2020年12月25日金曜日

英国Haiku便り(番外篇1) 白黒写真と旧仮名  小野裕三

 僕が在籍するロンドンの王立芸術大学で、先日、ある人の写真作品を囲んで数人で合評をする機会があった。壁に掛けられた彼の作品はすべて人体をモチーフにしており、かつすべて白黒であった。ある人が、「どうして君は白黒で撮るの?」と質問すると、彼は写真の中にある色の濃い部分を指差して言う。

 「ほら。この部分、液体みたいな質感がありますよね。僕は白黒写真の持つこの質感が好きなんです。カラー写真だと、この感じが失われてしまう」

 確かにその部分は、誰かの肉体の一部を写した静止写真であるにもかかわらず、あたかもそれが濃い色の水であるかのような液体的質感が感じられた。
 言うまでもなく、白黒写真は写真技術が発達する過程での過渡的な形式であり、今や我々が日常的に写真を撮る時に白黒スタイルを使用することはほぼない。映画やテレビなどの業界でも、稀な例外を除き、白黒で作品を作ることはない。白黒スタイルが意図的な選択として残るのは、芸術作品としての写真というジャンルだけだ。しかし、そのように一般的には廃れた技術が写真芸術においては意味あるものとして残るのも、それでしか表現できない質感があるからだ、ということなのだろう。
 そんな会話を聞きながら、はっと思い当たったことがある。というのも、俳句でも似たような現象が起きている。もはや日常的には廃れたスタイルであり、かつ小説や詩などの隣接領域でももはやそのスタイルが使われることはなく、にもかかわらず俳人のうちの少なからぬ人たちが採用し続けるひとつのスタイルがある。それは、「旧仮名」だ。僕の印象では、旧仮名もどこか白黒写真に似て、水のような流動的な質感をもたらす。実際、平仮名というもの自体が漢字を崩して書くこと、つまり文字を流動化させる過程で形づくられたものだし、そんな質感を平仮名は今も宿しているように思える。
 そして実は、俳句と写真にはひとつの共通する要素がある。それはどちらも基本的には「瞬間」を切り取る芸術形式であり、それゆえに「時間」の流れを扱うのは不得手、ということだ。そのような共通の性質を持つ写真と俳句で、それぞれにおいて白黒と旧仮名という、一般的には廃れたスタイルが現役のものとして少なからぬ人に使われ続けているのは興味深い事実だ。時間を扱いにくい代わりとしての何か別の流動的な質感を、写真家と俳人たちは古いスタイルを意図的に採用することによって獲得しようとしている。そんなふうにも思える。

(『現代俳句』2020年9月号より一部改訂し転載)

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