2018年4月27日金曜日

【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい6 鴨評  安里琉太

 北斗賞受賞作「想ひ出帳」については、ちょっと頑張った文章を書いたので、今回は気ままに一句ずつ好きに書こうと思う。
第一句集『鶉』は秋から始まっていた。この第二句集『鴨』は新年から始まる。どちらの句集も始まり方、終わり方が全体の雰囲気と密接に関わっている。

見えてゐて京都が遠し絵双六

 絵のはなしは絵空事になりやすいから難しいのだけれど、『鴨』には屏風や絵が程よく出てきて嬉しくなる。高橋睦郎氏に「振りふりて上ガれば京や雪ならん」なる句があるが、この京都と京の違いは案外大きい気がしている。

宝舟ひらひらさせてみたりけり

 「ゐたりけり」だと笑えすぎちゃう気がする。試しに、手持ち無沙汰で、という感じがすこし笑えていい。クスッとした後に、ひらひらしている宝舟の透け具合とか、色合いとか、そういうところが見えてくる気がする。笑えすぎちゃうと、こういうところに目が行かない感じがする。

初雀鈴の如きが七八羽

 すずめ、すず、というように音で展開している。そんなに大きい鈴ではなく、お守りなんかに付いている程度の小さいやつだろう。この比喩は鈴と言いながら、音でもなく、また完全な見立てでもない。思いつくところ、光の当たり具合とか、サイズ感とか、揺れ具合とかである。比喩に収まっているのではなく、比喩が広がりをもっている。

蛇穴を出てゑがかれてゐたりけり

 蛇穴を出るという季語の、その後の展開を如何に面白くするか、という作り方に腐心する句を私はよく見る。「蛇穴を出て」と、ちょっと大喜利的な感じがしないでもない季語だ。そっちの方向に陥りすぎず、詩に昇華したいのである。なるほど確かに蛇穴を出てからしか書けないのだけれど。

日の如く印度の月や涅槃像


 この比喩も不思議である。涅槃像というけれど、これは涅槃図のなかのことと読みたい。日に月を例えるというのもすごいのだが、経年劣化した月が次第に赤みを帯びて太陽に見えるというのは、凡庸の比喩ではない。何か現実世界の月が降りて、日が昇って、を繰り返している間に、涅槃図の月が古びて太陽になったような、そんな不思議な時間の感覚や幻想を立ち込めさせるように思う。

早蕨を映す鏡としてありぬ

 評しづらい、或いはほかの言葉で言い換えられないということは、かなりの大成功なのだと思う。その詩が唯一としてあるように思える。

蛤の水から遠く来たりけり

 今井杏太郎に「蛤を焼けばけむりのあがりけり」があるのを、ぼんやり思い出した。とんでもなく当たり前なんだけれど、どこか蜃気楼っぽいかんじもする。この句、「(誰かが、或いは私が)蛤の水から遠く来た」とも「蛤が水から遠く来たのか」とも読めるが、どちらが良いだろう。私は前者の方が好きである。

  月光や椿の杖を遊ばせて

 いよいよ仙人っぽい感じがする。

  食べ応へある白菜を神様に

 『鶉』には「けふの月野菜を持参したる人」、「初雁や野菜どつさり持ち帰れ」という句がある。農家と言うよりほまち畑のようなものなのかもしれない。野菜がつなげる関係。

  蜷の道水面に何があらうとも

 mやnの鼻音に、なんだかまろやかな印象を思う。そのためか、水面の印象もそれに沿ったものを思い浮かべた。「何があらうとも」と言っているものの、何ごともなく過ぎ去っていく時間を思う。

  春風やまだそこにある烏瓜

 秋からずっとある烏瓜というより、最近見た烏瓜が、或いは来るたびにある烏瓜が、として読みたい。

  雨に冷え月に冷えたる蟻地獄

 「蟻地獄」と「月」と「冷え」の三つが季語のように思われるが、どれが中心的に働いているのだろうか。「蟻地獄」が夏だと「冷え」の感覚が追い付かない。では、この二回使われた「冷え」がそうかと考えてみるものの、それも違うように思う。この「冷え」は実際の「冷え」のみを言いたいわけではない。「蟻地獄」を雨が物質的に溺れさせ、冷える。雨がひいて空虚になった蟻地獄は更に月明に溺れて、冷える。二つの特性の違ったものによって冷やされていることを考えると一つ目の「冷え」と二つ目の「冷え」が違っていることが分かる。そして、その何れも非常に観念的な「冷え」を内包しているように思える。残るは「月」だが、これが他の二つをうまく包括しているように思える。長雨のあとのすさまじい月明。「雨」とか「月」といった天文の言葉と「地獄」という言葉の出会いが、観念的な「冷え」を何か空間的な大きさにまで広げているように思う。かなりレトリカルな印象だ。
 まだまだ挙げたいところだが、キリがないので、ぜひ『鴨』を手にとってもらえればと思う。そして、この句集について、一緒に話せればと思う。

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