麒麟さんの俳句は置いてけぼりの人の俳句だと思っていた。
見えてゐて京都が遠し絵双六
みんなはすでに京都でキャッキャウフフ。
友達が滑つて行きぬスキー場
きっと本人はまだスキーを履いているところ。
計算ではなく、なぜだか当然のように置いて行かれる人なのだ。そして、少し遅れた位置から、みんなのことをいつも見ている。そのことをポジティブにもネガティブにも感じていなさそうなところに、好感が持てる。
何の鮨あるか見てゐる生身魂
岡山へ行きたし桃を五つ食べ
一句目、賑やかにご飯の準備をする人たちを尻目に寿司を物色していると、なんだか自分が違う次元の存在になったような、生身魂にでもなったような気分になる。二句目、会いたい人でもいるのだろうか。「今頃岡山では…」と考えているとそわそわしてきて、それが治まるのには桃が五つも必要だったのだ。置いてけぼりの人の暮らしは、面白くて少しキュンとなる。
少し寝る夏座布団を腹に当て
秋風やここは手ぶらで過ごす場所
冬の雲会社に行かず遠出せず
みんなといるより、一人が好きな人だと思う。どう過ごしているかというと、とことん何もしない。起きない、持たない、出かけない。暇な時間は暇でいるためにある、と言わんばかりに過ごす。なので、「夕立が来さうで来たり走るなり」なんて句に出会うと、飛び上がってしまう。走るんだこの人…。
少し待つ秋の日傘を預かりて
妻留守の半日ほどや金魚玉
妻と暮らしても暇だ。彼女があれこれ用事をしたり出かけたりする一方で、自分はぼんやり待っている。あるいはここでも、妻に置いてけぼりを食らっているとも言えるかもしれない。
ところが、よくよく読んでみると置いて行かれてばかりではないことに気が付く。
金沢の見るべきは見て燗熱し
金沢には見るべき場所が山ほどあって、2~3日ではとても回り切れない。タイトな観光でへとへとの人達がようやく宿に帰ってくると、彼は「見るべきは見て」とっくに熱燗を始めている。置いてけぼりにされたのは、こちらの方だったのだ。
朝食の筍掘りに付き合へよ
踊り子の妻が流れて行きにけり
誰よりも早起きして、筍掘りに行こうとみんなを起こして回る。ちゃんと散歩を兼ねた下見も終えて、早く案内したくてしょうがない。踊りの輪にも、入り損ねたのではないのだろう。彼自身はすでに2周3周と踊り進んでおり、その状態から妻を見ているのではないか。
こういった観点から『鴨』を読み返すと、同じくらいの立ち位置から景を見ていたつもりだったのに、実はどの句も何周も先の地点から読まれているような気がしてくる。そんな時私は麒麟さんが「現代の隠者」や「仙人」と評されることを思い出し、改めて納得してしまうのである。
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