2018年3月9日金曜日

【新連載】前衛から見た子規の覚書(13)子規別伝2・直文=赤報隊・東大古典講習科という抵抗/筑紫磐井

【年譜①感想】
 7歳の差は、直文と子規に全く別の人生を歩ませる。特にその素養に於いて、子規の漢学に対し、直文の国学が対立していた。
 また、子規にもナショナリズム意識は強くあったが、直文のナショナリズムは「反骨」のナショナリズムであった。その意味で、子規の頭の上がらない陸羯南(日本新聞社社長)、国分青崖(日本新聞の文芸欄を担当した当代一流の漢詩人)と同様であったのである。子規のような第二世代のナショナリズムと違う鬱屈があったのである。
 ナショナリズムに関係する話題を掲げておく。

(1)薩摩浪士隊から赤報隊へ
 慶応3年、江戸三田の薩摩藩に結集した500名の浪士(この中に落合直文の義父落合源一郎直亮がいる)は西郷吉之助(隆盛)の命に従い江戸市内攪乱のため江戸城二の丸に放火するなどテロを行う。これを受けて幕府軍が三田薩摩邸を攻略し、衆寡敵せず薩摩邸は焼け落ち、多くの浪士が討ち死にしたり捕縛されたりしたが、一部はこの時海路をたどって辛うじて京都に帰着した者もいた。この時の、脱出した薩摩浪士隊総監が小島四郎将満(相良総三)、副総監が落合源一郎直亮(水原二郎)であった。京都で二派に分かれた浪士隊は、相良を中心に赤報隊を結集し江戸へ進軍し、落合ら一部は岩倉具視の幕下に残った。この経緯はよく知られているように、新政府の方針に従ったにもかかわらず、租税半減の布告をみだりに出したという罪で「偽官軍」とみなされ、下諏訪で鎮撫総督である(岩倉具視の子)岩倉具定によって処刑梟首された(有名な「赤報隊事件」)。怒った直亮は岩倉具視の暗殺を企てるが、明治天皇の父孝明天皇を毒殺したといわれる怪物岩倉にとても敵するものではなく、かえって言いくるめられ相良が刑死した伊奈県の大参事に栄転させられた(この地で直亮は相良らのために魁塚を立てている、刑死者に対しては異例の扱いであり、直亮の反骨精神がよくうかがえる)のち、半年でこれを失脚させられ(前田は、明治4年に政府を転覆しようとした第2維新事件との関係を推測する。)、官途を絶たれて宮城県の塩釜神社宮司となった。明治維新に貢献した草奔諸隊の末路はおおむねこうしたものであったらしいが、とりわけ岩倉具視の非情と、相良・落合の不運がこれでよく分かる。後年落合直文が筆記した義父(直亮は神道仙台中教院統督時代の教え子の直文と長女松野を婚約させる)の伝記では「薩藩のために走狗となりたるのみ」と言わしめている(「白雪物語」)。落合直文はこうした義父に育てられたのである。

(2)東京大学文学部と古典講習科
 東京大学に入学したのち、直文も不条理な扱いを受ける。入学直後、突然直文は徴兵を受けるのである。当時大学生は徴兵の免除を受けることができたから、いかにも不可解な徴兵であった。この事情はいまだに分からないミステリーである(朝敵の伊達藩で処罰された実父を持つこと、義父の様々な岩倉具視暗殺未遂や反乱事件なども影響したのではないかと私は思ってしまう)。加藤弘之総長を含め東京大学を挙げての大問題となったようだ。ただ徴兵は撤回されず、いずれにしろ、3年間の兵役は直文の勉学にとり大きな打撃であった。ただ、子規と違うのは、営内でも勉学を続け、退役時には東大古典講習科の卒業者の誰に劣らない学力を示したことである。本質的に学問の人であった。
 このため退役後は、ただちに皇典講究所(国学院の前身)の講師などを務め、「東洋学会雑誌」にも寄稿する。この雑誌に掲載されたのが、かの「孝女白菊の歌」であった。直文の文名を一躍高からしめた作品である。「孝女白菊の歌」については次回述べることとし、ここでは、大学の関係について述べよう。
 「東洋学会雑誌」は東京大学古典講習科関係者の創刊した雑誌である。類似の名称の雑誌に「東洋学芸雑誌」があり紛らわしいが、これは東京大学文学部系の雑誌で、前述の井上哲次郎らが編集をしており、『新体詩抄』の作品の一部もこの雑誌に掲載されている。
このように、当時の東京大学は正統派の文学部と、江戸時代の国学派の系統を引いた小中村清矩(『歌舞音楽略史』で有名)、久米幹文らの教師を中心とした古典講習科の新旧二派に対立していた。官学派・正統派と旧派といってもよいかも知れない。古典講習科は明治15年に創設され、直文はその第1期生であったのだが、やがて、明治21年にこの科は廃止されるという短い運命であった。直文の不条理な徴兵という事件も含めて、古典講習科にはそうなる宿命の暗い事件が幾つかあったようである。
 正統と旧派といったが、これは飽くまで官学派が西洋的な分析的研究手法に則っていると言うまでの話であり、古典講習科は、国学者が集まっているだけに研究と実作を伴う総合的学問と見てもよいのではないかと私は思う。
 正統文学部の系譜は、その後上田万年・三上参次・芳賀矢一・藤岡作太郎と続くが、古典講習科には『於母影』の協力者であった落合直文・市村瓚二郎や、池辺(小中村)義象・佐々木信綱・和田英松などがいた。そしてこれらの学生や教師が後の国学院大学の源流となるのである。
 そして後者の代表の一人として、直文は席を暖める暇もない程に講演や授業で奔走していた。森鴎外が接近したのも、官学派ではなく在野の古典講習科関係者であったようだ。
   *     *
 先に子規の東大批判を述べたが、同じ東大文学部批判と言っても、子規の時代では既に大学の枠組みができあがっており、これをもとに東大文学部批判をしているにすぎない(東大対早稲田)。しかし直文にあっては、東大の文学部派と古典講習科との対立のさなかにあり、学系形成の過程で、ようやく在野派の色彩を強めつつあったのではないかと思われる(古典講習科は国学院に協力した人が多いから、いってみれば「東大対国学院」の対立といえようか)。

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