言葉で」、と考えていたからだ、しかし、歌仙の仕組みにしたがってその共同製作に参加する過程で、自分の個性と署名性の自覚が消えてゆくこと、文台下りれば即ち反古なり、と言うその歌仙を巻く時間の平等が保証されているーこれも一種の舞台装置であること、その場の仮構性自体が連句のひとつの面白みであることも理解できる。詩の構造そのものが、このように、個も包みこんだ世界像を象徴的に完結させている。こういうのも、詩のあり方としてはめずらしいのではないだろうか。
俳句、もちろん一句独立の詩であると言う宣言自体が近代の作家主体の権利をもとめる反映と見てもいいのだが、連句との葛藤は常にある。だが、結社の殆どのところが添削の権限を主宰にゆだねているのは、近代の作家意識と、この座の文芸としての俳諧連歌のを結合しているからだ。こういう形で俳句はだんだん短くなりながら、俳諧の制度をまだのこしているのだ、ともいえる。いまや、川柳でも急速に川柳のアイデンティティや連句俳句の詩形の相互理解は深まっている(はずだ)。
「私性川柳」の押しつけに自家中毒するあまり、川柳人が(吉澤やその同行者のように)、作品にあって私性を表現する必要がない(たとえ虚構化しても)、と感じはじめたのではないのか?もしそうであっても、その選択自体は止めるわけには行かない。それはそれで一つの立場だ。また、作者という自覚を得てゆくにつれて、句集を欲し、署名性を欲する、という個人の創作家=作家的志向が主張が強くなるのも当然ではないか。近代川柳の固有のモチーフ「私性」は、作品内容にではなくむしろ作家の方法の自由の主張として現れているのが川柳の時代的な現段階であろう。
そして、その姿勢は、従来のパフォーマンス的な川柳の共同性とどのように折り合い、改善させてゆくのか興味がある。
吉澤:川柳が一句屹立を目指しているのはその通りだが、「句集を欲し、署名性を欲する」ということには違和感がある。連句との関係で言えば、川柳も俳句も一句屹立を目指す文芸であるので、俳人でも主宰以外の人に自分の句を変えられるのは嫌がるだろう。要は、連句の場でのルールを受け入れるかどうかの問題であって、川柳の特質という問題ではないと思う。
さらに、「固有のモチーフ「私性」はむしろ作家の方法の自由の主張として現れているのが川柳の現段階であろう」という意見にも違和感がある。私性は川柳の固有のモチーフではなく、近代的個の確立とともに現れた。「私の思いを書く」のが川柳であると一般的に考えられてきて、90年あたりからそれを不自由に感じる川柳人が出てきた。多くの川柳にとって私性は固定観念であり、ごく一部の川柳人にとって、私性は自由ではなく桎梏であった。虚構やイメージや音韻による句は、思いが書かれていないという理由で否定されていたのである。川柳の先端では、私性の絶対性(言いかえれば、川柳の近代的個)が相対化されるという過程にさしかかりつつあるというのが現状である。
堀本:この意味は、川柳に於ける近代固有のモチーフとして言われている「私性」と理解してほしい。本格川柳、ひいては詩性川柳といわれる文学性追求の核は、「私」性の追究ということではなかったのだろうか?むろん、「私性」のみが川柳の表現としての特質とか本質ではないと私も思うのだが、しかし、目下の克服課題は、近代川柳の重要な特質として、「思いを述べること」が自己目的視されていることであったのだと、吉澤は言っているようだが。作り方もそうだし、読み方もそうだ。じつはそのことは、俳句でも、似てくるところがある。(特に女性の書き方など、私の評文のデビューもそうだったが、「女性俳句」という特殊なテーマがまずある。)。川柳人でも女性の「情念川柳」というようなもの。自己のモチーフにこだわっている。これは私にはひじょうに印象つよい。これも私性、あるいは自我追究のひとつのあらわれのように思ってきたのだが。
それから、作者の現在の条件が創作動機や方法を大きく規定することがある。俳句でも問題は同じだ。それは立ち位置のちがいもあるし。個人差もあるかと思う。いっぽう、近代文学や戦後文学は、私小説が主流であるし、川柳でも俳句でも詩でも、むろん短歌でも、「作中主体=作者」とされてきた。
吉澤:近代文学や戦後文学で「作中主体=作者」となされていたという堀本発言については、疑義がある。作中主体が作者の体験や思想に色濃く染められているとしても、「作中主体=作者」とは言えないのではないか。
志賀直哉を私小説作家と言えても、第三の新人の安岡章太郎や内向の世代の古井由吉を私小説作家とは分類しない。詩で言っても、鮎川信夫の「繋船ホテルの朝の歌」や田村隆一の「幻を見る人」には、作者にとっての戦後の空虚感が反映されているが、ノンフィクションではない。作中主体は作者自身を背負っていても、何らかのデフォルメが施されているはずであり、厳密な意味では作中主体は作者ではない。読者は書かれていることが作者の実感や実体験に裏付けられているのだろうと予想しながらも、幾分かは虚構が混ざりこんでいるはずだと想像している。そのデフォルメのされ方に作者の思考があると読み、作中の描写が本当の事実ではないと怒ったりはしない。
私が「戦後俳句を読む」で担当している時実新子の場合、その微妙な違いが重要だった。
堀本:「作中主体が作者の体験や思想に色濃く染められているとしても、「作中主体=作者」とは言えないのではないか。」《吉澤の疑義より》
うーん、ここは微妙に認識がずれる。戦後の表現意識は体験をはなれようとしても、「戦争」という私事にして普遍的な体験があった、「私」も自己の内面深く潜らざるをえない、言葉の外がわからそういうモチーフをとらせられる、と言う意味で、この時代の問題作や代表作家を、方法や姿勢を含めて「存在」の文学であり、「作家」であると称びたい気持ちがある。ほんとうの主役は「実際の私=作者主体」で、その実存探求に即して思想や方法の違いがでてきている。「作品の主語=作者」ではなくとも作者の思いを投影したものが殆どではないのだろうか?仁平勝はたしか、作品と作者の人生観を結びつける書きかたや読みかたについて、「人文主義」という言い方をしていた。日本では、「私性」は、知識人の実存追究の核のように考えられてきて、狭い意味での身辺告白もそこに含まれているはずだ。伝奇小説家や。泉鏡花のようなファンタジックな様式性を持つ人以外は、「私」やそれを抽象化した「個」の実存意識から出発しているのではないだろうか。「私」は仮構されることでひとつのカテゴリーとして自由に追究されはじめた、ともいえる。
そして、戦後文学、戦後詩、短歌。俳句の共通したテーマは、前代の国家主義全体性の強圧が個の表現の芽を容赦なく奪っていったところから急に解放された地点から始まっている。急に西欧的自由の観念が出てきたために、彼らはむしろ、与えられた外的な自由と自分の内面の統合に創作のテーマを集中したのではないだろうか?
詩で言うならば、彼らの戦後体験は鮎川信夫のように現在の自己の存在証明の為に。戦争の追憶を仮構していった、「橋上の人」、とか。「イシュメール」。「繋船ホテルの朝の歌」などは。ノンフィクションではないが、完全なフィクションではない。
しかし。戦後詩はその実在性を離れようとして、「喩」という仮構空間を切り開いた、これが詩や俳句に及んでいると考える。
もちろん、「私」に膠着しすぎることの弊害はある。でも私は、一概に私性を否定できない。詩で1960年代の鈴木志郎康のように「極私的」という独自のスタイルを開いた詩人もいるし、「私性」というカテゴリーの上でひらかれた言葉の領域は、戦後詩の必然的テーマだった。
川柳では、渡部可奈子は、わたしが知る限り「私性」それを普遍化し抽象化して「個」の領土を極めようとする作家であった。私性をおいつめて、かなり深い場面で内面世界を対象化している。
連句を受け入れるかどうか、というのは、言葉足らずで誤解されたのなら残念なので、個人差とか興味の問題であるとして。別の切り口を見つけよう。
連句と川柳の詩形の特質についていえば、個人差もあろうが、「私の存在証明」という立場が強烈だと、捌きが大幅に添削したり、点々と場面が変わる運行のルールには入りにくいだろう。私性川柳の立場で、作中主体=作者という理念が内面化している人では特にそうである。もちろん、だからといって私の立場からは、当時のそういう川柳的立場を否定しているつもりはない。また、連句のルールをもっと知れば、それをうけいれて、興味をもつかも知れないことだ。ただ、俳句でも、一作者による一句屹立の独立性を求める余り、連句を拒む人たちはいる。連句をやったら俳句が下手になる、とよく言われた。いずれも、やるやらないは本人の意志である。私などは。数人のレンキストの友人から、道をつけてもらったことは幸運だと思っている。
しかしながら、一つ、訊きたいことがあるのは、川柳ジャンルが、前句付けから独立する過程で、自己の詩形の近くに連句を置かなかったのは歴史的な事実であろうが、その影響をどう考えるか?俳句では、正岡子規が俳諧(連俳)否定したが、鈴木漠の力説しているのだが、子規は晩年はまた連句に関心を持ったそうだ。ともかく、高濱虛子が「連句」という言葉をつくったほど、連句と俳句とは相手を意識している。むしろ不即不離である。
吉澤:俳句は連句の発句から独立したものだから、連句を意識するのはある意味当然のことと言える。しかし、川柳は前句付けから発展したものだから、短歌や詩より連句を特別視しなければならない必然性がない。また、季語を中心に進行していく連句と俳句が近いのは当然だろう。
堀本:「しかし、川柳は前句付けから発展したものだから、短歌や詩より連句を特別視しなければならない必然性がない。」(吉澤)・・そういうものなのか?
【この間沈黙】
堀本:結社で師弟関係を結ぶと言うことは、添削されるのはいやなときもあるが、修行途中である以上そちらの方が句としてできが良くなればアドバイスとして受け入れる場合もある。強烈なモチーフを持ったときにはその限りではない。破門されても主宰の言うことを拒否する。この自由はあるが、ふつうすぐれた主宰は、引き受けた弟子を育てるためには、撰や添削に骨身を削っているはずだ。それが結社主宰の権限でもあり、自負、誇りでもあるのだ、実際のところ、近代俳句のスターは、そのような契約された私塾での修行を経て大成して名句をのこしているのだから、それを否定してなお自立しようとするならば、相当な覚悟をして別の「場」、別の構想を持つ必要があるのである。川柳大会での選者は、庶民的で好感が持てるが、撰の基準は、川柳の通念に照らして厳しい判断をしている、と思う。違うのかな?
座の文芸で、作家として立つと言うことの琴線に触れてくる話になってしまったが・・。
吉澤:信頼できる川柳の先輩によると、川柳大会の成否は選者で決まる、とのことだ。選者であるから一所懸命選をしているのは間違いない。ただ、照らすべき「川柳の通念」にかなり大きな差がある。
選者は様々な基準を設定して選をする。破調は取らないとか、この題でこういう言葉を使ったら取らないとか。この春に岡山で行なわれた「バックストローク岡山大会」(川柳大会)の選者の関悦史の基準は、季語がある句は取らないということだった。俳人として、川柳人の季語の使い方に違和感があったのだろう。そういった選者なりの基準は、選者に任されている。投句者は「……という句は取らない」と被講(川柳大会で選んだ句を選者が読み上げること)の際に言われれば、やむなしということになる。しかし、そのように選の基準だからしかたない、と思える場合はまだいいのだが…。
筑紫:少し戻って言うが、堀本の連句の体験を読んで、半ば笑いつつ納得した。私の体験(連歌であったが)からしても、36句の歌仙はさばき手の作品であり、参加者は単に補助的参加者でしかないであろうと思う(それくらい別格に知識と経験を持った人にさばき手を頼むのでなければフラストレーションが残るばかりである。本格的連歌では私の「言葉」のなにひとつも残らなかったぐらい手直しを受けるし、それも数箇月後に手紙で連絡が来たりする。これは現代俳句・川柳の前提としている文学ではないだろうという気がする)。それに不満であれば参加しなければ良いわけである。その意味で「詩客」で今後開始が予想されている連詩がどのような顛末になるか興味津々というところである(「戦後俳句を読む」のメンバーが既に参加を登録済みである)。彼らの感想を聞いてみたい。おそらく連句と最も相容れない詩型が川柳であるのだろう。
句会について言えば、俳句の句会、川柳の句会、雑俳の句会と膨大な「種類」の句会があり、それぞれの句会がそれぞれの短詩型のジャンルの理念を作っているのではないかと思う。理念が先にあって、それの実践の場が句会としてあるのではない。俳句でさえ更にいくつかの句会の種類があり、例えば典型的にいえば、題詠句会と雑詠句会がある。そして「題詠句会」で真摯に作品を極めれば極めるほど花鳥諷詠になるに決まっているし、「雑詠句会」は必ずその中に無季俳句を萌芽しないでは置かない。これは作者の思想とは関係なく、おかれた制度が花鳥諷詠と無季を作り出すということなのだ。俳句や川柳が純粋な文学や詩に徹したいなら、句会とは縁を切らなければいけないかもしれない(それがいいことか悪いことかは別である)。
私は、あまり我々の伝統が古くからあったと思わないほうがいいと思っている。俳句の句会は明治25年から始まったにすぎない。川柳の句会は前句付の「取次」に由来しているとみるべきなのだろうが、現在のような句会の歴史はそんなに古くはないのではないか。もっとも由来の古いのは雑俳で、雑俳の興行形態から現代の句会は生まれてきたことを知っておくべきだ(明治時代の句会用語の多くは雑俳から借用していた)。