2025年5月23日金曜日

【連載】現代評論研究:第8回 各論―テーマ:「肉体」その他  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

 ●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 月の美しいからだを売る

 「身体」とは頭から足に至る単なる総称であり、「肉体」とはその生きている身体を指す。しかし、掲句の「からだ」は明らかに生きているそれを意味しており、ひらがな表現によってしなやかな女性の肢体と「生」と「性」をも示唆している。掲句は昭和25年の作であり、下関か門司の港町の街娼への眼差しであろうか。「月の」で、その静もった光の中に照り映える女体を浮び上らせ、その静もりは哀しい性をも合わせて導き出している。

 からだ売る青い石ゆびに      昭和28年

 前句と同じような状況の句であるが、「青い石」はその虚飾として体を売る行為への僅かな抵抗感なのであろうか。「虚飾 指の」(昭和63年作)という圭之介の句もあった。

 両句共に二句一章の構成の中で、下句が上句へと還流してゆく様は、売春という日々の生活の不毛をも重ねて見る事が出来る。因みに売春防止法は昭和31年に施行され、昭和33年3月までに所謂、赤線の灯は完全に消えた。赤線の語源は、戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示した事によるが、その言葉も今では死語になりつつある。

 「桃」

 かのおんなの魂は

 昇天してしまった

 あとに残っているものは

 脂粉の香を放つ

 肉体のみである

 

 桃の木の下に桃が

 一個おちている

 この詩は「近木圭之介詩抄」所収の昭和26年の作であり、上掲二句の間に発表されているが、その対象が街娼とは限らない。この肉体は死に包まれているが、「桃」という存在に香りとやわ肌、そして崩れやすい女性に対する静かな眼差しが感じられる。精神と肉体という対立形質にたてば、この肉体はモノローグとして「桃」に表象されているのであろう。

 影も手がはたらいている      昭和49年

 肉体を直接的では無く、影を通して間接的にその動きを表現している。それによって心象風景が拡がり、深められる効果があるようだ。「手」という一部分から体全体の動きへと、そしてそれから類推される生活そのものまでにまで思いが至るようである。更に「影も」という措辞により、忙しく働いている生き生きとした様が想像される。言葉の暗示性としての「影」は、言葉が持っている意味以上のある一つのものを表現しようとして暗示的な作用を作品の構造に及ぼしているのではないか。

 影 完璧に歩はば      平成18年

 この年、圭之介は94歳を迎えており、その影に肉体の衰え「老い」をはっきりと認める事が出来る。更にその十音の短律は、老人の影の小ささ、歩幅の短さを自嘲的に示してもいる。また、この様な「影」を通した間接的な表現方法の句は「層雲」の自由律俳句によくみられる。

 つくづく淋しい我が影よ動かして見る   尾崎放哉

 影もそまつな食事をしている       住宅顕信

 顕信は特に放哉の句に心酔していた事もあり、各々の病の上に生まれて来た境涯句としての淋しさにも共通項が認められる。その身体的、経済的、社会的弱者としての否定性は私小説的な意味合いを持ち、石田波郷の「俳句は私小説である」にも相通じるものがある。

 インフルエンザ。鼻の中に不安な地形がある  昭和51年

 耳の形が夕日の形が 悪魔を吐く       平成3年

 風が止んだままの形で背骨にいた       平成4年

「鼻」や「耳」や[背骨]といった身体の一部をもって心象を俳句化することはよくみられる傾向である。しかし、境涯句のように身体を己自身の存在感に引き寄せるのではなく、掲句のようにそれ等を硝子の向こうの世界において、二重構造のように眺めることによって作品のベクトルの拡がりを求めるのも新しい傾向であろう。


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 春暁の手を伸ばしてに触るるもの  「春蘭」昭和14年6月号所載

 大場白水郎主宰「春蘭」に掲載された掲句は、きくのが投句を始めて3年ほどの作品である。

 春暁が招く明かりに、漂わせた手に触れるものはなんだったのだろうか。

 きくのの俳句のなかで、もっとも印象的に登場する肉体は「手」である。女優を辞めたのち、茶道教授をしていたこともあり、ひときわ仕草の美しさを意識していたのかもしれない。茶道の無駄のない流れるような所作は、すべて美しい手の表情によってより際立つ。

 春愁やはたらかぬ手の指ほそく 『榧の実』所収

 随筆集『古日傘』のなかで「手」という文章が残されている。銀座の「Y」という額縁屋で、あるとき画帳を出され、手型を押してくれ、と頼まれたという。「(中略)見ると、もうたくさん押されてあって、画家、作家、俳優、音楽家といったような芸術家が多く、墨で押された手型にも濃いのうすいの、べとべとなのといろいろあり、傍らにそれぞれサインとわた手によせる文字がつづられている。『おお、いとしのが手よ』とかいてあるのは、如何にも指の長いソプラノ歌手であった。『お前はおれの最も親しいやつだ。おれの悪事をお前はみんな知っている』これは漫画家である。」と印象に残ったものを挙げているが、はたして自分はといえば「かいた文句は忘れてしまった」とつれない。つい最近、別の作家のエッセイを読んでいて、この「Y」という額縁屋が銀座8丁目にあった「八咫家」であることがわかった。現在は大田区千鳥に移転したそうで、早速画帳が今もあるか、あればぜひ見せてほしい旨をたずねてみたのだが、先代は亡くなり、電話口に出られた方は「話しは聞いた記憶はあるが、見たことはない」という返事だった。きくのは画帳にどの句を記したのだろう。手にまつわる句であったのだろうか。はたまた手型はべったり派か、薄墨派だったのか。まぼろしの画帳を今しばらく追ってみようかと思う。

 春昼や男手を待つ壜の蓋  「春燈」昭和49年5月号所載

 きくのに詠まれると男手も単なる労力ではなく、力ある色香を感じさせる。句集『冬濤』では、切なくも愛おしいくつもの手が登場する。

 暖かやさしのべられし手に縋り

 滝の音によろけて掴む男の手

 春の夜の触れてさだかにをとこの手

 触れし手のぬくもりのわがものならず

 そして、中年以降の女であれば誰でも知っていることだが、年齢がもっとも如実に刻まれるのは顔でも髪でもなく、手である。60歳を目前としたきくのがことのほか情けなく思ったのは、老いの表情を見せるようになった我が手であった。

 手袋の手の老いを愧づ人しれず  『冬濤』所収


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 青葦原ふたつの目玉なにもせず

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 句集では、「風土」の項で取り上げた〈いつの日の山とも知れず夏大空〉の次に配列されている。この句は、〈知れず〉という受動的なことばを用いながら過去と現在という記憶の揺らぎを〈夏大空〉によってとらえた秀句であった。

 この年の三月、六十三歳の玄は前立腺手術のために北海道の砂川市立病院で一ヶ月余りの入院生活を送る。掲句は退院後の作であると思われる。自註を見るとこうある。

 見渡す限りの青葦原。それを見ている二つの目玉。青葦原を見る他は何もしない目玉。しまいには青葦原も見なくなった目玉。(*2)

 上五〈青葦原〉と中七以下のフレーズとの間に、ある行為とそれに伴う時間の経過が省略されている。軽く切れながら繋がっていく句の構造は、晩年の玄の作風でもある。〈青葦原〉という大きな景色と〈ふたつの目玉なにもせず〉という微細な描写を並べたことで、シュルレアリスムの絵画を見た時のような不思議な印象を与える。それは、肉体からふわふわと〈ふたつの目玉〉が抜け出して、空間に静止した状態で〈青葦原〉を見下ろしているイメージとでもいおうか。やがてその目玉は〈なにもせず〉に宙に浮いたまま消えてゆき、〈青葦原〉だけが風に揺れている。前句の〈いつの日の山とも知れず夏大空〉では、山を見ていた作者が〈夏大空〉の視点にすり替わって、記憶の中の山や眼前の山、そして死後の山を見下ろしていたが、それとは異なる趣を持つ。目玉のあったもとの場所には、暗い穴がぽっかりとあいている。もはやそこには魂すら宿っていない。下五〈なにもせず〉が虚脱した作者の心理状態を暗示させる。青葦原の実景は作中主体の眼前にありありと映っている。しかし心はすでに肉体から遊離して、うつろである。そうした無音で無色の精神世界が描かれているともいえるだろう。なまなましい〈ふたつの目玉〉が肉体性を象徴しているとするならば、それが「見る」という機能を果たさなくなったとき、心もまた、なにもしないということになるのだろう。死者の視点といってもよい。

 こうした機能不全に陥った肉体を詠むことは何を意味するのだろうか。肉体の意の「肉」あるいは「肉〔しし〕」という語を読み込んだ句をいくつかあげてみよう。

 しんしんと肉の老いゆく稲光  昭和47年作

 痛まねば肉〔しし〕といふもの春惜む  昭和49年作

 流燈を送るは肉〔しし〕を櫓〔やぐら〕とし  昭和50年作

 最初の句では、稲を豊かに実らせると信じられてきた光、つまり稲妻と深く静かに老いに蝕まれてゆく作者の肉体との対比が視覚的に把握されている。ここでの肉体は稲光という自然によって照らし出されたことで、回避することのできない「老い」を自覚したという生きるものの哀しみが描かれている。二句目では、病による痛みがなければ肉体を意識することができなかったという作者の述懐を〈春惜む〉という詠嘆的な季語に重ね合わせている。痛覚と季節の移ろいを対比させた点はユニークだが、情感が勝ちすぎて、詩としての純度が高いとは言えない。三句目には、流れ去る燈籠をたたずんで見送ることで、生の実感を味わっている作者がいる。肉体とは死者の魂を見つめ続けるだけの櫓のようなものという認識は、痛切。

 睡りては人をはなるる露の中  昭和53年作

 病中の作という背景を知らずとも〈人をはなるる〉の一語から強い詩情を受け止めることができる。生の悲しみに溺れることなく実景をとらえる目のたしかさがある。肉体から目や魂が遊離して実景だけが存在するというモチーフは、掲句やこの句のほかにも繰り返し詠まれている。滅び行く肉体を凝視することで至りついた静寂さをたたえた智慧の光をこれらの句から感じる。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 これやこの痩脛皺腹初風呂に

 『過客』(1996年)所収。葦男にとって今生最後の新年となる1993年正月の作。

初風呂につかる。なみなみと溢れる湯の中で四肢をくつろげ、顔をさすっていると、気分は極楽、生まれ変わったようだ。が、湯を透かしてつくづく我が身を眺めると、やはり年齢相応の衰えは蔽うべくもない。なるほどそうか、これが世にいう痩せ脛と皺腹そのものなのだ。

 葦男は同世代の中では長身であった。晩年、少し猫背になってからでも、筆者の目測で170センチは優に超えていた。学生時代、陸上競技で鍛え上げた肉体には相当の自信があったらしく、徴兵検査も甲種合格確実と観念していたという。しかし、1941年7月の検査結果は第三乙種合格。同時に胸部疾患の疑いを申し渡され、1年間を日本赤十字兵庫療養院で過ごすこととなった。25歳の時である。戦中戦後期はしばし小康を得るも、1949年6月に突然再発し、絶対安静2ヶ月、自宅療養1ヶ年を余儀なくされる。

 黒揚羽声もがれたるわれに飛ぶ 『火づくり』

 蒲団饐(す)うるにほひ生きんとするにほひ   同

 酷暑去る十指の爪に溝鐫(え)りつけ   同

 近現代俳句には「闘病の文芸」という一面がある。自己の肉体の変化や病状を客体視して叙述する子規の筆法をどこかで意識したのか、『火づくり』「水の章」の連作「鏡中の夏」には2度目の療養生活を淡々と叙する作品が目立つ。ただ、子規の肺患が重篤化し、やがて肉体崩壊の惨状を呈したのに対し、葦男の肉体は古傷を内に包み込んでゆっくりと生育する樹木の如く、二豎を制御することに成功した。年譜を見る限り、壮年期以降は大病に見舞われることなく年を重ねてゆく。

 さて、ここで冒頭の初風呂の句である。

 浴槽の中で痩せ脛と皺腹に対面する葦男は自己の肉体の衰えを嘆いているだけなのであろうか。筆者はそうではないと思う。加齢に伴う肉体の変化を興味深く観察し、あたかも一幅の俳画のような軽みをもってさらりと言い止める。そこには老いへの好奇心こそあれ、重くれた悲傷は見られない。

 更に付け加えるならば、歌舞伎をこよなく愛し、酔って興至れば名場面の身振り・声色を披露した葦男にとって、例えば皺腹とは単なる老醜の即物的表象ではなかった。むしろ老年の侠気と気概とを(多少コミカルに)示す道具立てであった。

 今になつて川越が娘と言ふて得心あらふか、

 卑怯至極と思し召す御心根も面目なし、皺腹一つが御土産。

 『義経千本桜』「堀川御所の段」。九郎判官に詰め寄り切腹しようとする川越三郎の科白である。ことによると葦男は湯気の中で音吐朗々と川越の声色を使いつつ、皺腹を撫してすこぶる上機嫌だったのかもしれない。

 それにしても、「これやこの」という大時代な上五といい、「初風呂」というめでたい季語といい、この句には様式美を踏まえた遊びがふんだんに織り込まれている。自己の肉体を一個の形象として凝視する「リアリズムの目」を失わず、なおかつ状況を演劇的に俯瞰する「桟敷の目」も働いている。千両役者・葦男の面目躍如というところであろう。


●8-青玄系作家の句/岡村知昭

 航空機胃の上を過ぎる餉後しょうごの臥   日野草城

 戦後の俳句における「肉体」の一句というテーマを考えていくと、ふたつの身体のありようが浮かび上がってくる。ひとつは結核療養者に代表される「病める身体」、このモチーフの作品として当時から反響の大きかったのが石田波郷の『惜命』である。もうひとつは労働をモチーフにした「働く身体」、こちらのほうは「社会性俳句」との絡みもあってモチーフとしての存在感を増してゆくことになる。どちらもそれまでに書かれなかった訳ではないのだが、これまでとモチーフの扱い方において大きく異なる点と考えられるのは、どちらの身体も個人的であると同時に、これまで以上に社会的な存在感を持つようになってきたところではないだろうか。もちろんいま挙げたような簡単な割り切りでは漏れる部分も多いはずなので、これからもさらに考えを深めていけるようにしたいと思っている。今回はひとまず「病める身体」の側面を見ていくことにしたいが、そうなると一番に登場するのは当然のことながら病床から「青玄」を引っ張り続けている日野草城その人である。

 掲出句は昭和25年(1950)7月号初出、句集「人生の午後」に収録。句集の章扉にはこの年の病状について「一月、発熱を押へてストレプトマイシン5グラム注射、効果顕著。」「病状は前年より安定し、作つた俳句の数も多かった」と記されている。

 病める身体に鞭打つかのようにようやくの食事を済ませて、疲れ切って横たわっているというところであろうか。病める身体への意識は食事を済ませてより鋭くなっているのか、胃の中では先ほど口から入れたばかりの食べ物をどうにか消化しようとするうごめきが感じられてやまない。自分の家の上空を通り過ぎる飛行機がとどろかせる爆音の大きさもまた自分の体に強く響き渡り、病める体にさらなる疲れをもたらしていくのである。

一句を支えているのは「航空機」と「胃の上」の位置関係の把握の仕方である。病床の自分と上空の航空機との間にある屋根瓦、天井といったものは一切省かれており、さらには自分自身の身体そのものではなく「胃」に焦点を絞ることによって、病める自分自身の身体を揺さぶってやまない「航空機」の存在をより高め、一句から浮かび上がってくる像を鮮やかなものとしている。このあたりの構成のうまさはさすが草城と言うところで、無季俳句の作り手としての力量は、この一句からも十分に伝わってくるのである。

 ここで気をつけて見ておきたいのが「航空機」の存在だ。空から自分の身体に押し寄せてくる音のとどろきや物象から来る威圧的な存在感といったものを、どうして一句に的確に把握できたのかを考えるとき、草城の自宅「日光草舎」が大阪空港からそれほど離れてはいない大阪府池田市にあることも影響しているだろう。戦前 から軍用空港として使われていた大阪空港は、敗戦後は連合軍に接収され「伊丹エアベース」と呼ばれていたという(大阪空港が「伊丹空港」とも呼ばれるのはその時の名残と言われる)。昭和25年の6月には朝鮮戦争がはじまり、空港と朝鮮半島を行き来する軍用機の数は日々増していったであろうことは想像に難くない。掲出句が作られた時期はおそらく朝鮮戦争のはじまる前なのだろうが、ただ「病める身体」を自宅に横たえることしか出来ない草城は、毎日絶えずのしかかって来る軍用機の爆音を自分の身体で受け止めながら、ようやく訪れたと思われた静かな時間が、再びも戦争の危機にさらされてしまっているのを「病める身体」の視点ゆえに微細に感じ取っていたのかもしれない。

 先ほど引用した句集「人生の午後」の章扉には次のような記述もある。「三月、温子豊中桜塚高校卒業、進学の志を捨てて母校事務室へ就職」。自らの「病める身体」がもたらしてしまった家族の苦難の一端を草城は記す。このとき草城の身体には病魔だけではなく家族の生活の苦難が、さらには再びの戦乱への恐れもがのしかかっていたのだろうが、「病める身体」は全身でそれらを受け止めながら自らの求める「戦後俳句」と向かい合うのである。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 どの石も蜥蜴の腹をあたためず     五千石

 第一句集『田園』所収。

 前回の「音」でも書いたが、五千石の作句は研ぎ澄まされた視覚が中心であり、今回のテーマ「肉体」「身体」についても、己の身体を詠った句、他人の肉体を詠った句、またそれを連想する言葉が使われた句は見出すことができなかった。

     *

 掲出句。強いて言えば、蜥蜴の「身体」を詠んだ句である。

 だがこの句の面白いところは、蜥蜴の腹のことを自分の身体の感覚のように詠んでいるところだ。まるで己の腹で石ひとつひとつの温度を確かめたような断定のしかたである。

 五千石の作句信条といえば「眼前直覚」だが、五千石はしばしばその眼前を飛び越え、対象物と同化して作品を成すことがあるように思う。

たとえば、

 渡り鳥みるみるわれの小さくなり     五千石

は、その例として分かりやすいかもしれない。

 この「蜥蜴」の句も、対象物である蜥蜴の「身体」と同化して、蜥蜴の感覚が五千石の「身体」を通じて言葉に成った作品ではないかと思うのだ。

     *

 第一句集『田園』は、章題とは別に、概ね二句ごとにタイトルが付けられた構成になっていることはよく知られたことで、この構成については否定的な意見が大半を占めるようだ。

 この句を含む二句に付けられてたタイトルは「寒い夏」。このタイトルはいただけない。蜥蜴の腹があたたまらないのは、その年の「寒い夏」のせいだ、という答えになってしまっている。これは作品にとって大きなマイナスと言わざるを得ない。

 いずれにしても、視覚を通り越して対象物と同化し、その言葉を表現する、こういう作句姿勢に学びたいと思った作品である。


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 散る柳スリムK氏の背に肩に

 昭和54年、『方壺集』より。

 肉体といった場合に、楠本憲吉の全身をどのように表現するかは難しい。「我」では、精神的な意味が強いであろう。ところが、憲吉は不思議な表現を発見する。掲出の「K氏」である。もとより楠本憲吉氏の略称であるから、それ以上の情報が付加されているわけではないだろうが、彼の作品の中では「K氏」は妙に痩身の自己の肉体を際立たせているようなのである。

 K氏が帰る愛と死をその双翼に

 不惑K氏に夕陽全円熟れて落つ

 蟻が蟻の屍運ぶ参道 K氏が去る

 秋嶺見ゆ白面K氏の肩越しに

 蟇とK氏の隠微な散歩で夏逝く森

 中共見ゆ脚長K氏の双脚越し

 眼(まなこ)窪ませてK氏の避暑期去る

 金星泛べK氏山荘は四月尽

 冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン

 こんなたぐいなのである。確かに、「我」というよりは、小説の中の主人公のように客観化された存在が浮かび上がる。「A少年」「少女B」なら一層現代的だろうが、それだけ人の特定は難しい。「K氏」は目をつぶれば確かにそのシルエットが浮かび上がりそうな人物である、特に「K氏」の表記は軽薄な感じが楠本憲吉以上にふさわしい。ちなみにショートショートの神様星新一は、大半の主人公を「エヌ氏」にしている。中性的な感じがよい、「N氏」ではダメだというのである。ということで、昔の小説であれば、『阿Q正伝』の「阿Q」に相当するものといっておこう。

 「柳散る」は秋の季語。芭蕉に、「庭掃いて出るや寺に散る柳」があるが、あまり上々の句とも言えない。もともと、連歌では「一葉散る」といい桐の葉と柳の葉を広・細一対にして初秋の風情としたが、前者には「桐一葉日当たりながら落ちにけり(虚子)」の極め付けの名句があるのに対して、後者にはない。案外この句など、芭蕉に匹敵する句と言ってもよいかもしれない。

     *

 なお参考までに。「我」に独特の表記をしている歌人に前田透がいる。

 中国に行かぬ太郎が歩みおり今日乾き明日も乾かん舗道

 企業使用人太郎が出口に佇ちおれば平俗米人笑みつつぞ来る

 硝子かがやく資本の城に日が照りて太郎の負える責もむなしき

 <我、汝に何を為せばぞ>斯く三次(たび)打たるることを太郎は許す

 前田透の場合「太郎」が我である。膨大な全歌集を読み通すと、我の中に(歌人は、俳人に比べてはるかに我について語ることが多いのだ)時折、「太郎」が登場する。企業や資本主義の中での疎外された自己を歌うとき突然「太郎」が現れるようなのだ。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 晩春の肉は舌よりはじまるか

 「肉体」というテーマに官能的と思える句を選んだ。掲句、大正男の肉欲を想像させる。戦争の前線にいた男のセックスに違いがあるのだろうか。肉欲は率直である。けれど「はじまるか」である。舌という部位から身体の肉がはじまるのでしょうか、という率直な意味はもちろん、情事がはじまる予感をせしめるのである。現代の草食系男子というのは男の正道でない子供ということになり(よって男子なのだろう)、迷わず肉欲の男が男なのである(迷うことなく肉を選んだ@『男の滑走路』作詞・横山剣)。では、「晩春」とは何なのか、単なる季語としての背景ではあるまい。人生の季節で「晩春」を迎える男のエロス、同時にタナトスの到来を予感する寂寞の感が背景にある。「春」という語が俗であり雅であることを改めて想う。読み手側の心拍数の上がる句ということに違いはない。

 敏雄の官能句と思わせる句には、したたかにエロティックなものと、母者ものといわれるものがあるが、前者は男性視点で語られることが多く、後者は女性からの支持が多いようだ。実際、加藤郁乎は掲句を『眞神』のなかの最高作としていた(*1)。女は「する」ことにより、男は「みる」ことにより官能が刺激されるという説(*2)が関係しているのだろうか。

 時代背景としての話になるが、敏雄より10年若い吉岡康弘の『吉岡康弘写真集』(*3)は予想以上に強烈だ。人体、女性性器が肉のオブジェとして石ころ同様に映っている。篠山紀信氏が公然わいせつで家宅捜索を受けたレベルの露出度ではない。愛は肉からはじまる場合がある、いや、はじまるのである。「見ること、それは眼を閉じること」は、ヴォルスの言葉である。戦後1960年代、世界的に前衛(avant-garde)といわれる芸術活動が盛んだった。

 掲句が収録されている『眞神』に下記の肉体に関連する句もある。

 肉附の匂ひ知らるな春の母

 「春の母」とは何者なのか。単なる季節ではない『眞神』の時空とでもいえるものが春、青春の母。母の肉附の中に隠れている自分、水子かも一寸法師かもしれない自分を母は知らない。「春」という言葉により淫靡さを思いがちであるが、それ以前に自己のルーツと思える句であり『眞神』のキーとなる句と思える。二句とも昭和46年の作である(「肉附」の句が100句目、「肉は舌より」の句が102句目である)。

 體溫を保てるわれら今日の月 『疊の上』

 人閒も他の生物ぞ泣き泥鰌  『長濤』

 肉體に依つて我在り天の川  『しだらでん』

 敏雄は肉体を聖なるエロス、霊、たましいの宿る物体として捕えている。前述の吉岡康弘の女性性器も同じく聖なる物体なのである。遡れば、アルチュール・ランボーの『太陽と肉体』を見ても肉体を突き放しているところに詩として共通点を感じる。更に遡って聖書における肉(ヘブライ語:バーサール)は「霊」と対比された人間の物質的な部分、全存在を意味している。敏雄句そのものになるが、「肉体に依って我あり」のとおり人間の聖なる原点が肉体そのものだ。詩歌をつくるものに敏雄句の肉体に潜むようなエロスの神は、そう簡単に降りて来てはくれないだろう(*4)。

 そして掲句、またも、係助詞「は」の使用句である。


*1)『俳句季刊』昭和49年1月号/書評集『旗の台管見』(コーベブックス刊)収録

*2) 『オール・アバウト・セックス』鹿島茂/文藝春秋2002年

*3) 吉岡康弘(写真家1935-2002年)1961年、読売アンデパンダン展に出品した写真作品が「ワイセツ」との理由で開催4日目にして撤去された。吉岡康弘はそれに抗議するかたちで、撤去された作品を主に写真集『吉岡康弘作品集』を自費出版した(1962年)。寄稿者に中原祐介、滝口修造、黛俊郎、安部公房、勅使河原宏、石元泰博が名を連ねる。

*4) とはいえ、「女は無意識にエロスの句をつくる」と三橋敏雄がよく言っていたようだ(故・山本紫黄談)。やはり女は「する」こと、あるいは出産という生殖の神秘が無意識に言葉に働くのだろうか。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 虫送る生身の潤び女たち      

 第四句集「白光」所収。

 松明の灯の連なりが揺れ、晩夏の夜の湿った空気が肌にまつわる。農村行事、虫送りの光景である。神事の色彩もあるため、実際にはこの行事に恐らく女性は参加していなかったのであろうが、千空はそこから女性たちの「肉体=生身の潤び(ほとび)」の確かな存在を感じ取ったのである。

 千空には、ある種の野趣を感じさせる作品がある。例えば、

 快晴や土筆ちんぽこいちめんに      「忘年」

 雄の馬のかぐろき股間わらび萌ゆ     「白光」

などである。これらの作品を読んで、初めに想起したのは金子兜太の、

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

であった。この二人は創作活動においてほとんど交わることがなかった筈だが、それぞれがお互いを語るとき、お互いが抱く親近感が伝わってくる。それは二人が同年代であることに加え、こうした野趣を二人が根底に有していたことが影響していたからだと思えてならない。

 掲句にも、そうした野趣が認められる。そして、この野趣は「原郷としての津軽」を意識してこそ生まれてくるものである。横澤放川は、掲句について「濃厚な風土体質」を指摘し、千空の作品は「その風土が時代における人間性の普遍に達している」と言う(角川書店「俳句・成田千空の生涯と仕事」より)が、同感である。

 さらにもう一人、この句から連想するのは同郷の画家棟方志功である。志功の絵に描かれた女たちはいずれも生命力に溢れている。しかもその生命力は時空を越え、永遠性を感じさせるものである。譬えて言えば「縄文の生命力」だ。津軽は縄文の地であり、掲句の「火と女たち」から縄文の匂いが色濃く漂ってくるのである。


●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】11.12.13.14./吉村毬子

11 わが襤褸絞りて海を注ぎ出す

 海へ行き、波を被ったのか、着物のまま海へ入ってしまい、遊んだのか。海水に濡れた着物を絞る様子を詠んだともとれるのだが・・・。

 かつては美しかった絹の着物が「襤褸」となる頃、それを絞ると、歳月が「海」の如く溢れてくるのだと解釈したい。母なる海―女と海の関係は詩に詠われるものである。水を好む苑子は、海も好んでいた。女としての、昏く、そして華やかな人生を過ごした時間は、大海原を漂流した船乗りのように、その疲れ果てた「襤褸」から絞り出されるのだ。「わが」と強調したところにも思いが感じられる。それは、辛く透明な汗と泪の混じる深い青い色をした「海」なのであろう。

 「海を注ぎ出す」という表記に寄り、「襤褸」という語が稀な美しさを表出し、輝きを放つ。

 そして、「襤褸」と「海」の二語で、自身の人生という時間を十七文字で表現し得る俳句形式の強さを感じずにはいられない句である。

12 おんおんと氷河を辷る乳母車

 初めてこの句に出遭った時、(すでに二十年以上も前だが。)松本清張rの『砂の器』の父子が凩の中、海辺を黙々と歩く姿が重なった。

 「おんおん」と泣いているのは、赤ん坊か我か―。氷河は、「おんおん」と音をたてて崩れては、流れては、形を変えていく。全てが「おんおん」と鳴り響くその目くるめく怒涛の中、乳母車と共に氷河に身をまかせていくしかない女の姿。それは、女『子連れ狼』の如くにも感じられる。

 橋本多佳子の句

乳母車夏の怒涛によこむきに

とは、明らかな違いがある。夏の荒波にも耐え、しっかりと立つ多佳子の乳母車が、海に抱かれたその光景は、逞しくおおらかであり、爽やかでさえある。

 人は、平坦で緩やかな場所ばかりを歩んで来るわけではないが、苑子が「氷河」を舞台設定にしたその思いと覚悟は、如何なるものであったろうか。夫が戦死し、俳句を術に氷塊のような固く冷たい世間を歩けば、足元から崩れることもある。安定など有り得ない。大海原に浮かぶ氷塊を、乳母車と共に辷りながら、縋りつきながら生きていくことこそ、苑子の詠う母の詩である。苑子の生き様も描かれていると同時に「母」という名の精神性を最も享受できる句であろう。

13 貌を探す気抜け風船木に跨がり

 風船の空気が抜けて、木に引っ掛かっている様子であろう。大空は快適で自由であったが、いつの間にか風に流されて木に引っ掛かってしまったのである。

 空気がたっぷりと入って溌溂と大空を回遊していた風船が、時間が経つにつれて空気が抜けて萎んでいくことは、必然である。人もまた、時間経過と共に身体は衰えてゆくのだが、この句は「風船」を「貌」に喩えている。

 苑子は、少女の頃、お転婆であったと話していた。凧揚げや木登りもよくしていたらしい。無垢な強さを身に纏っていた頃を思い出しながら、静かに現在の己を見詰めているようである。

 歩いて来た俳句人生の道程を振り返りながらも、老年に差し掛かった将来への不安と焦燥を少しは感じるが、木に跨り、地より浮いたその場所で本当の自分を探している手段は、諦めに似た落ち着きを持つ。

 しかしながら、この句には、確かに自分を「気抜け風船」だと認識している倦怠が窺える。

 果たして「貌」は、何処へいったのだろうか・・・。

14 貌が棲む芒の中の捨て鏡

 前句の「貌」が行き着いたところか・・・。

 「風船」であったはずの「貌」は、生気を喪ったが、鏡の中で己を取り戻したのか・・・。

 見開きの右側一頁に、11・12の句、そして左側の頁に13.14の「貌」の句が置かれている。(毎回、この四句づつ書き進めているのだが。)13の「貌を探す・・・」と並べられているということは、意図的であり、意味を持たせているのだろう。

 この句は、苑子の代表句としてよく取り上げられる句である。

 倉阪鬼一郎氏も著書『怖い俳句』で解説している。

 いちめんの芒の中にぽつんと一枚、鏡が捨てられています。その中に、人知れずえたいの知れない貌が棲みついています。それがいかなる貌なのか、なぜ鏡の中に棲むようになったのか、俳句は何も説明してくれません。(中略)鏡を捨てた者が貌として宿るようになったのか、あるいは物の怪のたぐいが棲みつくようになったのか、これまた短かすぎる俳句の言葉は伝えようとしません。

  一読、誰もが倉阪氏と同じ思いを抱くだろう。

 俳句の形体に迷いがない。まず、上五で「貌が棲む」と言い放っている。そして、鏡が芒原に在ることも、想像を掻き立てるに事欠かない設定であり、その中に棲む「貌」は、異様としか言いようがない。

 鏡を捨てるということ自体が、非日常的であり、割れてしまったのかも知れないが、それは、不吉を予感させられると言われている。持ち主が亡くなってしまったのなら、形見としての存在が許されなかった女のものだったのか・・・。

 いずれにしても、鏡の中に棲む貌は、そこへ定住しながら生き永らえていくのである。芒は、陽光を浴びながらサワサワと揺れ続ける。逆行の夕景、晩秋の宵闇、枯芒の頼りない揺れの中も鏡はそこにある。まるで、古代よりその地に棲みつき、存在していたかのように。一筋の諦念を髪に携えながらも、終の棲家の鏡の中に納まっている。憎悪や復讐などは、とうに芒原の風に吹かれ、永遠に原野の一部となる。全てを捨てられ、捨てた貌は、怒りに満ちた貌よりもずっと恐ろしく見えるのではないか。

 今回の四句は、前回の叙情で詠う「母・女」よりも、更に激しく、母として、女としての性(さが)を焦点を絞り詠い挙げている。現代を生きる女性にも、その一欠けらは共感するものと信じたい。